Aパート
(死にたくない! 死にたくない!!)
そう恐怖する男は、悪漢だった。
だが今は、怯えた小動物のように木箱の陰で身を隠している。
窓から射す夕日が、コンクリートの床を照らしていた。その上に、赤い液体が広がっている。仲間たちの血だまりだ。
コツンという足音。だだっ広い倉庫内を駆け巡ってきた音の波が、男の鼓膜を震わせる。
コツンともう一度、今度はより大きく。
「ひ……! …………!」
悲鳴を上げそうになり、慌てて口を閉じる。波の音が、荒い呼吸音を包み込んでくれた。
きっと。恐らく。
悪漢たちの根城だった港の倉庫は、いまや血まみれの死体置き場と化していた。三十人はいたはずの仲間たちは皆、無惨な屍となって転がっている。
もはや動く者は、〈彼女〉以外にいなかった。
第二話
最近笑われなくなってきた小太りな
ハゲオヤジの不倫相手、
ヨル・ブライア
コツ、コツと靴音が近づいてくる。そのリズムは、まるで死へのカウントダウンのようだ。
(いやだ! 死にたくない! なんで俺が!)
彼は誓って殺しも人身売買もしていない。ただ、違法薬物をさばく組織の幹部というだけだ。
(たったそれだけなのに! おかしいだろっ!)
足音が止まった。
「国を蝕む魔の薬。法も許さぬ人でなし。本来なら、人民警察*1にお任せするところですが」
「ひ…………うっぐっ!?」
衝撃。男の総身が宙に浮く。視界が回る。
激痛。背中から叩きつけられたのだ。
絶息。一瞬意識が途切れて、そして戻ってくる。
いつ、どのようにどうされたものか。倒れ伏した彼の胸元には、金の短剣が生えていた。切っ先は見事に心臓を貫いている。
「行きがかり上、私が息の根を止めさせていただきますね」
彼を見下ろす、美しい女。瞳は血のような赤、髪は夜の帳を思わせる黒。肌は月光を照り返す雪のごとく白かった。それでいて首から下は生々しい女体の曲線を描き、張り詰めた乳房が黒のドレスをこんもりと押し上げている。
(ああ、こんな女をヤクで狂わせて
もう叶わない下卑た妄想を最後に、彼の魂は地の底へと旅立った。
◆◇◆◇◆
ゲルゲス課長の寂しかった頭は、思い切りよく全部剃り落とされていた。たっぷりオイルが塗られ、照明を受けたその様は。
「電球に、ピカリと光るハゲ頭……」
ぼそっと呟いた金髪の市役所職員カミラは、ゲルゲス課長の仕事っぷりをじっと観察していた。
「おーい、○○君! この書類のここ、誤字があるぞぉ」
「あっ、すみません……!」
「最近どうだね? 体調管理はしっかりしてるかい?」
「おかげさまでっ! いや~課長に負けてらんないっすよ~!」
「そうかそうか! この書類も誤字を除けばいい出来だ! その調子で頼んだよぉ~」
「うっす! ありがとうございます!!」
ここ最近の彼は、控えめに言っても絶好調だ。キモ暗いオーラは鳴りを潜め、謎の自信で満ち溢れている。くたびれていたスーツも体型に合わせて新調し、革靴もピッカピカ。
(ああいうの、回春って言うのかしら。あー、あー、キモッ)
お洒落なカミラからすれば絶妙にダサいというか、二十年前の〈イケてるおじさん〉像をそのまま真似したかのような出で立ちだ。
しかし男性陣の受けはいい。カミラの彼氏も
『年上のおじさんが努力して変わろうとしてるんだ、男なら俺も負けてられるかーって思うものさ』
などと爽やかに申しており──要するに、ゲルゲス課長は男を上げてしまっている。
女性陣は激変の理由が分からずに不審がっているが、カミラだけはおおよその検討がついていた。
(絶対よ、間違いないわ。ヨル先輩の影響よ)
最近のヨルは、浮ついている。初めての恋に夢中な中高生のように。妻子持ちの中年男と不倫しているとは思えない陰の無さは、フワフワで真っ白な綿菓子を思わせる。
そのくせ妙に
(市役所で不倫なんて、ヤバすぎる……!)
叫びだしそうになり、とっさに唇を噛む。
行政情報を取り扱う市役所において、不倫なんてご法度中のご法度だ。下手をすればスパイ容疑がかかるし、下手しなくてもバレれば間違いなく、クビ!
(知りながら黙ってた私も何言われるか……! そんなの絶対にごめんだわ!)
このままではいけない。幸いにして(?)今のところ誰も気づいていない。だがそれも時間の問題、ならば先手必勝でこちらからアクションを起こすべきだ。
カミラにはアテがあった。彼氏のドミニク、そしてドミニクの友人であるユーリ・ブライア。ヨルが自慢げに話していた、弟の存在である。
◆◇◆◇◆
部長室の窓から入り込む西日は、夕日の赤から夜闇の藍色に変わってゆくところでした。
「ただいま戻りました、部長」
「はい、〈出張〉ご苦労様でした」
私、ヨル・ブライアより遥かにたくさんの殺しを経験された〈部長〉の声は平静そのもの。老紳士然としていながら眼光鋭く隙のない佇まいからは、殺し屋稼業の年季を感じずにはいられません。
「これで次長の後始末も終了だ。密輸に手を染めていたとは驚いたが、我々〈ガーデン〉の構成員に手を出したのが運の尽きでしたね」
「あはは……」
私は愛想笑いで応えました。課長との事は、何も報告していません。
あの人を〈お仕置き〉されるわけにはいかないのです。悟られないようにせねばなりませんよ、ヨル!
「彼は優秀だったが、それだけ妬まれてもいた。男同士のコミュニティから爪はじきにされ、女を弄ぶ事にのめり込んでいったようです」
「そうでしたか」
「嫉妬の心は人を醜くする。アナタも気を付けて下さい。職場では目立たず、プライベートも平穏無事でいるように」
「はい」
もう。お年を召した方は、どうしてこうお話が長いのでしょう。次長なんかの話より、私は早く家に帰りたいのです。
なぜって今夜は、課長とおうちデートっ。二人で食事をして、テレビを見て、もちろんその後は……ムフフですっ♡
「ところで、ゲルゲス課長のことだが」
「うえっ!? あ、はい?」
思わず変な声が出てしまいました……っ。そんな私に構わず部長の話は続きます。
「彼は、最近評判を回復している。目の上のたんこぶだった次長がいなくなったせいか、ずいぶん仕事熱心になったとか」
「あ、は、はあ」
「アナタ、同じオフィスでしょう。最近の彼はどんな調子なのか、少し教えてもらえませんか?」
「……ええー……っと……」
「どうかしたかね? 彼に何か問題が?」
「……いえ別にありませんっ!」
結局その後、私はうっかり課長との関係を喋らぬように神経をすり減らし続けながら根掘り葉掘り……ううぅ……課長と過ごすはずの時間がどんどん目減りして、いつの間にか外は真っ暗に……。ぐすん。
◆◆◆
「ん……ちゅっ♡」
唇が離れる瞬間の音が、やけに大きく響きました。自宅の狭いシングルベッドで抱き合っていると、二人の体臭が混じり合ってくらくらしてしまいます。
「はあ、ふう……」
「課長……♡」
私の下で、小太りなおじさんが荒い息を整えていました。ぽっこりしたお腹に汗の玉が浮いていて、それがたまらなく愛おしい。だって私とのセックスを夢中で楽しんでくれた証なのですから。
「ねえ……もう終わりですか……?」
明日から連休ですから、私は一晩中だって構わないのですが……。課長が困ったように苦笑します。
「……ヨルくん」
「はっ、はいっ」
「……いや、その……そろそろお腹が空いてきたなあって思ってね……」
「……そ、そうですね……夕食がまだでしたね……すっかり忘れてましたぁ……えへへっ……」
食事もせずに玄関で後ろから、ベッドで前から下からと何度も体を重ねた私たちでしたが、言われてみると確かにお腹がペコペコです。
「……でも、課長のコレ、お腹の中で固いままですよ……? もうちょっとだけ……ね?」
そう言って腰をくねらせてみせました。左右だけでなく上下に動かすと、揺れる乳房に課長の視線が吸い込まれていきます。
ほら見てください、私のおっぱい、こんなに大きいんですよ♡ むぎゅむぎゅ揉んでください、吸ってしゃぶって甘噛みしてください♡♡
「……ほおっ、ふおぉ……だっ、だめだよヨルくん」
「んもう……分かりましたぁ……」
私が離れると、抜け出たペニスは避妊具の中にたっぷりと白いものを残していました。薄い青色のゴムの中、精液の白が毒々しいまでに映えて見えます。
(すごい量…………♡)
ゴムを外してあげると、生臭い匂いが広がりました。鼻の穴をヒクつかせるくらい濃厚なザーメンの香りに、子宮の奥が疼きます。
(ああぁ……こんなの見たら……またシたくなっちゃう……)
私は避妊薬の服用を止めていました。おかげで体調が良くなって、前よりもセックスを楽しめるようになった気がします。なんて言うか……本能がうずくというか……♡
◆◆◆
体を許した男性と、二人きりの夕食。キッチンの灯りに照らされて輝くナイフとフォークは、どこか誇らしげにすら見えました。
「わあ、美味しい! なんだかお店の味みたいです!」
「それは良かった。作った甲斐があるよ」
時間も遅いですから、パンにハム、それとチーズを切ってお皿に載せただけ。でも、課長がサッと作ってくれたリンゴと赤キャベツのサラダはとても華やかで美味しかったのです!
私がリンゴを好きと言ったのを覚えていてくれたんです。爽やかな酸味が塩気の強いハムによく合って……でも……
「すみません、私、家事はお掃除しか出来なくって……料理はさっぱりなんです」
「き、気にしないで。僕は慣れっこだから大丈夫さ」
「うう……」
申し訳なくてうつむく私ですが、課長は苦笑いしつつフォローして下さいました。女として情けない限りです。
「あ、はは、仕方ないよ。食事は女性が作るべきなんて固定観念、今の時代は通用しないんだ」
「そうでしょうか……課長はいつもご自分で作られてるのですか?」
「うんまあ……うん」
そう言うと課長は、少し恥ずかしそうに目を伏せました。
「……できる限り、自炊するよう言われてるんだ」
「そうなのですか? 奥様は……あっ」
……奥様。娘さん。
……家庭。家族。
……自炊? 家庭と、家族があるのに?
「……ヨルくん、その……明日からの休みなんだけどね、家族とスキーに行くことになったんだよ」
「……そう、なんですか」
「……ごめんね、せっかくの連休なのに」
「謝らないでください。私たち、そんな風に気を使う関係じゃないですよね?」
食卓は静かになりました。カチ、コチと時計の針が進む音。壁掛け時計さん、残り時間を教えてくれているつもりなのですか? 余計すぎるお節介というものですよ。
「いつも、一人でお食事されてたんですか?」
「え、ああ、そうだね。娘はふだん寮だし、妻も婦人会や習い事で忙しいから……」
「それじゃあ寂しいですね」
「いやあ、ははは……」
手を伸ばして、彼の皿にサラダを取り分けます。
「もっと召し上がってくださいね。ソーセージやチーズばかりだと、いつまでも体脂肪が減らないんですから」
「あ、はは……健康診断の結果がちょっと心配だったから、気を付けることにするよ」
私は笑顔を絶やさないように努めました。頬が引きつらないように、声が震えないように、意識して。
「スキーだなんて、素敵なご家庭じゃないですか」
「……ごめんね。本当に済まない」
「いいんですよ、そんな他人行儀なこと言わなくたって。私なら大丈夫ですから」
上手くできている自信はありませんけど、とにかく笑わなければと思いました。
だって私、これから彼を困らせるのですから。気取られない程度に深呼吸して息を整えます。
さりげなく、さりげなく、何気ない口調で──
「──どちらのスキー場へ行かれるんですか?」
(続く)