街並みが深い夜に包まれ、点滅する照明が不規則に舗道を照らしていた。その中で、パジャマ姿のマルティナが足早に走り抜けていく。瞳には怒りと涙が滲んで、足取りは荒い。
目的地はない。ただ、人のいない方へ。誰も追ってこない場所へ。走る音は遠くの喧騒にかき消され、耳に届く警察のサイレンが煩わしかった。
(どうしてっ、なんでっ)
心はぐちゃぐちゃだった。つい先ほどまでのことを思い出すだけで吐き気がした。
もう十五歳なのだ。なのに父とヨルの情事を覗いて、思わず自慰をして、ちょっと漏らして、挙句の果てに『私が世界一じゃなかったの』なんて。
恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて、悲しくて、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、自分でも何がなんだか分からない。
だけど、ただ一つはっきりしていることがある。
「私、絶対に認めないんだからっ……!」
あんな女、認めたくない。怪物め。ブタ女め。人殺しめ。ちょっと顔が良くて背が高くてオッパイが大きくて、パパが大好きだからって調子に乗って。
あの女のせいでママは死んで、パパまでおかしくなったんだ。あいつが全部悪いんだ。あいつさえいなければ、こんなことにはならなかったんだ……!
「あの化け物めっ……くそっ、くそぉっ……」
悪態をつくも、涙は止まらない。頰を伝う水滴を拭うこともせず、マルティナは走り続けた。
だが、そんな激情も長くは続かない。気づけば心にも体にも力が入らなくなって、人気のない路地裏に座り込んでいた。
「……っ……うぅっ……」
お尻が冷たい。石段の上は湿っていて冷たかったけれど、それ以上に心が冷え切っていた。これからどうしたらいいのだろう。答えのない不安に押し潰されてしまいそうだった。
「おーい、お嬢ちゃんどうした? 大丈夫か?」
声の方を見ると、三人組の男が立っていた。全員ニヤニヤとした薄笑いを浮かべていて、一目でろくでもない連中だと分かる。
「ひっ……だ、大丈夫ですから」
「おいおい、大丈夫じゃねえだろ。泣いてんじゃねえか」
「へへ、けっこう可愛い顔してるじゃねえか」
「俺たちが慰めてやるよ」
男たちは笑いながら距離を詰めてくる。その視線は明らかにマルティナの身体を、それも舐め回すように見ていて、嫌悪感に鳥肌が立った。
「やっ……やめて……」
逃げようと腰を上げるが、もう遅い。男のひとりが後ろから抱きつくよう拘束してきたのだ。
「やめ……やめなさいよっ」
「おーおー怖えな。威勢がいいねぇ」
「おほっ、案外胸あるじゃん。発育いいなぁ~」
「うひ~お尻もプリップリだぜ」
男たちは下卑た笑みを浮かべると、乱暴にマルティナの身体をまさぐり始めた。抵抗も虚しく、パジャマの中に手が侵入してくる。生温かい体温を感じて、悪寒が全身を駆け巡った。
「やだっ、気持ち悪いっ、触らないでっ」
必死にもがくものの、がっちりと抱きしめられているため逃げられない。あまりの恐ろしさに、目尻にじわりと涙が滲んだ。
「……助けてっ、パパ……ぁっ」
父を呼ぼうとする声が、途中で途切れてしまう。大きな声をあげれば父が助けてくれる。きっと自分を探してくれているはずだからだ。
でも、そうじゃなかったら?
本当は、私のことなんてどうでもいいと思われていたとしたら?
今もまだ、あの女とやらしい事をしていたら?
そんな考えが頭をよぎった瞬間、マルティナの声は凍り付いたように出てこなくなった。
「へっ、無駄無駄。こんな時間にこんな場所に来るやつなんかいねえよ。諦めて大人しくしとけや」
「そうそう、気持ちよくしてやるからさ。ほら、力抜けって」
男たちが耳元で囁く。熱い吐息がかかり、マルティナはぎゅっと目をつむった。
その時である。
「なんだぁてめ……ぎゃっ!?」
突然、男の悲鳴が上がった。
驚いて目を開けると、マルティナを羽交い締めにしていた男が地面に倒れている。何が起こったのか分からず混乱していると、後ろに誰かが立っていることに気づく。
「なっ……何なのよ……」
それは奇妙な人物だった。身長は2メートルを超えているだろうか。フード付きのコートを羽織っており、顔は見えない。体格が良く、がっしりとしている。右手の杖は、先端がナニかで濡れていた。
「こ、この野郎っ!」
残りのふたりが殴りかかるが、マルティナには何が何だか分からなかった。だって、次の瞬間には、すでに決着がついていたのだ。彼らは皆倒れ伏していて、ぴくりとも動かない。
「あっ、あのっ……」
あまりに早い展開に呆然としてしまう。何か言おうとすると、男はこちらに向き直った。ちらりと見えた頬には古い傷跡がある。
「あの、その、えっと……」
「マルティナちゃんは、どうしてパパに助けを求めなかったんだ?」
「え……?」
出し抜けに問われ、言葉に詰まる。穏やかな口調で、優しい声だった。だから、なぜ名前を知られているのかという疑問は浮かばなかったのだ。
「さっき、パパを呼ぼうとして止めたろ? なんでだい?」
「え、あ、そ、それは……その」
羞恥に頬が熱くなる。まさかパパの女に萎縮して止めましたなんて言えない。
「パパに愛想が尽きたのかな? それともママを殺した怪物が怖かったのかな?」
「へ……」
心臓が大きく跳ね上がる。なんでヨルのことを? いや、そもそも何者なのだろう。それに今の言葉、まるで母が殺されたことを知っているかのような口振りではないか。まるでずっと近くで見ていたような……
「良かったら、ハンスおじさんが悩みを聞いてあげようじゃあないか……なあに、心配はいらないさ……おじさんは、パパの友達だからね……」
◆◆◆
夜闇は濃く、冬の空気が耳や鼻の粘膜を鋭く刺します。コート姿で探しに出て正解でしたね。
「よっ、ほっ、よいしょっ」
「うわ、うわっ、わっ……!」
屋根から屋根に、ミハエルさんを背負ったまま飛び、着地し、また跳躍する。それを何度も繰り返します。そのたびに彼は情けない悲鳴をあげていました。
風が顔に叩きつけられて痛かったですが、それよりも背中に伝わる鼓動の方がよっぽど痛くて。
……大丈夫ですよ、きっと見つかりますから。
「ティーナ、ティ、ティーナッ!」
「くんくん……うーん、こっちですね」
匂いをたどって走っていきます。しばらく進むと、だんだん人の数が減ってきました。街灯も少なくなり、いわゆるスラムと呼ばれる区域に入ったようです。戦災孤児とか犯罪者の類が多いのですが……。
「ティーナがこんな、治安の悪い所に……!」
「私とユーリも、一時期住んでいましたよ」
「え、す、すまない。そういうつもりじゃ……」
「いえ、別に。悪いのは貧乏ですから」
今はむしろ懐かしいです。あれから何年も経っていますし、今はもう少しマシになっているといいんですが。
背中のミハエルさんが、猫のように体を縮めました。
「ヨルくん……ヨル」
「はい?」
「君たち兄弟も、あの戦争で失ったんだね」
ああ。そう言えば、話したことありませんでしたっけ。目の前のことを片付けるのに夢中で、すっかり忘れてました。
「もしかして、それで殺し屋に?」
「ええ、まあ」
「ごめんね、聞こうとも思わなくて」
「気にしなくてもいいですよ。よくある話ですしね」
戦争で親がいなくなって、孤児院はどこも満杯で、何が何でもユーリを守ろうと思って、殺しをやって、〈ガーデン〉のスカウトを受けて……。
足を止めて、ことさら明るい声を作って言いました。
「過去なんか、気にしないで? 私があなたと考えたいのは、もう未来の話だけですから」
「そう……だね」
背負われたままの姿勢で、彼が微笑む気配がしました。なんだかこそばゆい気持ちになってしまいます。
「うん……僕も、もっと強くならなきゃね」
「これからを決めていきましょう。ふたりで」
「うん、ふたりで」
それからは二人とも無言で走り続けました。
やがて、匂いのもとと思われる場所が見えてきます。無事だといいんですが……いえ、望み薄、みたいですね。
「血の匂いがしますっ」
「血っ!?」
鼻孔に流れ込んできたのはマルティナさんの濃い匂い。それから血と、肺が腐り落ちそうな悪臭。
「降りますっ、舌を噛まないでくださいねっ」
「ちょっ待っ……」
そのまま石畳の上に飛び降りました。いちおう衝撃を殺して着地したので、痛くはなかったはずです。
「うう……ひどい臭いだ……」
「ええ、いったい何が……」
背中から降りたミハエルさんが、目を皿のようにしてマルティナさんの姿を探し始めました。私もマルティナさんと声を上げようとした、その瞬間でした。
「────っ!?!?」
背筋につららを突っ込まれたような、強烈な悪寒を感じたのです。
暗闇を稲妻のように駆ける、濃密な殺意。向かう先は間違いなく私……いえ、私だけではなく、前方にいるミハエルさんも!
「ミハエルさん!」
「えっ!?」
とっさに彼を抱きしめ、振り返りながら腕を突き上げます。重い衝撃が走りました。
「ぐっ……!?」
咄嗟に受け止めたその杖から、まるで岩石でも落ちてきたかのような重量感を感じます。腕に抱いたミハエルさんの重みがなかったら、きっと踏ん張れていなかったでしょう。
「ほう……やるな、女……っ」
コートを身に着けた大男。フードの奥の目が、私を見据えています。男の口元がニヤリと歪んで、頬の古傷も一緒に吊り上がりました。そこには紛れもない悪意、人を殺すことに躊躇いがない獣じみた残虐性があったのです。
「く、くうう……! うりゃああっ!!」
「ふ……」
渾身の力で杖をひねると、相手がバランスを崩しました。ミハエルさんを突き飛ばしながら、渾身のヒザ蹴りを叩き込みます。ドガッという手応え。異様な柔らかさ。耐衝撃スーツ!?
「だとしても!」
「うおっ!」
コートをつかみ、力ずくで振り回せば、遠心力で男の身体が宙に浮き上がりました。さらに振り回して地面へと叩きつける──!!
「……くはっ!」
ダメ、ガードされている! 打撃は効果が薄い!
「ならっ!」
引き起こし、後ろを取ります。護身用の短剣を抜き放ち──
「動かないで下さい! いくら重装備でも、喉を掻き切られればっ」
背後から、喉元に刃を突きつけました。相手の動きが止まります。
「やれやれ、まさかこうもあっさり背後を取られるたあ。今どきは女もなかなか侮れないねえ」
「黙ってっ……」
詰めていた息を吐き出して、私はミハエルさんの無事を確認しました。街灯に照らされた彼の顔は、真っ青になっています。
「大丈夫ですか? ミハエルさん」
「ハンスっ!?」
「え?」
いえ、それどころではありませんでした。怯えた魚のように目と口をぱくぱくさせて、彼は震えていたのです。
まるで幽霊でも見たかのように。
「よう、ミハエル。相変わらず辛気臭ぇツラしてん、なっ!!」
反転、肘打ち。短剣が手を離れて宙を舞い、同時に私の右腕が絡め取られます。
「ぢっ!」
私の左肘。ガードされる。
「やる!」
相手の手刀。廻し受け。
「はぁっ!」
こちらの左フック。バックステップ。
「おおっ!」
男の右ストレート。引きつけてかわす。
「はあっ!」「くっ!」
渾身のハイキック。スウェーで回避される。
足先がフードをすぱりと切り裂く。
「ははっ!」「あぶなっ!」
膝裏へのローキック。後ろに跳んで避ける。
ごろごろと転がり、ミハエルさんの側へ。
「……上手いッ!! それに速いッ!!」
「こっちのセリフだ。まさか今のを避けるとはねぇ」
フードを外すと、中から現れたのは40代くらいの、壮年の男性でした。無精髭を生やし、目つきの悪い顔をしています。頰には大きな傷跡があり、歴戦の勇士であることを窺わせました。
「ハンスっ、ハンスっ、生きて、生きていたのかいっ!?」
「はは、そうとも。十五年ぶりだなぁ、オイ」
しかし、なによりも特徴的なのは皮膚の色です。顔全体が石像のような灰色で、まるで生気がありません。どこか、死体のように。
その顔に冷ややかな、意地の悪い笑みが浮かびます。視線が私の体を這い、まるで値踏みするみたいにじろじろと見てくるのです。
「い~い女じゃねえか。コートを着ててもわかるぜ、乳も尻もデカくて最高だ。そそられるなぁ」
「……ハ、ハンス? 何を言っているんだ……?」
「とぼけんなや。アソコの具合はどうだった? 女房より良かったろ?」
「なっ」
「──────」
一瞬の間をおいて理解しました。この男は、私とミハエルさん、そして彼の家庭に何があったのかを知っている。どうやって? なぜ? いつどこで知ったのだろう?
まさか、奥様が殺されたスキー場で?
「う……エリーとは、復員してから一度もっ」
「はっは、真面目に答えんなや。マルティナちゃんが聞いたら悲しむぜ?」
その言葉に、ミハエルさんは息を呑みます。
「なんで君がマルティナの事を……!」
「ずっと見てたからさ、ミハエル。お前が十五年、家族とどんな暮らしをしてたか」
区切り区切り言うたびに、男は口の端を吊り上げていきます。灰色の肌がますます死者めいた雰囲気を増していき、見ているだけで背筋が寒くなりました。
「お前は立派だったよなあ。俺との約束を守って、家族を大事にして、邪険にされてもよ、男らしかったよなあ……」
右足を上げ、石畳を砕く勢いで踏みつける。まるで地の底から響くような音に、私たちはビクッと肩を震わせました。
「なのになあ、その女はなんだよ、そのエロい身体したアバズレはよお!!!」
叫びながら石畳を蹴りつけます。それだけで砕けた破片が飛び散り、周囲の壁にビシビシと突き刺さりました。明らかに常人の域を超えた脚力です。
「ハンス、よくもそんな、こと……そんなこと!!」
「そんなこと!? 男の矜持より若い女が大事か! 俺との約束よりそいつとオマンコするのが大事かァ!? あぁっ!? 言ってみろよこのクソ野郎!!」
怒鳴り声に気圧されて、ミハエルさんが怯みました。それでも必死に反論しようとします。
「違う、僕はっ……」
「違わねえよ!!」
男が地団駄を踏むたび、地面に亀裂が走りました。私たちとの距離を詰めながら、なおも声を荒げます。私はミハエルさんを抱えるようにして後退せざるをえません。
「おい、なんだ?」
「あっちか!?」
いけない、人が集まってくる。このままじゃ、人的被害が出ます……!
「……だからよお、構わねえだろ? お前の家族、俺が活用してやっからよぉ」
「活用、だって……?」
「そうだとも」
ニタリと笑って、ハンスと呼ばれた男が言いました。彼の視線が私に向けられます。背筋にぞくりとしたものが走りました。恐怖のようでもあり、興奮のようでもあり、ともかく嫌な感覚でした。
「お前のガキは預かった。返してほしけりゃ、お前ら二人が出会った場所まで来な。そこできれ~いな花火を見せてやるよ」
「待っ……!!」
「ミハエルさんダメ!」
跳躍し、飛び去ろうとするハンスにミハエルさんが追いすがろうとします。ですが私が腕をつかんで止めました。足元に転がってきたのが、閃光弾だと気づいたからです。
爆発音が轟きました。爆風が私の髪をなぶり、視界が白く染まります。
煙が晴れると、そこにもう男の姿はありませんでした。
「ハンスゥゥウゥゥッッ……!!!」
バーリントに戻ったユーリが、ハンスこそ奥様殺しの真犯人であると突き止めたのは、二日後のことです。
そして、ハンスがマルティナさんを人質に取り、バーリント市役所を占拠する事件が起こるのも──。
◆◆◆
私はカミラ。バーリント市役所に勤務する、金髪ウェーブヘアのモテカワお姉さんよ。
でもって今は、職場を占拠したテロリストにナイフ突きつけられてオシッコ漏らしそうな状態ってわけ。どいつもこいつもオフィスから逃げ出して、残されたのは私に犯人、それとパジャマ姿の女の子一人。
それから、規則正しくカチッカチッてカウントダウンを続ける爆弾ね。これが全部爆発したら市役所がまるごと吹き飛ぶんですって。タイマーは三時間に設定されてるわ。
あっはっは……ヤバくない?
私とパジャマの子……ええと、マルティナちゃんの余命はあと三時間。その間に政府がハンスの要求を飲まなければ、私たちの人生はジ・エンド! ああ、窓から差し込む朝日が天国からの迎えに見えるわあ……。
「ふええぇぇ……誰か助けてぇ……」
「ははは、不運だったなあ。便所行ってる間にみんな逃げちまってよお」
情けない声を出す私に、石像みたいな灰色の顔をニヤリと歪めて、犯人のおっさんがエラッそうに言うのよ。なによ、でっかい頬傷なんてこさえちゃって、今どきワイルド退役兵ルックとか時代遅れなのよ!
「安心しな。この爆弾のサイズなら一瞬で逝けるぜ、なんにも苦しくねえ」
「それのどこが安心できるっていうのよー!?」
あいたっ! 腹蹴られたわ! 乙女……じゃないけど、暴力振るうとかサイテー!
「ひぃぃ……ちなみに、どんな要求なのかしらっ?」
「簡単なことだぜ。現政府の解体。ウェスタリスとの休戦破棄。それから──」
「呑むわけないでしょ!? あんた自殺志願者なの──うひっ!」
首筋を冷たい感触が撫でていく。ああやばい死んじゃう! こんな時代錯誤なキモオヤジのせいで死ぬとかマジ勘弁なんですけど!!
「てか、くっさ! アンタ風呂入ってる? せめて一週間に一回はシャワー浴びなさい! 不潔だわ!」
「はは、そりゃ悪かった。薬を打つとどうしても血が臭うんでね」
「は、はあ……」
ヤバい、けっこうイケボだわ。この人に殺されるならそれはそれで悪くないかも……じゃなくて!
「アンタ、どう見てもまともな人間じゃなさそうね」
「違えねえ。俺はまともじゃねえ。だが狂ってもねえ」
「……どういう意味?」
「はは、知りたいか?」
「べ、別に興味ないけど、話したいなら聞いてあげてもいいわよ?」
ちょっとでも長話させて、警察が突入するまでの時間を稼ぐための演技ですぅ。我ながら名女優っぷりが泣けてくるわね。
「じゃあ話してやるよ。俺の過去を、全部、余すことなく、洗いざらいなぁ」
「あ、いや、やっぱいいです。そういうの、なんか怖いし、あっそうだ、朝のコーヒーでもいかが? 給湯室で淹れてくるわよっ」
「ははは、おいおい、そう遠慮すんなや。俺も誰かに知ってほしいんだよ」
そう言って、男の手が私の首に……うっそでしょマジ? 私いま首絞められてるの? あ、息できない苦しいこれほんとに死ぬ奴じゃん待ってまってお願いやめt………………
「ひ、ひっ、ひいっ……!」
「安心しな、これくらいで死んだりはしねえよ。そうだな、あれは俺が戦友の命を救って大怪我して、後方に送られた時のことだ──」
やっば、やっば、視界が度の合わないメガネをかけたみたいにぼやけてる。息ができない。喉から笛みたいな音が出る。
「──そんで、プロジェクト・アップルって言う、超人兵士を作る計画があってな?」
◆◆◆
「プロジェクト・アップルと呼ばれた
オスタニア某所の緑豊かな豪邸。闇の組織〈ガーデン〉の本拠地です。
その庭園で、私は〈店長〉からハンスの話を聞いていました。店長は相変わらず植木の剪定をしながら、天気の話をするように淡々と語ります。
「ハンスは、その計画の被験者でした。特殊な血清を投与され、後天的に超人の力を得たのです」
「だがプロジェクト・アップルは失敗に終わった、と聞いております」
同席していた部長が割り込んできました。黒縁のメガネをギラリと光らせて、一歩進み出ます。
「その通りです。プロジェクトに成功例はなく、ハンスも精神の平衡を欠いた欠陥兵器でした」
ぱちん、ぱちん、と小気味よい音を立てて枝が切り落とされていきます。
「そして故郷の壊滅、親族の全滅を皮切りに、彼は兵士でもなくなった。東西両国の政府を恨み、平和を憎み、テロに走るようになったのです」
ぽとんと地面に落ちたのは、花の蕾がついた枝でした。花弁はまだ開いていません。店長はそれを拾い上げると、ゴミ箱に放り込みました。
「結局、ウェスタリスの〈黄昏〉という凄腕スパイによって殺害されたはずでしたが」
「生きていて、そして今度はオスタニアでのテロを始めた……」
振り返った部長が、じろりと私を睨みました。眼差しは氷のように冷たく、それでいて燃え盛る炎のような激情も感じます。
「失態だったな、ヨル・ブライア」
「はい……」
部長の叱責に、思わず肩を縮めてしまいます。
「分かっているのか? 市役所はしょせん隠れミノだ。あろうことか、上司と不倫関係になるなど……」
「申し訳ございません……」
私は深々と頭を下げました。ハンスが市役所を占拠した時、ミハエルさんとの関係を打ち明けざるを得なかったのです。
「しかも、その事がハンスの凶行を招いた。君と関係を持ったゲルゲスへの怒りから彼の妻を殺害し、娘を誘拐した。あまつさえ君が取り逃したせいで、白昼堂々、おおっぴらに市役所を占拠する始末だ!!」
「申し訳ありません!!」
さらに深く頭を下げます。ミハエルさんとの歪な関係が生み出した不幸、巻き込まれた関係ない人たちへの申し訳無さ。それより何より、〈ガーデン〉が彼を口封じのために殺害しやしないか、その不安が私を苛むのです。
「……まあ、いいではありませんか」
ややあって、店長が口を開きました。声には慈しみのような気配がありますが、それが逆に恐ろしいです。
「師として、色恋の手ほどきをしなかった私の落ち度でもありますからね」
「それでは規律が緩みます!」
即座に反論した部長にも、店長は動じません。穏やかなバリトンボイスがかえって不気味でした。
「分かっていますね、いばら姫? なんとしてもハンスを始末しなさい」
「はい、もちろんです」
自分の目つきが、どんどん険しくなっていくのが分かります。〈いばら姫〉として殺しを請け負う時にだけ現れる顔です。
「そして、全ての目撃者を抹殺するのです。ミハエル・ゲルゲスも、マルティナ・ゲルゲスも」
「いいえ、それはできません」
でも次の瞬間には、私はヨル・ブライアの顔へと戻っていました。
「ブライア!」
「……なぜですか?」
「あの人達は、ヨル・ブライアの
胸を張って、私は宣言しました。
「スカウトされた時にお伝えしたはずです。〈いばら姫〉は私の家族を守る為の殺し屋だと」
私が殺し屋になるのは、家族を守るためだと、そう伝えました。それは今でも変わらぬ〈いばら姫〉の起源です。
「だから、あの人達を手にかけるのはご容赦ください。たとえ刺客を差し向けられても、これだけは譲れません」
「ふむ……」
思案げに目を細める店長。私の心臓はもうバクバクです。胃がいくつあっても足りないほどの圧迫感に、わあっと叫びだしたくなるのを必死にこらえます。
果たして、店長の口から出たのは──。
「分かりました。あなたの意志を尊重しましょう」
あっさりとした承諾でした。まるで最初からそうするつもりであったかのように。拍子抜けしてしまって、ついぽかんと口が開きそうになります。
「店長、それでは規律が……」
「構いませんよ。これが〈いばら姫〉を最も有効に使う方法。世界を美しく保つために、彼女は必要なのです」
部長の苦言も、ぴしゃりと跳ね除けてしまいました。どうやら本気みたいです。
「期待していますよ、いばら姫。新たな家族が、あなたを強くしてくれる事を祈っています」
「はいっ」
待っていてくださいね、ミハエルさん。マルティナさんを、きっと二人で助け出しましょう。
(続く)