今日のレッスンは、これくらいにしようと言われたとき、クリスティーヌ・ダーエは頷きながらも、わずかな不満を抱きながらも、それを顔にも言葉にも出さなかった。
だが、そんな彼女の様子を男はしっていたのかもしれない、いや、感じ取ったといったほうがいいだろう。
おまえの心はここにあらずだと言葉を続けた。
彼女は、はっとしたように男を見るとマエストロと呼びかけた。
「あの若造は随分と周りから責められているようだね」
おまえのせいでと言いたげな視線を向けられて、クリスティーヌは言葉を飲みこんだ。
ラウル・ド・シャニュイ、貴族の二男坊がコーラスガールの自分との付き合いを周りに隠すことなく、公にするようになったのは最近のことだ。
最初は若さ故だなと仲の良い友人たちは笑いながら、その話で盛り上がっていたが、愛人ではない彼女と結婚するつもりだと真剣な顔でいいだしたので、まずいのではと心配するようになった。
知っているのが仲のいい友人だけならよかったが、青年は、それを親代わりの兄と親族にまで隠すことなく話したのだが、これがまずかった。
兄のフィリップは親戚中から、一体どんな教育をしているのかと白い目で見られ、シャニュイ家はこのままでは、お終いだと辛らつな言葉を投げつけられた、それだけならよかった。
新しく始めた事業の資金繰りがうまくいかず、懇意にしていた愛人を他の貴族にとられてしまい、フィリップは弟同様に貴族としてはと周りから白い目で見られることも増えてきた。
コーラスガールを愛人にというならわかるが結婚して、正妻とするなどいうのはスキャンダル以前の問題だ。
注意し、強く叱責しても彼女を愛しているという言葉を繰り返すだけだ、最後には自分が笑って、仕方のないやつだと許してくれると思っているのだろう。
両親が早く亡くなった為、甘やかして育ててきた、それを、今更のように後悔してしまった。
弟の存在と行動がシャニュィ家の名前だけでなく、兄の自分までを貶めていることに、本人は少しも気づいていないのだ。
「オペラ座で皆がおまえの恋人を噂しているよ、愛の為に全てを投げだそうとしている、素晴らしいじゃないか」
皮肉だとはっきりわかる言葉にクリスティーヌは唇を噛んだ、助けて欲しい、どうしたらいいですかと助言を求めたところで答えが返ってくることはないとわかっているからだ。
ラウルの存在を知っても最初のうち、彼は黙認していた、それをいいことに自分はラウルとの逢瀬を繰り返した。
その結果が、これだ。
彼の心の中で自分は絶対の存在だったのに、今では。
「次の講演までは時間もある、暫くレッスンは休んだほうがいいだろう」
「で、でも」
「メグのレッスンもある、ジリイに頼まれている」
彼女の頼みを断れるわけがないだろうと言いたげな言葉には反論などできるわけがない、いや、無意味だ。
自分の友人である彼女の名前が師である彼の口から出てきた子はこれまでも何度かあった、だが、レッスンをつけるというのは初めてではないだろうか。
もしかして、自分は見限られているのではないだろうかと不安になった、すると。
「群舞としての才はある、伸ばしてやらなくてはね、おまえほどではないにしてもだ」
オペラ座のプリマは、おまえだよといわんばかりの言葉に以前ならほっとし、安心できた、だが、今は違う。
「お出かけですか、珍しい」
ジリイの声にはわずかな驚きと、どこか呆れたような含みがあった。 二人の会話を耳にしたのは偶然だ。
昼間の外出、用事は人任せだが、夜の外出も、あまり続くのは感心しませんよという言葉に、師である彼は勘弁してくれ、まるで、母親に叱られているようだと笑いながら返したのだ。
夜の酒場に出かけるなど初めてではないだろうか、そのことを知ったとき、クリスティーヌは妙な違和感を感じた。
フランス人は男女問わず、酒安やワインを好む、水質が悪いせいもあり、子供でも十歳の頃から薄めたワインをがぶ飲みするものだから、大人だけでなく、十代の子供でもアル中など珍しくもないのだ。
勿論、彼も飲酒をする、だが、街の酒場で出すワインを好んで飲むような人間ではないのだ。
自分の師である彼は顔の反面を仮面で隠している、素顔を見たときは驚いたが、顔の傷は生まれつきらしい。
仮面をつけていれば人並みだし、ミステリアスな雰囲気も相まって人目を引くのだ。
夜の酒場に通っているのはもしかして気になる相手でもいるのではないだろうかと思い、それとなく、ジリイに尋ねてみたが、はぐらかされてしまった。
「それよりも、レッスンをね、子爵との事で忙しいのはわかるけど」
と言われてしまったのだ。
子供は生まれつき顔に痣があった、大人になれば消えますよという言葉を信じた母親は、それ以後、医者に診せる事もしなかった。
金がなかったということもある、だが、成長するにつれて痣は大きくなり、そのことを悲観した母親は暴挙に出た。
どうせ、醜い顔ならと暖炉の灰を集める火かき棒で、子供の顔を焼いたのだ。
熱さと痛みでなく子供を見ながら母親は笑い出したのは、普通の神経ではなかったせいもある。
周りの人間から子供の容姿のことを言われ、母親の自分のせいだと責められておかしくなっていたのかもしれない。
子供の頃から顔の事を言われて不満や怒りを感じ反発し不快になるものの、相手に反論できない。
いや、最初のうちは抵抗し、言葉で否定するが、自分の顔が普通の人間、男とは見た目が違うことは事実だ。
認めるまでにかかった時間は決して短くはなかった。
「珍しいな、おまえが酒場で飲むなんて」
どうして知っているのかと驚く男に、笑いながら、あまり強くなかったよなと言われて男は困惑した顔になった。
「もしかして女でもできたか」
首を振ると顔に出ていると言われて男は困惑した。
「そんなんじゃない、ただ」
話せよと促されて友人の言葉に仕方ないといわんばかりに男はぽつぽつと話し始めた。
「飲み屋で働いているの、外国人か、おまえ、好きなのか」
恋愛感情、違うと否定する男を友人は気にしすぎだ顔のことをと友人は言葉を続けた。
「好きだと言ったらどうだ、うまくいけば一度くらい」
何を言いだすのか、だが、続く言葉に黙りこんだ。
「後悔したくなければ言った方がいいぞ」
どういう意味だと尋ねると外国人だろうと言われた。
「最近、風当たりが強いんだ、俺たちよりも、自国民じゃないから理不尽なことがあっても向こうは文句も言えない、酒場で働いているというが、いつ、クビになってもおかしくはないぞ」
店に行くと、ご注文はと声をかけてくる彼女は笑っている。
いつもだと言いかけて男は黙り込んだ、そうだ、声をかけてくるのは彼女だけ、他の女たちは遠巻きにして見ている。
その夜、久しぶりに店に行き飲んだ、いつもよりも多くだ。
大丈夫ですかと声をかけられて頷く男は、女の顔をいつものように見ることができなかった。
店を出て歩き出す足取りが重く感じるのは気のせいではない。
「ムッシュー、待って」
振り返ると女が追いかけてきた。
「自宅まで送らせてください」
「だ、大丈夫だ、それより、店はいいのかい」
「今日が最後なんです、あの店で働くのは、最後の日ぐらい」
その言葉に、どんな言葉を返せばいいのかと思いながら、そうかと頷いたまま、男は無言になった。
「次の仕事は当てはあるのかい」
「実はオペラ座で働かないかと声をかけられたんです」
予想もしない言葉だった。
「衣装、道具係だと思うんですけど、でも」
ほっとしたのは断りましたという言葉にだ、だが、何故という疑問もあった。
聞きたいと思っているのに、言い出せない。
家までの距離は、こんなにも短かかっただろうか。
家の前で立ち尽くした男は、どんな言葉をかければいいのかと悩んだ。
店を辞めたら、会えなくなる、どこに住んでいるか、自宅も知らないのでは会うこともできない、良かったらお茶でもと言えばいいのだろうが、ただ店で会うだけの相手に誘いの言葉をかけたところでと思ってしまうのだ、情けないことだが。
「おやすみなさい、これからは飲み過ぎないでくださいね」
家に入る自分を見届けるような、背中を押す言葉だ思わず頷きそうになったとき頬に冷たい感触に思わず空を見上げた。
雨が降ってきたのだ。
「どういうことだ、ジリイ」
怒鳴りつけるような口調と声は大抵の人間は畏怖してしまうだろうが、黒衣の婦人はきにする様子もなくですからと言葉を続けた。
「店を辞めたのはフランス人の女性、新しい働き手が見つかったからです、あの女性は外国人でしょう」
「家は、どこに住んでいる」
「アパートも追い出されたようです、今までは仕事があるから住まわせてもらっていたようですから、家主は老婆ですが金に関しては」
「そんなこと、どうでもいい、聞いてもいないことを、ではどこにいるか」
わかりませんわと肩を竦めたジリイを男は忌々しいといわんばかりに睨み付けた。
「パリを離れた可能性もありますが、まだ数日です、それに天気も良くないです、もしかして」
「なんだ」
婦人は床に視線を落とした。
「地下ではどうでしょう、食べ物さえあれば雨もしのげる、眠ることもできます」
その言葉に男は、はっとしたように彼女を見た。
「その可能性は、確かに」
「可能性がないわけではありません、ですが」
問いかけるような視線を向けられた男はベルナールを呼べと呟いた、手足のように何でも言うことをきく配下だ。
「ところで、メグですが、どうです」
「ああ、大丈夫だ、群舞のリーダーにと思っていたが」
「無理ですか」
少し不安そうな彼女の表情に母親だなと男は思いながら首を振った。
「プリマを目指す気はあるか」
男の言葉に婦人は驚いた聞き違いではなかろうかと、そんな表情になったのも無理はない。
「練習量も増える、気力、体力も、だが、レッスンを受ける気があるなら」
「あなたが直接、本気ですか」
本人次第だ、その言葉に返事はない、だが。
「クリスティーヌ・ダーエは、どうなさるおつもりです」
「それを聞くのか、今」
婦人はにっこりと笑った。