若いきつねと三十路のたぬき 作:負けた社畜
やあ (´・ω・`)
ようこそ、盆休み返上へ。
このエナドリはサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。
うん、「エロ」はないんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝るけど絶対許して。
でも、この話を見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない「ときめき」みたいなものを感じてくれると思う。
殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい
そう思って、この癖を書きたいんだ。
じゃあ、注文はFly away。
日々の通勤の途中で、ふとその香りは俺の足を止めた。それは生垣に植えられた木のつけた花のものだった。花自体は小ぶりで、目立つものでもないだろう。しかし、その花の着飾りは見た目に
金木犀といえば、なんといっても吸い込んだ途端に鼻腔をくすぐる、“華やかさ”をイメージさせる香りだろう。
だが、個人的にはこの匂いを感じて、あぁ夏が終わったのだなと自覚する。実際、金木犀は秋の季語なのだからその認識も間違いではないだろう。
金木犀は江戸時代に大陸から渡来したという説もあれば、九州原産のウスギモクセイを増やしていったという説もある。実際に静岡には樹齢1200年の金木犀があるそうだが、だとすると江戸時代に渡来したという説は合わない……いやはや、考察するだけでもロマンを感じられる話じゃないか。
少々、香りを楽しんだ俺は会社へ向けて歩き出す。あと数週もすれば散ってしまう花に会えることを来年も心待ちにして。
……仕事の終わらない立ち止まった俺を、季節は一足飛びで追い越して行った。半袖でも堪らないような茹だる夏はいつの間にかジャケットが必要なぐらいの秋……いや、秋か?春と秋どこいっちゃったんだよ。そんな秋を自称する冬のステルス攻撃を受け、体調を崩す人もちらほら。
ごほりごほりと咳撒き散らすように姿見せたハゲ
寒暖差が激しいので体調管理を徹底しろなんて、そんな聞かなくても分かることを言わないでもらいたい。朝礼で。君だよ、君なんだよ風邪ひいてんのは。マスクしろやクソボケ。星空になれ。
こーれ後から「体調悪くなったので早退します」かーらーのー「インフルエンザでしたテヘペロ」の流れあるで。マジマジ。最近
「
「
「
なんだろう。すごく感じる。かつてないほどの一体感を。
この部署がこれほど纏まった事があっただろうか。さすがに空気の読めない
────課長会議の代理出席という置き土産を残して。
勿体ぶって勿体ぶって最後の最後に爆弾を置いていくあたり、本当にあの
こういう時のジャンケンほど恨めしいものはないと思う。一人一人と同僚は勝ち抜けていき、最後まで残った後輩と8回の
そうと決まれば根回しである。どこかの有名な軍師は『奇を衒う必要無し。確実に備えて勝てば良い』と言っていた気がするし、まずは他部署の方々に
……さて、海外で辣腕を振るっていたとってもお堅い本部長がお見えになるらしいこの会議。
なので進行中のプロジェクト進捗状況をまとめて発表し、後は
いざと言う時の為に作った
───さて、夕方。ノイズがないというのは素晴らしく、仕事が捗って仕方ない。みんなも同じだったようで、溜まっていた案件が次々片付き定時で帰ってゆく。俺もそちら側が良かったが、まあ、いいだろう。
「そろそろ会議行きますわ」
「おう、たのんだぞ」
先輩にタスク終了を報告し帰り支度をまとめる。向こうも終わったようでオフィスを閉め並んでエレベーターフロアへ。これから俺がやらかす事を共有してあるからか、お互いの顔を見てはニヤニヤとやらしい笑みが止まらない。
チン、と音がしてエレベーターが到着。意気揚々と乗り込もうとして……。
「ヒィ!!」
「うおぉ!?」
扉が開いた瞬間、そこには幽鬼がいた。垂れた前髪とマスクの間から覗く殺気の籠った目。壁に寄りかかって腕を組む様は、様になりすぎて怖い。よくよーく見てみたらそれは我が社の誇る大エース、バリキャリ女様だった。
「あ、俺あっちだわー!じゃ!」
「ちょっ先輩!?」
逃げやがった。
「…………乗るの?乗んないの?」
「の、乗りますぅ……」
ガラガラヘビもびっくりのガラガラボイス。聞きようによってはハスキーさが増したとも言える……いや言えねーわ。普通に心配なレベルで声枯れてる。
「とりあえず、のど飴なめる?」
「……貰っていいかしら」
「あと喉スプレーと、うがい薬と、漢方薬と」
「ちょ、ちょっと待ってどれだけあるの」
「とりあえず考えられるものは全部持ってる。乾燥してる時期だしな」
「あなた石橋を粉砕して渡るタイプ?」
「コンクリートで塗り固めるタイプ」
以前、発熱し会社でぶっ倒れてしまった反省として常備することにしたのだ。おかげでその時から寝込んだりということは無い。
え、体調悪いなら会社休め?それはそう……けど次の出勤でタスクが増えてるんだもん。
「それで、今日の会議はあなたが出るの?」
「そうだよ俺俺」
「私、そんな余裕あるように見える?」
「アッハイ大変申し訳ソーリー」
舌戦でバリキャリ女の神死鎗を放たれる前に尻尾を巻いて撤退。龍さんと角さんの飴で多少持ち直した彼女にはメールで共有した通りの事ともう一つ、仕込んでいることを伝えると小さくため息を吐いた。
「それ、私も巻き込まれるやつじゃない」
「なるべくそうならないようにする。頼むよ、お礼になんでもするからさ」
「なんでも、ね……」
これは、できない約束だが。営企課の課長を吊るしあげるなら、関わりの深い総予課は絶対に意見を求められる。まぁ
これで会社が変わらないようなら……いよいよ、見切りをつける時かもしれないな。
───そんなこんなで、会議。俺は慣れてない事を理由に他部署の課長様達に順番を変更してもらいトリに回してもらった。厳かな空気で進んでいく中で、ついに俺の登板と相成ったわけである。
本部長はニコニコ笑顔の素敵なナイスガイ。グレーのスーツをビシッと決めたいで立ちで、焼けた肌がよく似合うきっと洋楽好きな人だ。お目にかかるのは入社式以来ぶりで向こうは俺の事なんか覚えちゃいないだろう。
ついに壇上にあがり、まずは各プロジェクトの進捗状況を説明し報告は終了。そしてある程度時間の経ったところ……俺は秘めていた計略を発動させた。
「さて、次の報告事項に移らせていただきます」
シームレスにスライドを差し替え、一声かけて注目を集める。
表示された珍妙なものに、全員がぽかんとクエスチョンマークを浮かべた。バリキャリ女だけが顔を伏せ、この後に起こることを想像しているのだろう。
『
なんてことはない。俺が
熱い男本部長は
やはり人を褒め称える際の弾数は多ければ多いほどいい。先輩、後輩から入手した物も特別大サービス。ダイジェスト形式にまとめたものをポイポイと投下する。
「……君、この事は部長に伝えたか?」
「お伝えはしましたが、一向に改善されていません」
「これだけのモノだ。発生したミスはどうした?」
「総予が全面的にフォローを入れてくれています。彼女らの協力が無くなれば一気に崩れますね」
うひょ~~~怖ぇ~~~。笑顔が怖ぇ~~~~。笑顔とは本来攻撃的なものであり獣が牙を云々。
「君、そのUSBをもらっても?」
「ええ、原本は幾らでもあるので、他のものが欲しければ仰ってください」
「年末までにカタをつける。すまないがそれまでは内密に頼む。ここに居る者達もそのつもりで」
今日、俺は一石を投じた。それがどう転がっていくかまだ分からない。だが後悔だけはしたくない。どんな結果になろうとも。
会議はお開きとなり、結果を言えば後日営企の皆に対して本部長から1対1面談の申入れがあった。
……まあそれはそれとして、会議の途中からバリキャリ女の様子がおかしかった。頭を押さえるような仕草をして、かなり体調が良くなさそうに見える。現に他の人達が退出した後も、彼女は席を立たず、一息ついたあと突っ伏してしまった。
「大丈夫か?」
「………………大丈夫」
そういって顔が上げられるも、どう見ても大丈夫そうとは思えない。額に貼り付いた髪。不自然に顔が赤い割に手先が震えてしまっている。身体が悪寒を感じているようだ。
会議前には声をがらがらに枯らしていたし、乾いた咳もしていたとなれば喉からくる発熱をしてしまってもおかしくない。
うーん、申し訳ないことをしたな。体調が悪いにも関わらずフォローしてもらったり、会議を変に延ばしてしまった俺にも責任があるだろう。
「保険証あるか?」
「……ある」
「病院行った?」
「まだ」
決まりだ。幸いにして駅前のクリニックであればまだ間に合う時間。その場で予約。
ぽやぽやした返答をする彼女を連れ…てみたものの、足取りも非常に怪しい。これはいかんとバリキャリ親衛隊のI子とU美に連絡してみるも『どうしても予定が外せないのでテメーが連れていけ(意訳)』と返ってきた。
どうやら彼女たちもバリキャリ女の体調不調には気付いていたし早退を提案したが、この会議が外せないと無理してしまったようである。どこぞの
責任感があるのはいいけど無理は良くないよ……とは口にしないでおく。彼女の努力を無駄にしてしまうからな。それに俺も、立場が一緒だったら同じ事をしてしまいそうだ。
「俺が連れていくしかない、か」
偉大なる同期バリキャリ女さんには以前俺が体調を崩してしまった際、お世話になったこともあるし恩返しすべき時は今日だろう。
予想通り、肩にもたれ掛かった彼女の身体は熱く、思った以上の発熱がある。この痩身に様々な重責を背負っているのだから頭の下がる思いだ。
「ほら、肩貸すからちょっとだけ頑張ってくれ」
「……ありがとう」
───駅前のクリニックで発熱外来の診察を受け、彼女に下った診断は「疲労と扁桃腺炎から来る発熱」とのこと。
幸いにも流行りのインフルや何某ではなかった。確かに最近会社は忙しかったし、彼女も残業が続いていたそうだからあまり休むこともできなかったのだろう。少し安心したが、まだ彼女の発熱が治まったわけではない。
幸いなことに明日は休みだから、そこは救いと言えるか。治療を受けて処方箋を受け取り、いざ家路へと足を向けようとしたところで気づいた。
「確か、一人暮らしだよなぁ……」
独身OL、体調不良で家に帰っても看病してくれる人も無し。いとかなし。おれ、心の短歌。
俺も人の事を言えたわけじゃないけどな。んで、迎えも無いのに今の状態の彼女を一人で帰らせるのも不安だ。途中で倒れたりしたら元も子もないし、そんなことになればI子とU美にどんな目にあわされるか分かったもんじゃない。
「嫌じゃなければ家まで送るが……どうだ?1人で帰れるってなら俺は消えるが」
嫌って言われたら即帰る所存でございますはい。そんな決意の夜。かと思えば非常に弱々しい力で手のひらを摘ままれる。
「やだ」
えぇ…どっち?これはどっちだ?
「帰るの……一人になるのやだ」
「一人になりたくない?」
こくりと頷くバリキャリ女さん。どうやら体調を崩して寂がりモード発動のよう。そうだよね、風邪ひいたときとか心細くなるよね。わかるわかる。
であれば、ここは寄りかかれる強さを見せるべきか。一人暮らしの女性の部屋に上がるのも憚られるが、状況がこれであるから仕方ない。
「分かった。送ってく」
タクシーを捕まえ駅前を離脱。目的地を伝えしばし、これから忙しくなっていく夜を眺める。繁華街はこれからピークとなっていくんだろう。その証拠に飲みへ繰り出すサラリーマンや大学生らしき集団など様々な流れが目に入る。俺たちはその流れに逆らうわけだが。
ぽすり、と肩に彼女の頭が乗せられた。目を閉じ、辛そうな呼吸をする彼女の体調が少しでも楽になればいいと払い除ける事はしない。しばし……タクシーが家に着くまではそうしていただろう。
彼女に教えてもらった住所に着くと、そこには結構なマンションが
ゴミ捨て場が綺麗だということは、そこに住んでる人間たちがちゃんと分別していて、ゴミの日を守るモラルのある人達だという事。そういうのをきちんと守るなら、他のルールにもちゃんと従う。物件探しの際にゴミ捨て場を見ろと言われるのはそういう所以だ。悲しいことにだいたい家賃は高いんだなこれが。
「ほら、着いたぞ。あとちょっと頑張れるか?」
「……うん」
やはり外気の寒さには震えが出てしまうようで、彼女は鍵を取り出すのにも苦労している。発熱により視界がフラついているようで……こりゃあだいぶ重症だ。
「カバン、貸してくれ」
「…………キーケースが入ってるから」
嫌がられたら割と傷つくが、俺の羽織っていたコートを彼女の肩にかける。言われた通りのキーケースをなんとか見つけエントランスドアを開けることができた。
エレベーターで上階へ。みるみる上がっていく階数にちょっと落ち着かなくなってきたところ、最上階にはならない程度の所で止まる。まあなんと眺めの良いことだろうか。
「おっ、と!?大丈夫、か……!?」
エレベーターを降りた途端、かくりと膝の力が抜けてしまったバリキャリ女を支えようと咄嗟に手を伸ばす。スーツの上から感じたじっとりとする嫌な体の熱さ。
なんとか転倒は免れたものの、このままエレベーターホール前を塞ぐのも良くないし、見ようによっては知らない男が住人の女性に襲いかかってるとも思われかねない。もうこうなってしまったら俺が抱えてしまう方が早いまである。
「よっ……!」
背と膝に手を入れ横抱きに彼女を抱え上げた。思っていたよりも軽いけれども、全身にかかる人の重みは如何ともし難い。
仕方ない状況だから我慢してくれよ。あと住人の皆々様におかれましては、くれぐれも今だけは顔を出さないよう何卒お願いします……。
そんな俺の願いが通じてくれたのか、鉢合わせることなく無事に彼女の部屋へと辿り着く事ができた。そこ、撮れ高無いとか言わない。緊張でマジ死にそうなので。
廊下を進んで突き当たりの角部屋、エンジ色のこれまた高級感ある玄関ドア。ただ、ドアを開けるという行為も人を抱えながらじゃひと苦労だ。 そろそろ悲鳴をあげだした二の腕やらに喝を入れ、情けない声を漏らしながらもなんとか辿り着いた。
「……ほら着いたぞ。後は何とかできるか?」
「…むり………」
うん、ダメみたいですね。ちょこんと腕の辺りを摘んでくる彼女の細指は力もなく、縋り付くような様に庇護欲と罪悪感が入り交じった感情が湧く。
もうちょっと会議を早めに切り上げて、個人的に本部長の元へ行けば良かったのではないか。会社を上げて巻き込むために全ては必要な事だったと割り切っているが、後悔がないかと問われればそれもまたNOだ。
足を踏み入れた部屋は華美な装飾はないが、いくつか目に優しい観葉植物を置いてあったり、部屋に調和した暖色系の良さげなソファが置いてあったりとバリキャリ女さんのセンスの良さを窺わせる。必要なものだけ転がっている殺風景な俺の部屋とは大違いだ。
目についたソファに彼女を座らせ、腕やら腰やらの解放感で大きめに息をついた。
しかし、ここ二、三日は体調が良くなかったらしく、洗濯物や洗い物が溜まり気味。あまり他人のものを覗くのは良くないけども勝手わからぬ他人の家、少し見回すぐらいは許して欲しい。
さて、どうする。
バリキャリ女様には、以前風邪を拗らせた俺を介抱してもらった。ここで俺が何もせずに帰るというのも恩知らず過ぎるし……かといって、俺のやり方で洗濯やらをしていいものなのか。見られたくない物もあるかもしれないし。
「一先ず置いとく……か」
後でバリキャリ女が回復したらその時に聞こう。そうとなれば飯だ。薬を飲むにしたって、食後に指定されていたはず。腹に入りやすいうどんでも買ってこよう。
「すまん、買い物に行ってくるからその間に着替えられるか?」「……」
バリキャリ女は緩慢な動作で首を縦に振るのみ。とろんとした目が前髪の間から覗く。普段の辣腕を振るう強かな彼女を思えば、目の前の弱った姿はまた新鮮だ。決して他人に弱みを見せない彼女の弱った姿に……少し、見惚れてしまったのも許して欲しい。
───買い出しに赴き、食材やら水分補給の物や冷感シート等を購入した。先にストックがあるか聞けば良かったとも思ったが、そうなったら持ち帰ればいいだけの話。普段からクソお世話になってるのだからこのぐらいは返しとくべきだ。
I子とU美にも情報を回して再度救援を求むも『テメーが手厚く介抱しろ(意訳)』とのお達しが返ってきた。
補給線はあえなく途絶、玉砕を覚悟せねばならなくなった。玉砕しちゃうのかよ。
そんなこんなで俺が買い物に行っている間に、バリキャリ女さんは何とかダル着に着替えたらしいが、ソファの上で何故か俺のコートを掛け布団代わりにして力尽きていた。ソファに置きっぱなしのスーツやらはハンガーに掛けておくが、後でコートは返してくれよな。
仕方なしにコートはそのままにして、買ってきた食材を広げ飯を作ることにした。我が家のママ上様直伝の生姜かき玉煮込みうどんですわよ。
俺が子供の頃に熱を出した時はこれをよく作ってもらったんだ。姉や弟が寝込んだ時に俺も作ることがあった。習っておいて良かったと思う。
だいぶ柔らかめになるまでテロテロに煮込んだ一品。いやー、会心の出来。
「ほら、メシできたから起きてくれ」
「……ぅん」
なんだか、いきなり布団を捲られた犬がこんな顔した動画があった気がする。そのぐらい目がシパシパしてる。起こすのも忍びないけども、薬を飲むには胃に物を入れてもらわないと薬剤性潰瘍になっちゃうかもだからね。
バリキャリ女が顔を上げた隙に前髪を上げ冷感シートをぺたり。彼女の白い肌は上気し、汗ばんでいる様子も見て取れる。相変わらず体調はダメそうの一言。
「食えるか?」
「……」
彼女は無言で口を開け雛鳥のように待つ。ちょっと待て、おいちょっと待てなんだその動きは。
「……?」
「……ん?」
「なんでも、してくれるんじゃないの?」
「えっ?」
そんな事言っ…………てた。記憶を辿ってみたら数時間前の俺が大変な非常に激しく迂闊な発言をしてた。巡り巡ってその時の発言が俺に帰ってきたわけだ。つまり、まあ、俺に食べさせろということですか。
彼女の目を見てみれば、ジトっとした目がどうやらそうらしいことを物語る。
腹を括るしかない。
彼女のしゃなりとした髪を耳に掛け、十分に冷ましてから彼女の口元へと運んだ。存外滑らせずに掴んでいるのも難しく、プルプル揺れてしまう箸先が鬱陶しい。緩慢な動作で薄い唇をなぞれば、彼女はうどんへと吸い付いた。
ふと見えた口内。小さな舌に綺麗に並ぶ白い歯と、赤く腫れた喉。ここまでの腫れなら、飲み込むのもさぞ辛いだろう。柔らかいものにして正解だったのかもしれない。
吸い上げて数度の咀嚼。喉元がぐっと持ち上がり嚥下する。
「……おいしい」
良かった。食事の味を感じられるあたりはまだ救いだろうか。少し掠れた感嘆が弱々しく消えていく。
そうしたらまた、彼女は口を開き次を望んだ。もう一度、冷ましてうどんを口元へ運ぶ。薄味にしたものの、不満は無さそうで一安心といったところだろう。飲み込むのを待って次を用意する。
「……」
「ほら」
そのやり取りを何回か何度目かしたところで、はらりと彼女の頬に雫が伝う。
「……あれ」
「な、なにこれ」
降り出してしまえば、ぱらぱらと続いて雨が降る。つらつらと顎を流れて、ぽたぽたと染みていく。涙を流した本人ですら、落ちてから気づく清い流れ。どうやら、張り詰めた弦が切れる前に弛めることができたらしい。
どうするべきか。触れないでやるべきか、それとも傘を差し出すべきか、共に泣いてやるべきか。少なくとも、俺なら人に泣き顔を見られたくはない。ここらで潮時だろう。
「じゃあ、それ食べたら薬飲んで休めよ。週明けも優れないようならI子とU美が何とかしてくれるさ」
帰るとしよう。頭の中でここから最寄り駅までのルートを考え、荷物を纏める。彼女の肩に掛けられたコートを手に取ろうと伸ばした所で、白く細い指が弱々しい力で縋り付いてきた。
「え、と」
朱が差す頬。熱で浮かされた視線がちょっとの間彷徨う。仕事の時の即時判断一刀両断の辣腕はなりを潜め、何かを求めるか細い女がそこに居た。
なるほど『涙目の上目遣いというのは最弱にして最強の破壊力を持っている』とはよく言ったものだなE藤。今にしてようやく分かったよ俺。
「その、帰らないで欲し……まだ、いて欲しい、な」
ほんの少しだけ大気を揺らした言葉。耳に届く頃には解けて消えてしまいそうな熱。呆気にとられた俺が言葉を返せずにいると、彼女は引き留めが弱かったと思ったのか更に言葉を重ねる。
「え、えっちなこと……してもいいから」
「おバカ」
風邪で弱ってるやつを襲うほど落ちぶれてはいないつもりだ。だが、自らの身体を差し出して引き留めようとするなど、バリキャリ女は俺に対してよっぽどスケベなイメージを抱いているのだろうか……。
「そんな事しなくてもお願いぐらい聞くっつーの」
そう言って彼女の額を軽く突ついたら、顔を赤くしたままふにゃりと表情を和らげた。ただの同期。ただの同僚のはずの彼女。
綺麗だと思ったことは何度もあるが、可愛いと感じたのは、これが初めてだったのかもしれない。
男
大親友、おいしいうどん作ったお前
女
お熱出ちゃって弱々モード