ハンスが市役所を占拠して、二時間後。爆破が予告された刻限まで、あと一時間。
当然政府が要求を呑むわけもなく、市役所はぐるりとバリケードに囲まれて完全に孤立しています。爆弾が爆発しても周辺への影響を抑えるためですが、人質救出は半ば放棄されていると言っても過言ではありません。
そんな緊迫した状況の中、私とミハエルさんはユーリと対面していました。仮設対策本部のテントの中です。机を挟んで相対するのは、私たち三人だけでした。
「ミハエル・ゲルゲス課長、奴はお前を交渉人に指名している。平和のために死んでこい」
「ユーリ、なんて口の利き方なの! まずは謝りなさい、えん罪で拷問までしておいて!」
「も、もういいよヨル、ユーリ君を許してあげて」
「ヨル!? 呼び捨て!? しかも寛大なところを見せて!? 姉さんにいい顔しようってのか!? このキモデブハゲオヤジがッ!」
「ユーリ!」
こんな事している場合ではないのですが、どうにも我慢がなりません。一方的に暴力を振るっておいて、謝罪もせず上から目線の態度。姉として許せるものではありません。
「謝罪ができないなら、姉弟の仲もこれまでです! 今後二度と私に関わらないで!」
「なっ、そ、んな、姉さん! いやだ!」
「嫌なら謝りなさい! 悪いことをして、謝ることもできないような子に育てた覚えはありませんよ!」
「……ち、チクショウ……」
うなだれるユーリを見て少し胸が痛みますが、ここは心を鬼にしなければいけません。立派になったと思っていましたが、まだ姉の出番は必要そうです。
「ごめんなさいは?」
「っ……ごめん……なさい……」
蚊の鳴くような声でしたが、確かに言いました。
「私に言ってどうするの? あなたが傷つけた人に謝るの。ユーリはかしこい子でしょう?」
「わ、わかった……」
素直になった弟が、ミハエルさんに向かって頭を下げます。……全身をわなわな振るわせているのは頂けないですが、まあ良しとしましょう。
「…………も、も、も、もっ」
「も?」
「申し訳なかったです!! すいませんでしたァっ!!」
「あ、うん」
見事なジャンピング土下座を決めてくれました。うんうん、よくできました。
「ち……ちくしょぉぉおおおぉぉぉっ! 姉さんを横取りした豚野郎に頭下げるなんてぇっ……!」
「ぶ、豚……」
「え、えへへ……♡」
二人で顔を見合わせます。これはちょっと、怒るに怒れないというか。
「僕に分からない話題で通じ合うなぁぁあっ! くそっ、くそっ……そ、それでだけど、ミハエル・ゲルゲスは正門から……」
「ユーリ」
「ゲ、ゲルゲスさんは正門から庁舎に入り、三階にある自分のオフィスに向かってくれ。ハンスはそこを交渉の場に指定してる」
「ありがとう、ユーリ君」
「狙撃班の準備はしてあるから、なんとかして窓際に誘導しろ。奴が見え次第、奥さんの仇を討って娘さんを助けてやるさ」
ミハエルさんの目が見開かれました。温和な顔を当惑したように曇らせ、口をぱくぱくさせています。
「なんだ」
「た、助けてやれないかな……ハンスのこと……」
「はあ? あんた自分が何言ってるか分かってるのか? やつはテロリストだぞ。庇えば、あんたもスパイ疑惑がかかる」
呆れたようなユーリの返答に、ミハエルさんが肩を落とします。
「わかってる、でも、ハンスは命の恩人なんだ。僕が娘を育てられたのも、お姉さんに出会えたのも、ハンスのおかげなんだよ」
「それが情状酌量の理由になるとでも? 国家を甘く見るな」
「でも、僕は……」
「でもじゃない。今のあんたはテロに巻き込まれた被害者で、これからは人質解放交渉に挑む英雄と報道される。妙な恩返しを考えて、姉さんに迷惑を及ぼさないでくれ」
辛辣な弟の言葉に私は思わず顔をしかめましたが、ミハエルさんは悲しげに目を伏せるばかりです。
「ああそうさ、僕はあんたが嫌いだよ。いっそ死んでほしいと思ってる。だからって、姉さんに害が及ぶような死に方は認めないからな」
「でも、ハンスは……」
「ハンスがどうした。あいつはただの戦友だろ? 姉さんの家族は、僕たちだけだ」
「え……」
僕…………たち?
ユーリは背を向けてテントを出て行こうとしますが、ぎりぎりで立ち止まると振り返りました。
「ゲルゲスさん。あんたの頼みを聞く気はないが、その欲深さだけは買ってやる」
欲深さ……まあ……。
「あ、ありが」
「だけどな」
遮るように、吐き捨てました。
「もし次に姉さんを泣かせたら殺すぞ。国家反逆罪で投獄して処刑してやる」
それだけ言い残すと、今度こそ出て行ってしまいました。残された私たちは、しばらく無言で見つめ合います。
「……み、認めてもらえたのかな?」
「ユーリはいい子なんです。これからもっと仲良くなれますよ」
私はミハエルさんをぎゅっと抱きしめました。彼の胸の中に渦巻く不安を拭い去るように、強く、強く。
「ヨル……?」
「きっと大丈夫です。ふたりでマルティナさんを取り戻しましょう」
もちろん私もこっそり市役所に入り込むのです。暗殺者〈いばら姫〉として、彼の家族として。
「うん、ありがとう。ティーナもいい子なんだ。これから仲良くしてあげてね」
「はい!」
◆◆◆
──とは言ったものの。お父さんに抱き着いて唇を押し付けているマルティナさんを見ていると、後ろから刺してしまいたくなりますね。
「む、むぐ……」
「ぷはっ、パパ、パパッ、ティーナが一番でしょっ、ティーナが世界で一番だよねっ、ねえ、ねえってば、ちゅぅっ」
「んっ、んむー!」
だってマウス・トゥ・マウスですよ? 分かりますよ、命の危機でファザコンをこじらせて、お父さんに捨てられるかもと必死ですがりついてるんでしょう。だからって、そんな勢いでしなくてもいいじゃないですか。
「よそ見とは余裕だな女ァ!」
「ひゃぁっ!?」
ついそちらに奪われていた注意力が、一気にハンスの方に向き直りました。太い杖が私を捕らえんと迫ってくるのを、
「うっ……!?」
咄嵯に身をひねって避けることしかできませんでした。一瞬遅れて、鋭い突風が頬をかすめていきます。超人兵士の一撃は重く鋭く速く、かわしたのに〈いばら姫〉のドレスが千切れて肌が露出しました。
私は地面に転がるようにして間合いから逃れますが、ハンスの猛攻は止まりません。邪魔なスチール机を粉砕しながら猛牛のように突き進んできます。あの杖なにで出来てるんですか!?
「ぎゃーっ! 助けてヨルせんぱぁぁぁい!」
悲鳴をあげるのは、ここに囚われていたカミラさん。手足を椅子に縛り付けられ、恐怖に引きつった顔で身をよじっています。うう、今は助けられません…………!
「おおぉりゃあァッ!!」
咄嵯にしゃがみ込んで振り下ろしの一閃を回避します。反撃のために繰り出した足が、
「うごっ」
狙い通りにハンスの顎を跳ね上げます。そのまま喉元を破らんと繰り出した短剣が、
「がぎゃっ!」
頬を貫通したというのに、ハンスはものともせずに私を払いのけようとしました。慌てて後ろに飛び退ります。
「ふひ、ヒヒッ、いいぞぉ、いい動きだ」
「……」
気持ち悪い笑い声を上げながら短剣を抜き、折れた歯を吐き出しています。
「どこの組織か知らないが、乳尻だけが取り柄の有象無象とは違ぇなぁ、ええ?」
「下品な人ですね」
私の返事にまた笑い声を漏らして、ぺっと血を吐き飛ばしました。
「ま、お育ちが悪いもんでね」
「それに、品性もない」
「ヒ、ひひひひひひっ! 言うねぇ、タフな女は嫌いじゃねえぜ。だがなぁ、あんまりナメてくれるなよ。俺はこれでも元軍人、しかも超人兵士だ。てめえみてえな小娘一匹にやられるわけねえだろ!」
再び突進してくるハンス。対する私は、
「よっ、ほっ、はッ!」
大振りの攻撃を見切り、軽い身のこなしでかわし続けます。ですが、
「うおおおぉぉぉぉっ!!」
「ふっ、くっ、あ痛っ!?」
重い! 速い! そして痛い! 鉄をも砕く杖は、かすめるだけで骨まで響くようです! なんて馬鹿力……!
「よくも痛いですむもんだ、化けもんがぁ!」
「あなたに言われたくありません!」
追撃を間一髪のバックステップで回避。しかしすぐに距離を詰められ、無慈悲な追撃が迫ります。
右、左、右、左。ハンスの攻撃には隙がなく、全てに必殺の意志があります。攻撃速度も精度もパワーも、超人兵士の名に恥じないものでした。
おまけに耐久力も桁違いに高く、一発殴った程度ではとても止まりません。ダメージによる鈍化が期待できないのです。
紙一重で凌ぎながら後退を続けますが、とうとう壁に追い詰められてしまいました。左右への逃げ場はなく、前後に動くにはあまりに距離が近すぎます。
「ふーっ、ふーっ、ハ ハ ハ、やるな女…………! ここまで手こずったのは〈黄昏〉以来だ……!」
「そ、それはどうもありがとうございます……」
黄昏と言えば伝説のスパイですよね? 比べられて悪い気はしませんが……!
「せんぱい、もっと頑張ってよぉぉぉ! なんでか知らないけど強いんでしょ!? 爆弾のタイマー、あと十分切ってるよぉぉぉ!!」
カミラさんが半泣きで叫びました。見れませんけど、カチッカチッというタイマーの音は確かにずっと聞こえ続けています。
「見ろよアバズレ、あっちの方はもうグチャグチャだぜ」
「え? ……あー」
ハンスの言葉に釣られて視線を向けると、キスを続けるマルティナさんがパジャマの前を開いて、ノーブラの可愛いおっぱいをミハエルさんの胸板に押し付けている所でした。
「あんな女いやっ、んむーっ、ティーナがお嫁さんになるからっ、んーっ、んんんーっ、ママの代わりになるからっ、ちゅうううっ」
「っぷはぁっ、ま、待ってティーナ、落ち着いて」
「なんで!? どうして他の女に優しくするの!? やだ、そんなのやだ、お願い、捨てないで、ずっとそばにいて、どこにも行かないで、好きなの、大好きなの、パパの全部が好きなの、愛してるの、だから、だから、だからぁ……」
うわぁぁぁあん、と子供丸出しで泣きじゃくるマルティナさん。しかも顔が、若い時の奥様とそっくりらしいんですよね……私の中で、黒い炎がメラメラと燃え盛ります。
「ハ ハ ハ! お前のせいだぜ女、お前がミハエルを惑わさなきゃ、あの家族が狂うことはなかった!」
「──はんっ」
「あ?」
いけない、思わず鼻で笑ってしまいました。だって、あまりにも可笑しいことを仰いますから。ハンスは苛立たしげに、
「おい女、今笑ったか?」
「いいえ、気のせいですよ。そんなことより、早くかかってきて下さい。私、退屈してきました」
「人の家族をぶち壊しておいて……このアバズレがッ!!」
自分を棚に上げて怒りに燃えるハンス。その表情を正面から見据えて、私は獰猛な笑みを浮かべます。歯をむき出しにして、獣が唸るように。
「ハンスさん、一ついいことを教えてあげます」
「あぁ?」
「家族って、愛です。奥様はあの人を愛してなかった。私は愛してる」
右手の短剣をくるくる回しながら、左手で胸をぎゅっと押さえます。ミハエルさんが大好きな、まるくて大きな膨らみ。そしていつか、あの人の子供に乳を与えるであろう、母性の象徴。
「そしてミハエルさんは、私とマルティナさんを愛してる。ほら」
短剣で指したミハエルさんは、いたいたしい泣き声をあげる娘の頭をそっと撫でながら、慈しみに満ちた目で見つめています。
「う、うう……大丈夫、パパはずっとティーナのそばにいるよ。だから泣かないで。よしよし、いい子だね、可愛い子だね、大好きだよ」
「ひっく……本当……? 本当に、ティーナがいちばん? ティーナのこと、嫌いになってない……?」
「もちろんさ。何があっても変わらないよ」
その眼差しは、間違いなく親が子に向ける愛情に満ちていました。そこには一片の欺瞞も虚飾もなく、ただただ無償の愛だけがありました。
「…………」
「いい光景ですよね。私も戦災孤児なので、ああいうのを見ると少し羨ましくなります」
「…………戦場も知らん小娘が、下らねえこと言いやがって」
「私、二十七です。どっちかと言えば行き遅れの部類ですよ」
「それがどうしたよ」
「あなたも、いい年をしたオヤジになってるという話です。もう止めましょう?」
両手を上げて降伏の意を示しました。ミハエルさんも、すがるような声で戦友に呼びかけます。
「ハンス頼む、爆弾を止めてくれ! 君が祖国を憎む気持ちは分かるけど、もう充分だろ!」
「黙れミハエル、今さら止められるかよ! この役所は首都の顔! 爆破すれば俺の勝ちだ! ヒヒヒッ、それで終わりだ! 狂った平和も、狂った戦後も、全部が台無しになる!」
ハンスが吠えました。杖を握り直して臨戦態勢に入ります。まだやる気ですか。
「ハンス!」
「俺は正気さ! 狂ってるのは時代のほうだ!」
ハンスはカミラさんを指さしました。わなわなと震えながら、
「お前だって分かってるだろうが! こいつらに蔑まれてただろうが! 誰も彼も、守ってやった男たちを蔑みやがる! 犠牲になった女子供を忘れてやがる!」
「っ……」
ハンスの絶叫に、カミラさんが息を呑みました。ハンスはなおも叫びます。
「無かったことにして髪を染め、ピアスを付けて着飾り、映画館で戦争を見て馬鹿笑い! 暖かい部屋でチンポしゃぶって股を開く! 俺が戦って救った女どもがァ!!」
「それでも、僕らみたいな中年オヤジが足を引っ張るべきじゃないだろう!」
「うるせぇ! 男の風上にも置けねぇクソ野郎のくせに、口先だけは一人前か!?」
ハンスの叫びは、まるで悲鳴のようでした。その手に握られたのは、爆弾の起爆装置です。
「へえ。ミハエルさんが死んでもいいんですか」
「かまやしねえ! そいつの命は俺が救ってやったもんだ!」
「それ、正気で言ってるんですか?」
「正気なんざとっくに消えたさ! ダチのために、超人兵士になった時からな!」
ハンスがスイッチカバーを開きました。
「じゃあ、もう遠慮はいりませんね」
私はあえてゆっくりと歩み寄ります。気負いない、自然な動きに努める。まるで、おはようございます、今日もいい天気ですね……と、隣人に挨拶するように。
すとん、と、短剣がハンスの首筋を貫きました。
「あ」
園長直伝の暗殺奥義──無より来たりて。
ハンスが取り落とした起爆装置は、私の手に収まりました。そのまま握りつぶします。
「これで、おしまいですね」
「な、な……」
「死ぬ前に、あと一つだけ。人を見れば女アバズレ乳尻エロいって、正直キモイんですよ」
「うぐっ、ぐはっ、がっ、ごぼっ……」
「お命、頂戴してもよろしいでしょうか」
跳躍し、空中で体をひねって首をへし折ります。熊かと思うほど硬い骨でしたが、力ずくでねじ伏せました。ごきん、という感触が伝わり、ハンスが白目を剥いて倒れ伏します。
「はぁ、はぁ、ふうっ、はあ……」
崩れ落ちたハンスの体を見下ろして、私は何度も息をつきました。ああ、良かった。なんとかなりました……!
「うひーっ…………」
乾いたうめき声をあげて、カミラさんが失神したようです。なんて言うか、血なまぐさくて申し訳ないことをしましたね。後で謝っておかないと……というか、どうやって正体を誤魔化しましょうか。
「ヨル、ありがとう……」
振り向くと、ミハエルさんと目が合いました。彼は悲しげに首を振ります。
「ごめんなさい、殺すしかありませんでした」
「いいんだ。あのまま罪を重ねるよりは、よっぽど良い」
そう言って彼はマルティナさんに向き直りました。そして、優しい笑顔で語りかけます。
「もう大丈夫だよ、ティーナ」
「パパ……! ごめんね、ごめんねぇ……!」
「パパこそ、ティーナの気持ちを考えてあげられなくてごめんよ」
抱き合う二人を、私はどこか遠くに見ていました。家族は強いなあ、と素直に感心してしまいます。
(終わりましたね)
爆発まであと五分、ギリギリセーフと言ったところでしょう。後は爆弾処理班の手に委ねるだけ。
──そう思った時、
「ヒヒっ」
「…………は?」
「残念だったな女!」
ハンスが起き上がりました。首の骨を折ったはずなのに、頭を九十度横に傾けたまま、平然と立ち上がったのです。その異様な光景に、一瞬私の思考が停止しました。怪人は血泡を吹きながら、
「ぐふっ、ぶふっ……! 心臓と脳さえ残ってりゃあよぉ……俺は死なねえんだよォ……!」
そう絶叫して、口から真っ赤な液体を噴き出しました。噴水のように飛び出るそれを、しかし私は呆然と眺めることしかできません。
え? え? 何ですかアレ? 超人を作る血清って、一体ナニから作ったんですか!?
「ふーっ、ふーっ、ひ、ひぃーっ、痛ぇ、痛えよおぉ! だが、おかげで目が覚めた! ミハエル! 一緒に死のうや!!」
首が折れているにも関わらず、力強く大地を踏みしめています。コートを捨て、耐衝撃スーツも脱いでしまうと、石像めいた灰色の胸板には無数の亀裂が入っていました。中から覗く肉色の組織はどくんどくんと脈打っているように見えます。まさか心臓が露出しているんでしょうか。
私は思わず後退りしていました。あんな人間、見た事がありません。もはやヒトの形をした別の生き物です。
「間違いだった! 生きてた事が間違いだった! 生き延びた事が間違ってた! 家族を守れなかった人生は終わって当然だったんだ!! ミハエル、お前もだ!!」
「ハンス!」
「心配すんな! 娘も一緒に殺してやらぁ!!」
「おじさん!?」
驚きの声をあげるマルティナさん目掛けて、怪人が飛びかかります。何も考える時間がない。彼女に飛びついて、殴打を背中で受け止めることしかできませんでした。
「がッ!? ぐうぅっ、ぎ、いぃッ、あっ、ああっ……!!」
背中に凄まじい衝撃。肺の空気が押し出され、呼吸が止まります。マルティナさんを抱きかかえたまま床の上を転がり、壁に当たってようやく止まることができました。
「ゲホッ、ゴホ……ッ、ううっ、うう、うぁッ」
背中から胸にかけて激痛が走り、視界がちかちかと明滅しています。痛い、熱い、苦しい。脂汗が止まらない。涙が滲んできます。
そんな私を、マルティナさんが心配げに覗き込みました。彼女の体に傷はありません。どうやら守りきれたようです。
「おばさん……どうして!?」
「おばさんじゃないです……まだ二十七歳ですっ……」
「なんで私を庇ったの? 私が死ねばよかったんじゃないの?」
なんで、と言われると。なんでなのでしょうね。口が無意識に動きました。
「愛って、戦いだと思うので…………」
「なによそれ、わけわかんない」
「あはは、そうですよね。私、変なことを言って……ごほッ」
咳き込むと、口の中に鉄臭い味が広がりました。喉の奥から生温かいものがこみ上げてきて、たまらず吐き出します。それは真っ赤な色をした水溜まりになって床に広がりました。
「あは……私、貴方のお父さんを愛していて、お父さんがあなたを愛しているから、だから……私も、あなたを愛せるようになりたいんです」
私は壁に手をつきながら立ち上がりました。視界が歪み、世界が二重になって見えます。でも、心は一つに定まっていました。
「……私、あなたのお母さんになれるように頑張ります」
「バカじゃないの」
吐き捨てるように言われました。その目には怒りの色が。やはり、ダメですか。こんな体たらくでは、信じてもらうことすらできないのでしょうか。
「……あなたは本当にいい子なんですね。私、そんなあなたに酷いことをしてしまいました。本当に、ごめんなさい」
「何よ急に、やめてよ!」
視界の隅で、怪人がミハエルさんの首を絞めているのが見えました。
愛し方が違っていても、同じ人を愛する者同士ならわかり合える。わかり合いたい。わかり合おう。その戦いを始めるために、
「お父さんは、私に任せてください。あなたは逃げてっっ!!!」
「ヨルさん!!!」
走り出す。
ミハエルさんは必死に酸素を求めて喘ぎ、苦悶の表情を浮かべていました。まだ間に合う。間に合ってほしい。
「がっ、がふっ、ぶぶっ」
「あああ、あああああああぁ!!!」
ヨル・ブライアは吠えました。喉の痛みなど気になりません。突っ込んでいくと、ハンスはミハエルさんを投げ捨てて拳を振り上げました。
怪人のハンマーパンチ。両手を組み合わせての降り下ろし。よけ切れません。だから傷を追った猪のように、捨て身で突っ込みます。
「死ねえぇ!」
「死んで、たまるもんですかあぁぁっ!!」
交差させた腕で、一撃を受けました。重い、そして硬い。左腕が砕ける音。体が潰れていく感触。
「ぐぐっ…………ぐおおぉっ!?」
重い金属的な衝撃音が二度、めちゃくちゃになったオフィスに響きました。それは銃声。
「がっ、ぐえっ、ミハッ……?」
よろめくハンス。訪れた好機。
「うううぅ──────うああぁぁぁっ!!」
右の抜き手。人を殺してきた手を、ヒトを殺すためのカタチに変えて。狙うは敵の露出した心臓!
「がッ、ぐあああぁああぁっ!」
──貫いた。指先が分厚い筋膜をブチッと破り、大動脈を裂いた感触が確かにありました。
それでもハンスは腕を振りかぶり、私の顔面を殴り付けようとします。
「ハンスゥゥゥゥゥウ!!!」
激昂し叫ぶミハエルさんの手で弾倉が回転し、さらに二発の銃弾が怪人の顔面を撃ち抜きました。私はよろめくハンスの頭を掴み、渾身の力で膝蹴りを叩き込みます。
ぐちゃり、という音と共に、鼻骨ごと頭蓋の中身がつぶれる感触がありました。
「かっ、がは、おごぉ……」
今度こそ絶命したか、床に崩れ落ちる怪人。勝った。──そう思った瞬間、信じられないことが起こりました。
「ぶふぅーっ……ぶふぅぅーっ……!」
ハンスが私の足を掴んでいるのです。脳も心臓も破壊されているはずなのに……!
「ひっ……!」
恐怖のあまり悲鳴を漏らした私を見て、怪人が勝ち誇ったように笑いました。
「ひーっ、ひひひひひひひ、死んでも、死んでも、俺は死なねえぞ……! お前らみんな、道連れにしてやる……!」
「……ハンス、お前」
「なんだよ、ミハエル……怖い顔するなよ……俺よりそいつを選ぶのかよぉ……! 戦友より、女の方が大事かぁ……男の友情より、エロい愛人かよぉ……!」
「ああ、そうだ」
私の男が、震える体を後ろから抱きしめてくれました。その温もりが、私の心を溶かしていきます。
「あん…………♡」
乳房や、腰を見せつけるように撫でられて、甘い声が抑えられません。
「いい女だろ、ハンス。胸も尻も大きくて、それでいて全身きゅっと締まってる。僕の女だ。このカラダも、ココロも、髪の毛一本に至るまで全部」
そう言って、彼は私の首筋に口付けを落としました。甘い痺れが脳髄から全身に広がって、私は恍惚の溜め息をつきます。
「ミハッ、ミハッ、ミハエルゥゥッ! 殺してやるぅぅッ!! まずはお前を半殺しにしてェッ! 女をぐちゃぐちゃになるまで犯してお前を殺すッ!! ヒヒヒヒヒィッッ!! ヒヒッ! ヒヒヒヒヒィィッ!! ヒヒャハハハハァッ!! ハハハハハハハァァァッッッ!!!」
「僕はこの子と幸せになる。先に地獄で待っててくれ」
離れていくミハエルさんの体温に後ろ髪を引かれながら、私はハンスの頭をむんずと掴みました。
そしてそのまま力任せに床へと叩きつけます。何度も何度も何度も。
ぐしゃり、と何かが割れる嫌な手応え。頭部が完全に破壊されたようです。ですが私の手はまだ止まりません。
何度も何度も何度も何度も叩きつけて。やがて動かなくなったそれを見下ろしていると、血塗れの手をぎゅっと握りしめられました。
「お疲れさま、ヨル」
「はい……お疲れ様でした、ミハエルさん」
私達は自然と顔を寄せ合い、唇を合わせました。
バタバタという足音。遅ればせながら駆け付けた爆弾処理班でしょうか。
口づけの恍惚に浸りながら、私は意識を手放しました。
◆◇◆◇◆
ハンスの死から、一か月が経ちました。教会で荘厳な雰囲気に包まれた追悼ミサが行われています。祭壇には、美しい花々に囲まれたエリザベートさんの遺影が飾られており、神父様が祈りを捧げていました。
「祈りましょう、主の慈しみのうちに」
静かなオルガンの音色に合わせて、讃美歌が流れ始めます。喪服姿の人々がひしめき、亡き人の冥福を祈っていました。
その中に一人、マルティナさんが泣きながらミサに参加しています。彼女の涙は止まることなく、肩を震わせて悲しみに暮れているのです。そんな娘に寄り添い、ミハエルさんがそっと肩を抱いていました。
ろうそくの炎が揺れ、その光が教会内に幻想的な雰囲気を作り出しています。誰もが厳かな空気の中、神の御前に跪き頭を垂れていました。
私は…………形だけ、それらしい態度を取っています。殺し屋で、ミハエルさんの愛人ですから。
◆◆◆
緑豊かな墓地には、整然と並ぶ墓石が静かな時間を刻んでいます。その内のいくつが私の殺めた人達なのでしょう。私が奪ってきた人生の数なのでしょうか。
最近、よく考えます。私に普通の幸せを掴むことができるのかと。罪深い殺し屋が恋をして、結ばれて、幸せな家庭を築けるのだろうかと。きっと、難しいと思います。けれど……
「さよなら、ママ」
墓前に花を供えたマルティナさんは、どこか寂しげに呟きました。
「私は今、とっても幸せだよ。どうか神様の下で安らかにお眠りください」
車に戻ると、すぐにミハエルさんがエンジンをかけました。車はゆっくりと走り出し、窓の外では景色が後ろへと流れていきます。
「ね、ヨルさん」
「はい、マルティナさん」
「今日はアレ食べたい。ソーセージにりんごのソースがかかったやつ」
「ああ、ブルートヴルストですね」
「そう、それ! あのちょっとクサいけど美味しい奴!」
「じゃあ、今から食べに行きましょう」
「やったぁ! さっすがヨルさん、わかってるぅ~!」
にこにこと頷く少女に微笑み返すと、ハンドルを握るミハエルさんを見遣りました。まっすぐ前を向いて運転を続けています。
「ティーナ、パパも一緒に行っていいかな?」
「えー。どうしよっかヨルさん? いいよって言おうか?」
意地悪っぽく笑う娘の声に、バックミラーに映る彼の顔が苦笑します。私もつい吹き出してしまいました。
「ミハエルさん、いいですよ」
「ははは、ありがとう。じゃあいつものレストランに電話して…………」
「いえ、それもありますけど。私たちのことも、いいですよって」
そう言うと、彼は面食らった顔をして固まってしまいました。でもそれは一瞬のことで、みるみるうちに耳まで赤くなってしまいます。そんな彼の反応を見てくすくすと笑う私と、不思議そうな顔をする少女。そんな私達を乗せて車は走る。
ミハエルさんがプロポーズしてくれたのは、ちょうど一週間後のことでした。
(第三話 妻を失って悲しみに暮れている酒臭いハゲオヤジの愛人、ヨル・ブライア 了)
(エピローグ 再婚して人生順風満帆な小太りでキモいハゲオヤジの後妻、ヨル・ゲルゲス に続く)