玉緒の策略
柔は、朝の稽古が終わった直後、道場が出て行こうとしている祖父の滋悟郎に声を掛けた。
「おじいちゃん!折行ってちょっとお話しがあるのですけど」
「何じゃ?」
「私、今、実は真剣にお付き合いしている人がいます。でも、その人と4年後のオリンピックに出場する事を約束していて、これからもきちんと柔道に対してしっかり向き合って頑張りますので。その方との交際と、あと部屋に電話を引く事を許してください!お願いします!」
柔にしては、滋悟郎に対していつもの態度と違い、やたら真剣に深々と頭を下げて言ってきたので、滋悟郎は少々面食らったが、付き合っている男がいると言う孫娘の言葉が聞き捨てならず、半ば苛々した。
ワシの大事な孫娘を誑かす様な不届き者は一体誰じゃ?もしどこの馬の骨とも知れん男じゃったら、このワシが容赦はせん!成敗してくれるわ!
だが、次の瞬間に柔から出た男の名前を聞いて、一瞬滋悟郎の思考が停止する。
「私、日刊エブリーの松田さんとお付き合いしています。真面目なお付き合いです」
「何じゃと?日刊エブリーの松田とな?松田とはあの松田か?あのハイエナ野郎か?」
ハイエナ野郎と言われて柔はムッとしたが、ここで言い返したりしようものなら話しが破談になってしまうので、何とか堪えた。全てはこれからの2人の為だ。
「はい。その松田さんです。あたし、次のオリンピックも絶対に出場すると松田さんと約束しました。精一杯頑張るからお願いします」
滋悟郎は、まさか孫娘の交際相手が日刊エブリーの松田だとは思わず大層驚き、反対しようにも次のオリンピック目指して頑張ると言われてしまっては、反対も出来ない。しかも、滋悟郎は口に出した事こそ無いが、松田耕作という新聞記者を男としても人としても密かに認めていたのだ。
だか、滋悟郎としたらそんな事は口添えが裂けても言いたくない。
ちょうどその時、玉緒が道場に現れた。
「柔、シャワーを浴びたら朝食の準備手伝ってもらえるかしら?」
「玉緒さん、柔が付き合っとるお父さんがいると言うんじゃが、玉緒さんは知っとったのか?」
「ええ、知ってましたよ。柔から聞きました」
「相手が誰かも知っとるのか?」
.
「ええ、もちろん知ってますよ」
玉緒はニッコリと微笑んで言った。
「お義父さん、良いではありませんか。私は松田さんなら安心して柔を預けられますわ。ずっと柔を見守ってくださっていたんですもの。お付き合いだけじゃなく、結婚してほしいくらいですよ」
「結婚⁈」
「結婚じゃと⁈」
2人同時に驚きの声をあげる。柔がカァッと赤面しながら、母に向かって言った。
「やだ、お母さん!あたし達まだ結婚なんて…まだお付き合いも始めたばかりで…そんな事何も…」
「あら、柔?松田さんの方が少し年上でしょう?あなたとの結婚を考えていても全然不思議じゃないわ。むしろその方が自然よ」
「玉緒さんは、柔と松ちゃんとの結婚はどう思っとるんじゃ?反対はせんのか?」
「反対なんてしませんわ。柔が選んだ人ですし、とても誠実で良い人だと思ってましたもの。柔をずっと見守ってくださっていましたし。だから柔も、松田さんの事を好きになったんでしょう?」
「え?う、うん」.
柔は改めて母、玉緒が自分の事、気持ちをここまで分かっていてくれたと感じ、とても嬉しかった。
滋悟郎は、柔と耕作の事をそこまで玉緒が認めて応援している事を知り、ぐうの音も出なくなってしまった。滋悟郎は玉緒に頭が上がらないのだ。
「ふん、勝手にすれば良いわ!」
そう言って、滋悟郎は道場を出て行った。
「柔、良かったわね。これで松田さんとの交際と、電話引く事もお義父さんの許可が降りたわよ。あと、松田さんとの結婚までもね,」
玉緒はそう言うと柔に向かって優しく微笑んだ。
「これでもしあなたと松田さんの結婚話が出ても、お義父さんは反対出来ないと思うわ」
柔は、それが滋悟郎をいわば落とす為の母の作戦だったと気付いた。玉緒が全面的に2人の事に賛成していたら、滋悟郎は強く言えないと玉緒は分かっているのだ。
「柔、早くシャワーを浴びて朝ご飯食べちゃいなさい。今日は富士子さんのところにお邪魔するんでしょう?」
「うん、そうするね。ありがとう、お母さん」
柔は結婚についてはまだどうなるか分からないし、早いかなと思ったが、確かに耕作は自分より少し年上だし、プロポーズしてくれるならもちろん受け入れるし、そうなったら良いな、と期待している自分がそこにはいた。彼が自分にとってどれ程大切で必要な存在か、もう柔は痛いほど分かっているし、彼以外となんて全く考えられないからだ。
授与式を抜け出して成田に行ってから帰宅した後、柔は富士子に電話をして、彼女と夫の花園に心配と迷惑をかけた事を謝罪した。その時、富士子は耕作と柔がどうなったのか知りたい様だったが、柔は富士子ときちんと会って直接話したい、と言った。だから土曜日で仕事が休みの今日、富士子宅にお邪魔する事になったのだ。
柔は、シャワーを浴び、朝食を終えると出かける準備をした。
昼食も2人で富士子の家で一緒に作って食べる事にしていて、柔はとても楽しみにしていた。
「じゃあお母さん、私行って来るね」
「はい、行ってらっしゃい」
笑顔で母から送り出された柔は、軽い足取りで歩いて行った。〆(
「猪熊さ〜ん!いらっしゃい!さあ上がって上がって〜」
富士子が柔を笑顔で出迎えてくれる。腕には彼女の娘の富薫子が抱かれている。
「お邪魔します。フクちゃんこんにちは」
「そこ座って待ってて。今お茶淹れるわね」
富薫子を赤ちゃん用のイスに座らせ、富士子はキッチンに入って行く。
「ありがとう、富士子さん」
柔が富薫子と遊びながら待っていると、お盆にお茶とお菓子を乗せて持って来てくれた。そこには、柔が手土産も一緒に乗せられていた。
「このお茶、富士子さんの実家のお茶でしょ?本当に美味しいのよね〜」
「ウフフ、そうでしょ〜!猪熊さんが褒めてくれたって言ったらウチの両親喜ぶわ〜」
お茶を飲んで一息つくと、富士子がニヤニヤしながら柔を見る。もう聞きたくて聞きたくてしょうがない様だ。
「で、猪熊さん。松田さんと授与式抜け出して、あの後どうなったの〜?」
目をキラキラさせ、興味津々で口に手を当てながら柔の答えを待っている。
「う、うん…あ、あのね、実はあの日、松田さんお仕事でアメリカ行っちゃう日だったの。それで、鴨田さんの車で一緒に乗ってお見送りに行って…それでその時に松田さんから告白されて…お付き合いする事になりました」.
柔は赤くなりながらも、親友に打ち明けた。
「キャー!本当に良かったわね、猪熊さん!猪熊さんって本当はずっと松田さんの事好きだったのに、意地張って全然素直じゃなかったし、どれだけヤキモキしたか…でも2人がくっついてくれて本当に嬉しいわ!」
富士子が涙を流しながら喜んでくれて、柔は嬉しかった。この親友には、長い間ずっと自分と耕作の関係の事で心配をかけてしまっていた。だからこそ、きちんと会って話しをしたかったのだ。
だが、富士子の興味はここで終わらなかった。ここから柔は、初めて自分中心の女子の恋バナ、というモノをする事になる。
それは、柔にとってとても恥ずかしいけれど、とても嬉しい事なのだと、柔はこの時初めて知ったのだった。