陽菜は木村から自分が始める仕事のことについて断片的にしか説明を受けていなかった。
カウンター、ホールでの接客業務であること
客の大半が成人男性であり、主要なメニューがアルコール類であること
客の話し相手を務めながら場の雰囲気を盛り上げ、楽しい時間を過ごしてもらうこと
その断片的な情報からは特に危ない仕事では無さそうだというのが陽菜の認識だった。
「まず一番大事なことはお客様の顔から目を逸らさないこと」
冴島の接客指導はこの第一声から始まった。
「お客様をもてなす立場の陽菜ちゃんがふと、お客様から目を逸らし、他の客やスタッフ、店の様子に視線を向ける。これまで盛り上げてきた場に水を差す行為だ」
冴島の話は今まで陽菜が気にも止めていなかったことであり新鮮だった。
「お客様は自分との会話に陽菜ちゃんが興味を失ってしまったのかと思ってしまうかも知れない。自分を蔑ろにされたと気分を害してしまうかも知れない。お客様を傷つけてしまうんだ。だからこれは鉄則と思っていて欲しいね」
「はい」
力強く頷く陽菜。
ファーストフード店のマニュアルにはない本格的な指導に陽菜は自分が大人の世界に踏み込んだんだと自覚し、真剣な表情で冴島の話を聞いている。
「良い話し相手になる事と話上手になる事は全く別の話なんだよ。僕達は陽菜ちゃんに話術とか豊富な話題とかを求めてはいない。素直に向き合って話せる相手となる事を求めているんだ」
「その為に必要な事はお客様を否定しない事。お客様のことを認め、尊敬して接して欲しい。あ、お客様が言う事の全てを受け入れろということじゃないよ。それは違うと否定しないでそういう事もあるんだと肯定して欲しいという事だね」
陽菜には今まで意識もしていなかった事だが改めて言われてみれば頷けることばかりだった。
これが気配りの基本って事なんだと思えた。
相手を思いやれと人は言う。だが相手を否定してたら思いやることなんて出来ない。
お金を払って酒を楽しむ1時間くらいは自分を肯定してくれる人を相手にしたいはずだ。
まあ、否定されて喜ぶような特殊な性癖を持った人がごく少数いるにはいるが…
冴島の話を聞くうちに陽菜はこの仕事にやりがいのようなものを感じ始めていた。
「……という具合だ。どう?なんとかやってみる自信はある?」
「はい!自信は…そのやってみないとわからないけど、是非やってみたいと思います!」
だから陽菜の答えは力強いものだった。
「うん。いい返事だ。陽菜ちゃんの今の答え方はすごく良かったと思う。自分でも手応えみたいなもの感じたんじゃないかな?」
「え?あ…そうですね…今の感じでいいんでしょうか?確かに自信を持って答えたと思いますけど…」
「自信だけではなく気分的にも嬉しい、と思えなかった?」
「あ、それはありました。何故か嬉しく思えました」
「それはね。僕がつい嬉しくなって笑みを浮かべたからだよ。実は僕は陽菜ちゃんのような若い娘にこういう水商売の厳しい話は受け入れられないんじゃないかと思っていたんだ。だから陽菜ちゃんの力強い肯定に僕の不安は一掃されてつい地の笑顔になってしまった」
(そうか…それを見て私は嬉しくなったんだ。人を笑顔にすることがこんなに嬉しいことなんて思ってもみなかった)
「こういう商売は辛いこともあるけど嬉しい事も多い。今の気持ちを大切にね」
「はい、ありがとうございます」
陽菜は自分の心に一筋の光明が見えたような気がしていた。
これからこうしていこう、こうありたいという道筋が朧げながら見えてきた。
「じゃあこれからはちょっと具体的に指導していこう。ちょっとした演技も交えてね」
「演技…ですか?」
「そう。演技というかシチュエーション作りかな」
そう言って冴島は自分の顔を陽菜へと近づけていく。
急に接近を始めた冴島に陽菜はつい目を逸らしうつむきながらのけぞっていた。
「あ!」
早くも鉄則を破ってしまったことに気づいて陽菜は狼狽する。
あれだけ守ろうと心に決めたことなのに…
恐る恐る顔を上げて見上げた冴島の顔は怒ってはいなかった。
「ごめんなさい…」
「いや、これはちょっとした意地悪だから気にしないでいいよ」
意地悪?
少し混乱した陽菜の頭の中を?マークが埋めていく。冴島はこれから何をしようとしているのかがわからない。
「じゃあもう一度。我慢できるところまで頑張ってみよう」
「はい」
再び冴島は顔を近づけていく。50cmから始まり40cm程度まで近づいた辺りで再び陽菜は目を逸らしてしまう。
「やっぱり辛いかい?」
「はい…少し…」
「何故辛いか言える?」
「……」
陽菜は無言で俯いてしまった。
何故だろう。嫌悪感は我慢で抑えていたはずなのに。
「恐怖じゃないかな?君は今、僕を怖いと感じている。だからそこから目を逸らした」
言われて陽菜はそうと気づいた。陽菜は恐れたのだ。異性から距離を縮められたことに。そしてその先に起こるであろう出来事に。
「目を逸らしたから僕が何を考えているのかがわからなかった。自分の妄想を僕に押し付けて否定してしまったんだ」
冴島の言葉が陽菜の心に突き刺さる。
「じゃあ今度は僕の目に集中してみよう。僕の目線に注意して何を考えているか探ってみよう」
「はい」
そして再び冴島は顔を近づけていく。
陽菜は先程受けたレクチャー通りに冴島の目をじっと見つめてその動きに集中していた。
集中していくにつれて恐怖が薄れていく。
冴島の目が自分のどこを見ているのがわかる。
いつのまにか20cm程にまで近づいていた冴島の口が開く。
「今僕が考えていることがわかるかい?」
「わから…ないです」
「じゃあ僕が君のどこに関心があるかは?」
「私の…鼻?…もしかして出てたりしてます?」
「大丈夫。一本も出てないよ。ただ…」
ふっと何かが鼻先に触れたような感触。
その感触を追って向けた視線の先にあったのは冴島の指に捉えられたティシュの破片。
「あ、もしかしてずっとそれくっついてました?」
「うん…」
思わず吹き出してしまう陽菜。
まったく何を勘違いしていたのだろう。
冴島を警戒していた自分が恥ずかしくなり思わず赤面してしまっていた。
自分みたいな子供にこんな所で冴島さんが手を出すわけないのに…
木村はその一部始終を見ていた。
陽菜の鼻にティッシュの破片なんてついていなかった。
冴島は自分のポケットの中にあった小さなゴミをあたかも陽菜の鼻についていたかのように見せつけただけだ。
だがその仕込みに陽菜は気づくことなく冴島への警戒を解いてしまっていた。
「どうやら手応えは掴んだようだね」
「はい!凄く良くわかりました」
解放感からか弾むような声で返事をする陽菜。
どんなことでも乗り越えていけそうな気分だった。
「じゃあ今度は僕が何を考えてるか当ててみよう」
「はい」
再び二人は向かい合って顔を近づいていく。
先程とは違い冴島は陽菜の両肩に手を置いて顔を近づけていった。
陽菜は冴島の目を見つめながらその考えを当てようと集中していく。
冴島が見ているものが何かを考え、その目的を割り出す作業に没頭する。
冴島さんが見ているものは…私の口?
先程否定した自分の考えが思い当たる。
キス…するつもり…?
だが陽菜には少し余裕があった。これはフェイントのようなもの。本当の目的は別にある。
冴島の本当の目的を考える。口付けを意識させる視線。それが意図するものは何か。
「わかったかい?」
「……」
考えがまとまらない。
自分とのキスを意識させることの目的が陽菜には最後までわからなかった。
冴島は無言で陽菜を待つ。
私とキスしたらどうなるのだろう…
陽菜の思考は迷走する。
キスしたとしてその先に何が…
「もしかして…キス…ですか…?」
結局答えは見つからずそう答えてみる。
「正解」
あっけない答えに脱力する陽菜。
少し深く考えすぎたのかも知れない。
「あ、やっぱりそうなん…んっ!」
ほっとした虚をついて冴島の唇が陽菜の唇に重なっていた。
「んっ!んんっ…」
逃れようと冴島のスーツをつかんで身を捩らせようとする陽菜。
だが冴島に抱き寄せられ身動きがうまく取れない。
力強く抱きしめられているわけではない。
だが上手くいなされ抵抗できずに唇を奪われていく。
「んっ…はぁはぁはぁ……どうして…んんっ…ん、んん…」
スーツを掴んでいた陽菜の手が力なく降りていく。
そしてしばらくの間、二人のくぐもったような吐息と水音のみが部屋の中を支配していた