昼間の外出で、こんな事がと思いながら男は細い通りに入っていった。
飲み屋が多い界隈なので夕方からの開店の為に忙しく働いている者もいれば酒を飲み、半ば酔い潰れている者もいる。
通りに足を踏み入れた男は声の主を探そうとした、ところが、突然、男の怒声が響き渡った。
歌声はやみ、通りはしんとなった。
「マエストロ、何か気になることでも」
少しばかり不機嫌というよりは少し呆れた顔でジリイは男を見た。 自分から呼び出しておきながらと多少ばかりの皮肉を込めると、少しの沈黙の後、すまないねと素直過ぎる言葉に彼女は驚いてしまった
「大事な話の途中なのですが、次回の公演について」
「ああ、わかっている、で、今年のコーラスガールの質はどうだ」
「今の段階では、なんともいえませんわ、しばらくはクリスティーヌを主役で」
「そうだな、だが、長くは続かない」
「お疲れ、ですか」
てっきり否定するのではと思ったジリイだが返ってきた答えはいがいなものだった。
出された紅茶を一口、男の顔は半分が仮面に隠れている、だが、自分と会うとき男は素顔をこちらに見せる。
それは自分を信用しているという証だと彼女は思っていた。
「引退しようかと考えている」
本気ですか、尋ねようとしたジリイは男の顔を見てはっとした。
仕事、生活に、ここ数年、忙しく奔走していた、だが、それは自分だけではない、彼もだと改めて思ったのだ。
「ジリイ、好きな男はいるか」
突然、何を言われたのか、その言葉の意味が分からなかった。
「あなたですよ、そう言ったら」
どうしますとジリイは笑った、勿論、それは本心ではない。
自分が愛した男は娘、メグを妊娠したとわかったときに、あっさりと自分を捨てたのだ、だから信用していない、男という生き物を。
「いつまで、この仕事を続ける」
「引退してゆっくりと休みたいという気持ちがないわけではありません、ですが」
「メグか」
娘は群舞のダンサーとして頑張っている、だが、できることならもう少し高見を目指して欲しいと思うのだ、それを欲深いと言われてしまったら仕方ない。
「若い頃に比べたら今の私は十分、満足していますわ」
ジリイの言葉に男は笑った。
確かに、そうだろう、だが、バレエ主任と群舞、コーラスガールの娘、二人の生活が、この先も続くなどという保証など、どこにもないのだ。
「無い物ねだりといえばそれまでだが、君に頼れる夫がいて、十分な財産があれば安心できるんだ、心置きなく、だが、今のままでは駄目だ」
「ここを去る、おつもりですか」
「できることなら、地下との往復ではなく、日の当たる場所で静かに暮らしたいと思うのは駄目かな」
「彼女、クリスティーヌと」
その言葉を男は遮った、ここ数ヶ月、オペラ座だけでなく、パリの街、貴族にも、例の噂は広まっている。
ジリイは感じていた、恋の熱が冷めているというなら簡単だ、若い恋人同士の恋愛など始まりはあっという間で、終わりも早い。
だが、今、自分の目の前にいる男はそうではない。
ジリイは以前からに思っていた、クリスティーヌは、彼には合わないと、それを言葉にすることはなかった。
だが、今ならと思ってしまった。
「言いたいことは分かるよ、ジリイ、馬鹿だと思うだろうが、今更だよ、こんな年になって現実の非常さを知って、でも、馬鹿だろう」
否定も肯定もできないと思いながらジリイは笑った、それは自分もだといいたげに。
「メグには直接、レッスンをつけることにする、歌のね」
群舞のリーダーをこなす今、ソロで歌える、プリマの歌唱力さえ身につければオペラ座を出てもやっていけるだろうと無言われて返事ができない、いや、何も言えなくなった、男が本気だと分かったからだ。
「何か、私にできることはありますか」
「ジュールを呼んでくれ、大事な仕事なので報酬は今までの倍だ、それと君には」
言いかけて黙り込んだのは考えているのだろう。
「メグのサポートだ、練習は今までよりも大変になる、だが、ここで逃げ出したら終わりだ、それはオペラ座にとって大変な損失になるだろう、それに君に後ろ暗い仕事はさせたくはない、先の事を考えるならね、わかるか」
その言葉に、はっとなった。
「まさか、あの男、ジュールを」
ほんのわずかな沈黙の後、男は笑いながら言った。
「これは私の仕事だよ、マダム・ジリイ」
客はそこそこの入り、出している酒も決して上等のものではない、 そのせいか客層も様々だ、金持ち、そうでない者、いや、身分を隠している者もいる。
身分の高い貴族が自由に振る舞う為にも、こういう場所は必要なのだろう。
半月近くもかかって、ようやく、ここを見つけたのは幸いだった、いや、正確にいうと場所ではないが。
男が店に入ると奥の席に案内された、金を持っているとわかったのだろう。
給仕に来た女に店で出すワインの中で上等なものをと頼み、金貨を握らせると女はにっこりと微笑んだ。
店内の女給仕は様々だ、小柄で幼女のような体型の女もいれば、むちむちとした肉感的な体つきで、惜しげもなく胸の谷間をさらした服装でテーブルの周りで愛想を振りまく女もいる。
売るのは酒だけではないということだ。
「いらっしゃいませ」
フランス語だか、はっきりと外国人だとわかるアクセントに男は思わず目を向けた。
少し離れた席で、いかにも、その日暮らしといわんばかりの風体の客の注文を聞く女は男に話しかけている。
この声だ、もう少し近くでと思い男は声をかけた。
だが、気づいた女が来るのを押しのけるようにして、別の女が注文を取りに来た。
暫くして男は気づいた、金のない客ばかりを。その女は相手にしている、いや、させられていると、女が、外国人だからか。
だが、女は誰に対しても笑顔で接している。
気づいていないのだろうか、いや、こんな事は当たり前なのかもしれない、けれど、この女の声は心地いいと思った、クリスティーヌとは別の意味でだ。
自分は彼女をプリマに育てあげることに情熱をかけ、成功した
けれど、そのことを後悔もしていた、離れてしまったのだ、自分から、大きく羽ばたこうとしているのがプリマへの道なら応援する気持ちがないわけではない。
しかし、それが自分を裏切ってなら別だ。
どこで歌おうが、誰と、あの男と愛を交わそうが関係ない、彼女に自分は必要ない、だが、それは自分もだ、彼女などいらない。
待っているのは輝ける舞台ではないことに気づいたところで、もう遅い、あの若造と迎えるのは舞台と人生の二つの終幕だ。
ここを出たら二度と、まともな舞台に立てる事はないことを、その身をもって知ることになるだろう。
降り出した雨は幸運としかいいようがない。
濡れるからと家の中に入るように促し、折角だからと、お茶を入れる男は自分の背中に視線を感じながら願っていた、雨が少しでも長く降るようにと。
雨、やみそうにないですね、困ったような女の声に男は俯きかけていた顔を上げた。
まるで悪い事をしたかのように、言い訳をする子供のように男は言葉を探しながら俯いた、泊まっていけばいいと。
顔をまともに見ることができなかったのかもしれないのは気まずさからだ、その言葉に女は無言のまま頷いた。
女をベッドに自分は床で、そのまま寝るつもりだった。
一人暮らしの男の家にカウチソファなどの洒落た家具があるわけがない。
外国人と寝ると病がうつる、特に東洋人は魔女と言われているから得体の知れない病気になる。
そんな噂を聞いたのは、ここ最近のことだ、馬鹿馬鹿しいと、その話を初めて聞いたとき、男は失笑した。
病気持ちなら、酒場のような忙しい場所で働けるはずがない。
その朝、目を覚ました男は、ぼんやりと天井を、そして隣を見てはっとした。
隣で眠っていた筈の女の姿はない。
普通なら考えられないことだ、挨拶代わりに初めて会った男女でも寝ることななどフランスでは珍しくない。
下層階級の貧しい人間ならセックスの行為自体が、気軽に交わす朝の挨拶のようなことなど珍しくない。
だが、何もなかったのだ、もし自分の知り合いが知れば笑われるかもしれない、たが、セックスや行為は自分にとっては簡単なものではないのだ。
ベッドから出て台所に、女は家に帰ったのかもしれない、珈琲でものもうかと思ったとき、ドアの開く音がした。
紙袋を抱えた女は自分を見ると朝ご飯を買って来たんですと笑いかけてきた。
「好みが分からないのでバケットにクロワッサン、果物はリンゴですが、台所を使ってもいいですか、簡単なスープなら、すぐにできますから」
男は頷き、言われるままに椅子に腰掛けると女の背中を見つめた。
誰かと迎える朝など想像もしたことがなかったのだ。
一日が、こんなにも感じるのは何故だろう、自分の家に帰るというのに不安でたまらくなるが、家の前に来てドアを開けるのでは緊張していた、だが、おかえりなさいという声に迎えられ、ほっとするのだ。
数日があっという間に過ぎ、一週間、半月がそして一ヶ月も過ぎると男はあることを決心した、迷い、悩んだ末に出した答えだ。
その日、男が家に帰ると女が驚いた顔で出迎えた、いつもよりも帰りが遅かったせいだろう。
苺のパイだよ、紙袋を手渡された嬉しそうな顔になった女だが男のレインコートを買ってきたという言葉に不思議そうな顔になった。
ここ最近は雨も降っていない、自分もだが、男の彼がレインコートをと思ったのだろう。
彼女は外国人だということを、このとき、男は改めて感じた。
「避妊具だよ、フランスではレインコートの事を」
最後まで言葉が、うまく続かないのは緊張のせいだろう。
彼女を抱きたいと思い自覚し、考えたのだ、最悪の場合を。
もし、行為の結果、妊娠したらどうする、子供が男でも女でも自分のような顔の痣があれば謝ってすむことではない。
それに妊娠したら子供が無事に生まれるという確信などない。
フランスには下町だけではない、偽医者が大勢いるのだ、施した処置は、まともなものではなく胎児だけでなく母親も死ぬことなど珍しくない。
そんなことになったら悔やんでも悔やみきれない。
最初は娼婦を尋ねた、するとたばこ屋を紹介されたのだ。
国内の娼婦が使うものよりも値段は高い、だが、安全で確実な避妊を求めるなら外国製のゴムの避妊具を買ったほうがいいと言われたのだ。
「たばこ屋は国が管理しているからね、それに娼婦からなんて騙される事もある、あんたみたいな女慣れしていない男だと」
女はにやりと笑った。
羊の腸をただひもでしばっただけの簡素な避妊具では確実な避妊は望めないといってもいいわ、その言葉に男は頷いた。
「もしかして、クルチザンヌ(高級娼婦)なのか、君は」
「昔ね、運がいいわ、いい、煙草屋よ、娼婦からなんて痛い目を見たくなかったら」
女の言葉に頭を下げるしかなかった。