Aパート
かつてのミハエル・ゲルゲスは妻を愛していた。
若きエリザベートは品格と教養を兼ね備えた令嬢であり、妻として申し分ない相手だったからだ。
そんな彼女を一人置き去りにして、ミハエルは出征*1した。苛烈を極める戦争の中で、政府から愛国心を煽られたミハエルは、親族の復讐と共に祖国の勝利を願ったのだ。
『ミハエル、そりゃあいけねえよ。嫁さんは大事にしてやれや』
クソまずい缶詰のレーションをかきこみながら、戦友のハンスはそう言った。男なら女を守れ、子供を守れ、と真新しい頬の切り傷を歪めて笑った。
その戦友も銃弾に倒れた。小隊が敵に待ち伏せされた時、迫る銃弾から身を挺してミハエルを救ってくれたのだ。幸い一命は取り留めたが、後方に送られたあと行方知れずとなった。
後で知ったことだが、彼の故郷は終戦間際に砲撃で壊滅したという。
……回想は、そこで終わる。
「吐けッ!」
「あ、ぐっ」
頬にめり込んだ鉄拳が、ミハエルの意識を揺り戻す。
窓もない秘密警察*2の取調室は暗く冷え切っており、わずかな電灯の明かりがユーリ・ブライアの激した顔を照らし出していた。
「吐けよミハエル・ゲルゲス! お前が女房を殺したんだろォ!!」
「っ、てない……僕じゃない…………ッ!!」
さらに殴打してくる。ミハエルと情を通じたヨル・ブライアの弟は、嗚咽のような金切声を挙げながら拳を振り下ろし続けた。
「このクソオヤジがぁ! なんで姉さんがお前なんかと!」
「ガハッ……!」
拳。糾弾。激痛。罰。償い。罪。
(すまない、ハンス。僕は結局、過ちを犯した。家族を台無しにしてしまったんだ……)
戦友に詫びながら、ミハエル・ゲルゲスは再び意識を喪失した。
第三話
妻を失って悲しみに暮れている
酒臭いハゲオヤジの愛人、
ヨル・ブライア
ミハエル・ゲルゲスは吐かなかった。旅支度をしながら、ユーリは感情のままに机を蹴りつける。
「くそっ……役立たずの人民警察*3めっ!」
ミハエルの動向を探り始めた矢先、その妻エリザベートがスキー場のホテルで死亡した。しかも、全身をめった刺しにされた惨殺死体となって発見されたのである。
すぐさま連行したミハエルは頑として犯行を認めない。現地警察はクロだという証拠どころか、アリバイがあるという目撃証言を上げてくる始末だ。
もはやユーリは、自分で現地に向かうより他になかった。
「僕の手でケリをつけないと……なんとしても、あのゲロカス野郎が犯人だってことを証明しないと……!」
────でなければ殺人の嫌疑が、姉にかかってしまうではないか! スキー場でゲルゲス一家に近づく姿を目撃されたヨル・ブライアに!!
姉には動機がある。ミハエルの不倫相手だからだ。行き遅れの年増女が職場で嘲笑されるキモイ中年ハゲオヤジなんかに入れ込んで、嫉妬から本妻を殺してしまった。オスタニアの常識では、そう解される可能性が十分にある。
「うぷっ……!」
猛烈な吐き気が込み上げ、ユーリはトイレに駆け込んだ。胃の中のものを吐き出すが、透明な液体しか出てこない。ここ数日ユーリはろくに食事をしていなかった。
「ゲホッ……ハァー……ハァー……」
荒い息を吐きながら拳を握り込む。爪が手のひらに食い込んでいく。
汚らしい豚野郎のせいで最愛の姉が殺人犯呼ばわりされるなど、断じて許せない。許せるはずがない。なんとしても真犯人を突き止める。
だがもし、万が一にも姉がクロだったら──
「……り、つぶしてやるっ…………! いやっ、握り潰さなければならないッ!」
自分の人生と引き換えにしてでも、そんな証拠は握り潰さなければ。
爪が皮膚を突き破り、鮮血が滴り落ちる。
血。そうだ、自分と姉は血を分けた姉弟、この世にたった二人の家族。家族の過ちは、家族の手で拭わなければならないのだ。
◆◆◆
ミハエルさんの自宅で過ごす爛れた生活は、二日目の昼を迎えていました。
「あ゛っあ゛っあ゛っ! それダメっ! やめへぇっ!! あぐっ! ひぎぃっ! あひっ!」
私を組み敷いたミハエルさんが激しく腰を振りたくり、乱暴に抽送を繰り返します。陰部は荒淫による炎症でヒリヒリと痛み、セックスの気持ちよさを感じられなくなっていました。
「ごめんねっ、ヨルくん、ごめんねぇ……! でも気持ちいいよ……! 最高だよ君は……! 君さえいてくれたらぁっ……!」
「ぐっ、だっ、だいじょうぶ、ですぅっ……! 私で気持ちよくなってぇ!」
私は必死に笑顔を取り繕います。彼の苦痛を和らげたくて、悲しみを少しでも癒したくて。
「ああっ、あああっ……! 出るよっ、出ちゃうよぉ……! 受け止めてくれぇ!」
「はいぃ……いっぱい出してぇ、私の中にたくさん射精してください……」
熱いものが弾けました。膣内に注ぎ込まれる熱にうっとりと浸ります。お腹の奥にじんわりと広がる心地良い暖かさ。でも、
「は、あぁ……ううっ、エリー、ごめん、ごめんなぁ……」
「……!」
奥様の名前。暖かさが冷たい嫌悪感に変わって、心臓のあたりをじわじわと締め付けてきました。
私の男は、エリー、エリーと繰り返し死んだ妻の名前を呟きながら精液を流し続けています。
「はあ、はあ、エリー……」
「……ミハエルさん」
私は涙に濡れた顔へと手を伸ばしました。殴打の跡が色濃く残った頬の、ガーゼの端から血と膿が滲み出ている部分をそっと撫でます。
「ごめんなさい……弟がひどいことを……」
「いいんだ、いいんだよぉ、僕が悪かったんだ、僕が、僕があっ、うう、ううっ、エリー……」
ユーリは、いつの間にか国家保安局のホープと呼ばれる人間になっていたのです。その弟が、彼に与えた傷跡。私の非難に応えようともせず捜査に戻っていく弟の、その背中を思い出すたびに……。
(ああ、いけない)
ミハエルさんがこんなに苦しんでいるのに、泣いてどうするんです。もっとしっかりしないと。ヨル・ブライアは彼の愛人なんですから。
(こんなときにこそ、この体を使って慰めてあげないと)
たまたま人より魅惑的だった体を、ちゃんと活用しなくてはいけません。オンナの体は、愛する男性に喜んでもらうためのもの。そのための肌であり、乳房であり、性器なのです。
「……ん」
唇を触れ合わせれば、ツンと鼻をつくアルコール臭。痛みを紛らわせるために、私が飲ませた蒸留酒の匂いです。
「酒臭いよね、ごめん」
「ううん、いいんですミハエルさん、ミハエルさん……ちゅっ、ちゅむっ、んちゅっ……」
首に手を回し、さらに深く口付けを交わします。いやらしく、丁寧に、彼の性欲を喚起するように。
今だけ。この苦しみは一時のもの。きっと私たちの潔白は明らかになる。弟が必ず証明してくれるはずです。
それまで、私は彼と共にいる。奥様を殺害した嫌疑で尋問され、痛めつけられ、アルコールで痛みをごまかすダメなおじさんの、全てを受け入れてみせます。
……ごめんなさい、ユーリ。本当に、こんなつもりじゃなかったの。
◆◆◆
夕方、分厚いドアをトントンとノックすると、わずかな沈黙の後で返事が返ってきました。
「…………はい」
かすれ、震えて、上擦った声。ミハエルさんの娘、マルティナ・ゲルゲスさんの声です。
「マルティナさん、一緒にお食事を……」
「話しかけないで! アンタの声なんか聞きたくない!」
拒絶の声は悲鳴のようでした。ドアの向こうで泣いている女の子の姿が目に浮かぶようです。
「ママを返してよ、人殺し!!」
「私は奥様を殺していません。本当です」
「ウソつき! じゃあ、じゃあなんでっ、パパとイヤらしい事ばかりしてるの!?」
「…………」
返す言葉もありません。
奥様を喪うばかりか手ひどく痛めつけられたミハエルさんは、酒精と女の体に溺れることで心の傷を癒やそうとしていました。
そんな彼に尽くそうとして、昼も夜もなくセックスし続けているのは他ならぬ私自身なのです。
「気持ち悪い! 吐き気がする! 汚い! 死ね!!」
ドアの向こうから聞こえてくる声は、まるで獣のような唸り声になっていきました。
「お願いします、せめてお食事だけでもとってください。でないと、ミハエルさんに申し訳が立ちません!」
「……!!」
名前を出した瞬間、扉越しに怒気が膨れ上がります。殺意、と言ってもいいでしょう。
「やめてよ! あんな男、もう父親なんかじゃない!!」
「え……」
「ママのこと忘れて、別の女を連れ込んで……最低のクズだわッ!」
激昂のあまり声が裏返っています。
「アイツなんて嫌いよ!! 大ッ嫌い!! 死んでしまえばいいんだわッ!!」
叩きつけるような叫び。
……今ほど、自分が戦災孤児であることを呪った経験はありません。分からない。分からないんです。親を想う子の気持ちが、私には分かりません。
憎んでいるの?
甘えたいの?
恨んでいるの?
……それとも、抱きしめて欲しいの?
私には、あなたの気持ちが何も理解できない。
「……お食事、ドアの前に置いておきますね」
逃げるように廊下を戻ると、無人のダイニングに二人分の料理が並んでいました。テーブルにぽつんと取り残された、冷めた二皿。屋台で買ったブルート・ヴルストというソーセージに、大好物のリンゴソースをかけたもの。
フォークを突き立て、口に放り込んで嚙み締めると、生臭い鉄分たっぷりの香りが広がりました。
豚の血液から作られたヴルストは、宗教によっては
でも私は、血とリンゴが作り出す蠱惑的な味わいが好きでした。甘さの中に潜んだ塩気と香味は、まさしく罪の味と呼ぶにふさわしいもので……。
「……あきらめ、ませんから」
握りしめた鉄のフォークが、
◆◆◆
深夜。ミハエルの頭は、アルコールでぐにゃりと歪んでいた。
「あああっ! 神よ! 僕を罰してください……! 僕は地獄へ堕ちます……!」
酔いのせいで呂律の回らない舌で、うわ言のように呟き続ける。震える指は聖書のページをめくる事もできず、ただただ無為に紙面を撫でていた。
ふと顔を上げると、ベッドサイドに置かれた鏡に映る自分の姿が見える。禿げた中年太りの男だ。醜く肥えた体に醜い顔を貼り付け、醜い心を宿した怪物──それが自分だった。
「ああ、エリー……ヨルくん……僕なんかのせいで……すまない、すまないっ……!」
妻の名を呼び、愛人の名を呼び、泣きながらグラスを呷る。悲しみはない。妻への愛はとっくに枯れ果てて、義務感だけで続けてきた夫婦だった。それでも涙が止まらないのは、後悔と情けなさからだ。
「ゲホッゲホッ……! はぁっ、はぁーっ……」
ヨルを追いかけてスキー場を離れなければ、妻を守れたのでは? 娘を悲しませずに、ヨルに負担をかけずに済んだのでは?
家族を守るという、戦友との約束を守れたのでは?
悪夢のように胸苦しく攻めてくる自責の念に耐えかねて、ブランデーの瓶に直接口を付けてしまう。喉奥に流れ込む琥珀色の液体が、焼け付くように胃の中へと滑り落ちていく感覚。空になった瓶を投げ捨てようとして──
その視線が、ドアの方へ釘付けになる。
「……えっ……?」
愛人のヨルだ。間違いだらけの自分を好きになり、体を許し、尽くし、そして寄り添ってくれている、健気で一途な黒髪の美女。
「どう、して……」
「あはっ」
ミハエルが目を白黒させたのは、古代の罪人じみたヨルの姿だ。縫い目のない一枚の亜麻布に頭を通し、腰帯で止めただけの簡素な衣服。長身で豊満な彼女だけに手足はむき出しで、豊かな乳房やお尻がチラ見えしていた。
下着も着けていないらしく、歩くたびに両足の付け根にある茂みが見え隠れしている。首には、革の首輪まで嵌められていた。
奴隷かあるいはペットとも思わせる姿だが、ヨルの顔は神妙そのものだ。ただ一点、赤い瞳が濡れて輝きを増しているのを除けば。
困惑する彼の前で、ヨルは床に座り込むと三つ指をついた。それから深々とこうべを垂れて、額を床へ擦りつける。その姿勢のまま放たれた言葉は、男をさらに狼狽させるものだった。
「ミハエルさん……いいえ、ご主人様……」
「ヨ、ヨルく──」
「──この度は大変なご迷惑をおかけしました。どうぞ、私を罰してください」
「ちょっ、ちょっと待っ」
「なんでもします。どうか、償わせてください」
「おっ、落ち着いてっ」
「すべて私が、悪いんです。ご主人様は何も悪くありません。だからお願いです、私を罰してください」
ヨルは、伏した姿勢のままゆっくりと、体ごと後ろに振り向いた。白く艶めかしい肌に包まれた臀部豊かな肉付きが、ミハエルの視線を絡め取る。
「うっ」
男は息を呑んだ。美しい尻だった。柔らかそうな曲線を描く双丘は、はちきれんばかりの瑞々しさを湛えて張り詰めている。長くしなやかな脚部は鍛え上げられており、曲線美はため息が出るほどだ。その間に覗く黒い陰毛さえもが、情欲を搔き立てる。
「ああ……」
酒精でしびれた脳髄が、甘く蕩かされていくようだ。娼婦でもやらないような破廉恥な愛人の姿を見て、ミハエルは無意識に熱い吐息を漏らしていた。アルコールとメスの匂いに酔いしれ、呆けた顔で涎を垂らしてしまう。
(これは、夢か?)
自分の願望が見せる淫夢だとしか思えなかった。あのヨルがこんな淫らな姿で跪き、自分に許しを乞うなどあり得ないことだ。
悪いのは自分なのだ。勝手に従軍して妻を苦しめ、ヨルを脅迫して関係を結び、あげく愛人を選んで妻を死に至らしめた。そんな男が彼女を罰する? ありえない。できるわけがない。なのに、彼女は自分を責めろと言ってくる。
「お願いです……どうか……許されたいのです」
(ヨルくんは悪くないむしろ謝るべきなのは僕の方だ許してくれだなんておかしいよ僕が君を罰するなんて許されるはずがないんだ)
混乱したまま言葉を探して逡巡している間に、彼女は腰を持ち上げ始めた。ぷりんっ、と弾むように形の良い巨尻が揺れ、甘い蜜の香りが立ち込める。薄桃色の粘膜がわずかに覗く割れ目もあらわになっていき──そこでミハエルは立ち上がった。
(ああ、ダメだ。こんなことは許されない。僕は大人として、夫として、父として最低なことをしようとしている)
だが、もう止まらなかった。欲望を抑え込もうと必死に抵抗するものの、彼の視線はもはや二つの桃果実から引き剥がすことができない。気がつけば、ふらふらと愛人の尻に向かって歩き始めていた。
「あっ、あああ……っ!」
心の海に嵐が吹き荒れ、大波を立てていく。遭難した船がやっと見つけた浮島は、さながら人食いの女神が住まう楽園だった。ミハエルの理性を溶かし尽くす、誘惑と堕落の罠だ。
「あはっ……」
両手でむんずと鷲掴みにする。柔らかな感触が手のひら全体に広がっていった。指が沈み込み、反発するような弾力性を感じさせる極上の尻たぶ。男の欲望をそのまま形にしたような感触、触り心地の良さへ夢中になるあまり我を忘れてしまいそうだ。
「あっ、ああぁ……お願い、罰して、許されたいの、だからどうか、ヨルのお尻をペンペンって叩いてください……」
「あ、ああっ! ……そっ、そんなこと……!?」
「おおきな手で痛いくらい強く……私のいやらしいデカケツをぶってください……おねがいします……」
「うおっ!? うお、おおっ!!」
「おねがぁい……お願いしますぅ……おねが……いいっ……!」
ミハエルの右手が、何かに引っ張られたように振り上がる。追い詰められて弾力を失っていた心は、今や水風船のように膨らみきって破裂せんばかりだった。
「お、おねが……お願いしますっ……どうか、お慈悲を……!!」
「……ッ!!」
渾身の力で、右手を振り下ろす。ぱあん! と小気味よい音を立てて、手が柔らかい肉を叩く。甲高い悲鳴が上がり、白いヒップが揺れた。
ミハエルの体を駆け巡った快感が弾け飛ぶ。それは、今までの人生で一度も味わったことのない強烈なエクスタシーだった。
(続く)