慣れない孤島の生活は何もかも初めてづくしで、いや、そもそも記憶が無いのだから、些細なことの一つ一つすら目新しい。苦労はもちろん、戸惑うことだって少なくはない
けれど、この所は妙に快適だった
お早うからお休みまで、新しい生活にも慣れ始めたのだろうかとも思っていたけれど
「おはようございます、ご主人様♪」
「ん…ぁ、はい。おはようございます、ユーシィさん」
カーテンが開き、薄暗い部屋がぱっと明るくなった。開け放たれた窓から入る朝の風は心地よく、寝ぼけ眼をこする事もなく、すっきりとした朝の目覚めがやって来る
完璧だ、何もかも完璧に過ぎる
着替えに、洗顔にと、もろもろの朝の準備の後、朝食の席につくまでの間に僕の手が止まることはなかった。今だって、僕に食べられるのを待つように、綺麗に朝食が設えられている。シャッキリとしたサラダに、湯気だったスープ、焼きたてのパンとベーコンの香りが鼻孔をくすぐり、ぐぅーと鳴るお腹に空腹を思い知らされた
や、やることがない…
自分の家なのに、自分ですることが一つもない。影に日向に、自分では意識していない隅々にまで彼女の手が入り込み、不自由を感じなくなって久しく思う
ユーシィさん。そう、彼女がこの家に来るようになってからだ
僕の生活水準は著しく向上されてしまっていた。困った事など何もない、しかしそれが一番困ってしまう。事実、彼女が一日家を開けただけで、朝から自分がどうしていたかなんて忘れてしまうほどだ。着替えに洗顔、あれは何処だったかと、これはこっちだったかと、手が止まり、その度に気付かされるのだ
いっそ、怖いな…
探しはものはそこにあった。綺麗に畳んで用意されている着替えに、洗顔用のタオルまで添えられて。あれがないと思えばそこにあり、これが欲しい思えばそっちにある。朝起きて、着替えて、顔を洗って、食事に付くまでのすべてが計算されつくしていて、今日は用事があるって言っていたのに、いないはずのユーシィさんの幻覚が見えはじめるくらいだった
「いや、これ、本格的に不味いな」
ユーシィさんの用意してくれていたスープを温める。竈に火を付けて、鍋に当てる、ちょっと前までは不慣れながらも出来ていたはずなのに、妙に手間取ってしまっていた。パンを焼けば焦がしそうになるし、サラダはなんか水っぽい
それの何が不味いかって、このまま彼女が一週間と家を開ければ、自分の生活はとっくに成り立たなくなりかけている所だった
ーーーー
ある日の昼下がり。主の居ぬ間に勝手に家事を進めていたユーシィと、気まぐれにご主人の元に遊びに来たニャルタンが顔をあわせていた
「ご主人様なら留守ですよ?」
「そうみたいだニャ」
端的な会話に、ピリッとした空気が流れる。ケンカになりそうでいて、辛うじて踏みとどまっている。そんな拙い空気を支えていたのは、お互いに同じ顔を思い浮かべていたからだろう
しっしっと、ニャルタンを追い払うように箒の毛先を向けるユーシィ。なんなら「毛が散る」とまで言い出せば、挑発というよりも完全に喧嘩を売っていくスタイルだった
ニャルタンのこめかみがピクっと動く
なんなら「わんわんうっせーにゃ」とまで口に出しそうで、なんとかそれを思いとどまっていた。べつにこいつのケンカを買いに来た訳でもなし。ボクらがケンカをした所でご主人が喜ぶでもないのなら、それは徒労以外の何物でもないはずだ
部屋から掃き出されるように玄関まで戻った所で、ふと、足を止めて振り返ると「さっさと出てけ♪」って笑顔を浮かべているユーシィと目が合った
言うべきか、言わざるべきか。魔が差したのか、口が滑ったのか。ああ、もしかしたら羨ましかったのかもしれない。そんな甲斐甲斐しく世話を焼くなんて、きっとボクには出来ないはずだから
「思うに、ユーシィはご主人に構い過ぎなんだニャ」
「あら、猫でも遠吠えなさるんですね?」
その瞬間だった。ニャルタンの姿がぼやけ、白い影が置き去りにされた直後、火花が散った。キリキリと、金属が削れるイヤな音が響く中、ユーシィが背中に回した箒の柄がストンっと落ちると、鈍色に輝く刃がニャルタンの振るった剣を受け止めていた
「弱い犬ほどよく吠えたもんだニャ」
その瞬間だった。音が消えたような錯覚、時間が飛んだ気さえする。目の前にいたはずのユーシィの姿が忽然と消え去り、その直後にニャルタンの背後で金属音が鳴り響いていた
「にゃんとぉぉーっ!!」
「ちぃっ!!」
火花に続く金属音。白い影を追い立てる灰色の気配。入れ替わり立ち替わり、人の目には留まらぬ速度で切り結び、それは一拍ごとに加速していった
ガキィィンっ!
一際高い金属音の後、カランっと乾いた音が鳴る。箒に仕込まれていた刃がユーシィの手からこぼれ、ニャルタンの向ける鋒がまっすぐにその喉元を捉えていた
「ボクの勝ちだっ!」
高らかな勝利宣言の後、肩を落としたユーシィがつまらなそうに嘆息を返す
「だから、何だというんです?」
折り合いの付かない二人が、唯一それを付ける方法。互いに確認をしたわけでもないが、乱暴な押しくら饅頭の結果は受け入れるのが暗黙の了解ではあった
「場合によっては…」
すぅっと、ユーシィの顔から表情が消えていく。その一言が出ようものなら、ケンカの一線を超えるのも辞さないと、見せかけの笑顔の端で、尖った犬歯をキラリと光らせた
「怖いにゃぁ。とりあえずご主人が泣きそうな顔をするのをやめろって」
「ふんっだ。少し勝ったくらいで良い気になって」
「なってはないし。ボクだってそこまでは言わないニャ」
その感情は分からんでもないし、いや、分からんか。極まりすぎた愛情に、付き合い切れない時もあるぐらいだ。何も血が見たい訳がない。このままではご主人の為にならんと、少し思ってしまっただけ
「なんでもかんでもユーシィがやってしまったら、ご主人が可哀想ってだけだニャ」
「そんなの。ご主人様に快適に過ごして頂きたいと、それだけのことを」
「おはようからおやすみまで、付きっきりになる必要があるのかって話をしてるんだにゃ」
「あります」
即答だよ。断言されてしまったニャ。返す言葉の無さに「そうかい」って、言ってしまって終わりたくなる。だがしかし、それは出来なかった、それだけは出来なかった。すでにニャルタンにとっても、ご主人は他人ではなく、放って置けるはずもない。きっと教育方針の違いなのだろう、そのせいで毎度ケンカになってしまうのはご主人には申し訳なく思うけども
「一日だにゃ。明日一日、ご主人に近づくんじゃぁにゃい」
「よろしい、ならば戦争です」
即答だよ。今度は仕込みでもなんでも無く、ユーシィは自分の扱い慣れた剣を引き抜こうと手をかけた
「マジか、マジにゃっ!? 落ち着くにゃ、一日くらい我慢して見せろにゃ」
「ちっ…。一日、一日ですか…」
これ見よがしな舌打ちの後、吐き出した嘆息には悲しみが満ち満ちていた。肩が落ち、獲物にかかっていた手が滑る。小刻みに震え始めた指先を、不思議そうな顔をして見つめたユーシィは、何に思い至ったのか「はぁっ…はぁっ…」と、慌ただしくなった呼吸が、不規則に乱れ始めていた
「…い、一日って。12時間…でしたよね? お日様が沈むまででいいですよね?」
「24時間だニャ。ニャにいってんだお前は…。昇るまでステイに決まってんだろ」
「…近づくなって…。手の届かない辺りで?」
「せめて、目の届かない所まで離れるニャ。待てもできないのか犬っころ」
「そ、そんな…」
膝が崩れ、床に手をつく。まるでこの世の終わりと言わんばかりの哀愁が、ユーシィの全身から溢れ出し、目に見えるほどに深みを増していった
「ニャンかもう。ご主人より、君の事が心配になってきたよ、ボクは」
「は? なんですか急に。気持ちの悪い」
「…にゃ、にゃんと」
ニャルタンのこめかみがピクっと動く
可愛げのない。いや、言うとは思っていたけども。こんなんに仲間意識を持ってしまった事に、早速後悔しはじめるニャルタンだった