それぞれのスタート
柔はしばらくの間、耕作との抱擁の余韻に浸っていたが、鴨田が駐車場で待ってくれている事を思い出し、慌てて踵を返して駐車場に向かって急いだ。
(いけない…!鴨田さんが待ってくれてるんだったわ!それに早く帰らないと…。授与式は多分おじいちゃんいたからなんとかなったとは思うけど…)
駐車場に着くと、鴨田が自分を見つけて手を振ってくれた。
「柔ちゃーん!こっちだよ!」
大声で名前を呼ばれて少しドキッとしたが、駐車場には自分達しかいない様で、ひとまずホッとする。
「すみません、鴨田さん。お待たせしてしまって…」
「あー大丈夫、そんなに待ってないですよ」
鴨田はニコニコしながら言った。
「さっ、乗って乗って!送って行くから!どこまで送っていけば良いかな?」
柔はそう言われて少し考えた。もう会場に行っても終わっているだろうし、記者会見も既に始まっているはずだ。
自分が帰る頃には、もう母が自宅に戻っているかもしれないと考えて、柔は自宅にとりあえず向かって欲しい、と答えた。
「柔ちゃんの自宅だね。分かった。じゃあ出発するね」ゆ
2人はしばらくお互いに黙ったままでいた。そんな少し緊張した沈黙を破ったのは鴨田だった。
「…あの…柔ちゃんさ、な、なんかその…松田さんにさっきなんか言われたり、なんかあったりした?」
「…えっ…」
柔は鴨田の質問に驚いて少しの間絶句してしまう。
「あ、いや、何も無かったり、言いたくないならいいんだ。ごめんね、柔ちゃん」
鴨田はそう遠慮がちに言って、その話をする事を止めてしまった。柔は、もしかしたら鴨田は耕作の柔への気持ちを知っていたのではないかと思った。それに、バルセロナオリンピックで柔が耕作達が泊まっているホテルを、柔は鴨田に訊いている。その時の態度で柔自身の気持ちにも気付かれていたかもしれない。鴨田は、自分程には鈍くないだろう。柔は、少し迷ったが、それとなく伝えておいても良いかもしれないと思った。
「あの、鴨田さん。あたし、松田さんと正式にお付き合いする事になりました。今までの間、あたし達の事でご心配をおかけしていたのならすみませんでした。あたし達もう大丈夫です。でも、まだ世の中には公表しないので、この事は申し訳無いですが黙っていていただいて良いですか?公表する時は、多分日刊エブリーだけのスクープになると思いますし」
鴨田は、その柔の言葉を聞いて、嬉しそうに笑った。その瞳にはうっすらと涙が滲んでいる様だった。
「そうかぁ!本当に良かった!もちろん言わないよ!良かったっすねぇ、松田さん…本当ずっと柔ちゃんの事好きだったもんなぁ…全然素直じゃなかったけど…素直になった方が良いって言った甲斐があったなぁ…」
途中からは、まるで独り言の様に鴨田は呟いていたが、柔に全て丸聞こえだった。柔は、自分達の恋の成就を、親友以外に喜んでくれる人がいる事が嬉しかった。
「あ、そうだ。さっきは誰にも言わないって言ったんだけど、邦ちゃんだけには言っても良いかなぁ?邦ちゃん、2人の事すごく心配してたからさ…」
「…はい。大丈夫です。鴨田さんから伝えていただけますか?実は、松田さんがアメリカ行っちゃう事、教えてくれたの邦子さんなんです」
「あ、そうだったんだ…。邦ちゃんから聞いてたんだね。僕の方から伝えておくね。…柔ちゃん、本当にありがとうね。松田さんの事、よろしくお願いね。松田さんに柔ちゃんがいてくれるなら、安心だよ。遠距離だから大変かもしれないけど…頑張って」
「…はい」
その後は、柔は鴨田が知っている限りのアメリカでの状況を聞いたりしながら帰り、あっという間に東京の自宅に着いた。
鴨田にお礼を言い車を降りると、自宅にそっと入っていく。鍵は開いていた。どうやら母の玉緒が帰って来ている様だ。
「ただいま戻りました…あ、お母さん!」
「お帰りなさい、柔」
娘が帰宅した事に気付いた玉緒が、台所から出て来て柔を出迎えた。柔は、母が怒っているのではないかと思っていたが、案外穏やかに出迎えてくれたので少し驚いていた。
「あの、お母さん。今日はごめんなさい。あんな騒ぎ起こして、途中でいなくなったりして…」
柔は深々と頭を下げて母に謝罪した。
「柔…松田さんと一緒に出て行ったわよね?松田さんと何かあったんじゃないの?」
そう母から言われ、柔は頭を上げて母の顔を見た。その顔は、何かを期待している様な、でも既に答えを知っている様な、とにかく嬉しそうな顔で柔を見ていて、柔の顔はかぁっと赤面した。
「え、えっと…今日、松田さんがお仕事でアメリカに行くと聞いて…それで、あの後成田空港に一緒に行ってお見送りして、そ、その時に…松田さんから告白されて、お付き合いする事になりました」
「まあ!とっても素敵ね!良かったじゃない、柔。松田さんなら、お母さんもお父さんも安心よ!松田さん、柔の事をずっと見守っていてくれたものね」
「あ、あの、お母さん。怒ってないの?大事な授与式を抜け出して出て行っちゃった事…」
「もちろん怒ってたわ。あなたがいなくなった事を誤魔化すのが大変だったもの。でも、あなた達がもしかしたら2人とも好き同士なんじゃないかって何となく思ってた事もあったし、あなたを信じる事にしたのよ」
柔は母、玉緒の観察眼はすごいな、と思った。母には柔の、娘の気持ちが既にお見通しだったのだ。
「お母さん、ありがとう。…でも、お母さんすごいね。あたしの本当の気持ち、分かってたんだ。あたしが…松田さんの事好きだって」
「そりゃ分かるわよ。あなたは私の大切な娘だもの。でも、あなたのお相手が松田さんだったら良いなっていう期待の気持ちもあったわね。お父さんもね、松田さんの事をすごく認めているのよ。お父さんは松田さんと話した事があるみたいだし、松田さんの書いた柔の記事も読んでいるみたいよ。すごく素晴らしい記事だって褒めていたもの。柔、あなたは本当に良い人と巡り会えて良かったわね。お母さん、応援しているわよ」
母からそう言われ、柔は自分が選んだ人が間違い無かったと感じ、嬉しくなった。あの父までも、彼の事をそんなに気に入ってくれている事も柔をより安心させた。あとは、祖父の滋悟郎がどう思うかだけが気がかりだった。それに、もう一つ問題があった。
「あのね、お母さん。あたしね、部屋に電話を引きたいと思ってるの。1階の電話じゃおじいちゃんに話しを聞かれちゃうかもしれないし、安心して話し出来ないから。でも、前におじいちゃんに反対されてるからどうしようかなって思ってて…」
「そうねぇ…。柔、ちゃんとお義父さんに松田さんとの事を話しなさいな。お義父さんもなんだかんだ言ってても松田さんの事を認めていると思うわよ。あなたがきちんと誠意を持ってお願いすれば、電話を引く事も松田さんとの交際も、許してくれると思うの。お母さんも口添えしてあげるから」
「おじいちゃんが松田さんを?そうかなぁ?いつもハイエナ野郎とか日刊エブリーとか、そういう風にばっかり呼んでるのに?たまに松ちゃんて呼ぶ事もあるけど…」
柔は母の、祖父の滋悟郎が耕作の事を認めているという言葉がいまいち信じられなかった。でも、きちんと誠意を持ってお願いしなさいと言われた事は、そうした方が良いという事には納得した。
「分かったわ。頑張ってお願いしてみる…おじいちゃんが松田さんの事を認めてるっていうのはちょっと信じられないけど…」
「フフ、柔、今日はあなたは1日ゆっくり休みなさい。あなたは授与式で騒ぎが起きた事とあまりの緊張で珍しく体調不良になった、と言ってあるから。だから途中退席したってなっているのよ。マスコミ対策もしたから、これからも誰も来ないと思うわ」
「そうなんだ…ありがとう、お母さん」
鴨田に車で送ってもらっていた時、もしかしたら自宅の前にマスコミが張っているのではないかと思っていたが、自宅前には誰もいなかった。それは、柔が体調不良だから遠慮する様に言ってあるからだった。
「夕食の準備の手伝いは今日はいいから、富士子さんに連絡しておきなさい」
「うん、富士子さんに連絡してくるね」
そう言って柔は台所を出た。
今日は滋悟郎は授与式のパーティーに行っていて帰りも遅くなるだろう。とりあえず電話の事は明日以降に回す事にして、柔は富士子に連絡する為に受話器を取った。
「はぁー疲れた!やっと着いた…」
ニューヨークの拠点となるアパートに到着した耕作は、荷物を寝室にとりあえず置き、ベッドに横になって一息ついた。
これからこのアパートを拠点に、アメリカでの記者修行の日々が始まるのだ。それに最初は、英語もある程度はマスターしなければならない。やる事はたくさんあった。
耕作はベッドから起き上がるとリビングに行き、ストーブの電源を入れ、奥にあるオフィススペースに行くと、日本から届いているFAXを確認した。そこには、約1ヶ月分のスケジュールが書かれた紙があった。
「うひゃー!分かってはいたけど、実際見ると本当にすげぇびっしりなスケジュールだなぁ。休み3日しかねーじゃん」
口ではそんな文句を言いながら、耕作の心はこれから始まる記者修行に燃えていた。自身を記者として成長させられる、またと無いチャンスだからだ。それに、アメリカへ発つ直前に自分の気持ちにけじめを付ける為に告白した、出会ってからの6年間ずっと想い続けた猪熊柔と、想いがけず恋人同士になる事が出来た。それは、耕作にとってこの上無い喜びとなった。
「柔さん、俺は必ず立派な記者になるよ。だから、俺の事見ててくれよ」
耕作は、遠い日本にいる愛しい恋人に向かって、改めて誓いを立てたのだった。