あなたに会いたくて
柔は、富士子の家から帰宅すると、キッチンで夕食の支度中の母の元へ向かった。
「お母さん、ただいま」
「あら、お帰りなさい、柔。今日はお手伝いはいいから、部屋で着替えていらっしゃいな。あ、そうだわ!柔、ちょっと待ってて」
玉緒はそう言うとキッチンを出て行ったが、すぐに戻って来た。その手には何かを持っていた。
「柔、これを受け取りなさい。あなたは、これが欲しいって今言おうとしてたんじゃない?」
そう言って渡された物は、1冊の預金通帳だった。中を見てみると、柔が思っていた以上の金額が記帳されていて、柔は驚いた。
「それは全てあなたのお金よ。アメリカに行きたいんでしょう?それをアメリカ行きの飛行機代の足しにしたら?あと、電話を部屋に引くお金もそこから出しなさい」
「お母さん!あたし何も言ってないのに…どうして分かったの?」
「そりゃ分かるわよ。好きな人には会いたいもの。近いうちに柔から話しがあるだろうと思っていたわ」
「そ、そうよね…」
母の話しにはすごく説得力があった。父が柔が5歳の時に家を出て行方不明になり、母はずっと父を探し続けていた。バルセロナ五輪後、やっと母が父に会う為にパリに行き、二人の時間を満喫出来たのだ。
「お母さん、あたし一ヶ月くらい行きたいと思ってるんだけど良いかなぁ?会社にもきちんと許可も取るし、向こうでも出来る限り稽古もするつもりだし」
「別に良いんじゃない?あなたはバルセロナで2つも金メダル取って国民栄誉賞まで頂いて充分頑張ったんだから、あなた自身を少しくらい優先してもばちは当たらないわ」
先ず柔は母の許可を得る事が出来、一安心した。その後、母の手伝いをして夕食を済ませると、今度は羽衣課長の家に電話を掛けた。すると、都合良く羽衣本人が電話に出た。
「もしもし、羽衣です。どちら様ですか?」
「あの、私、猪熊です。羽衣課長ですか?」
「おお、猪熊くんか!君が家に電話してくるなんて珍しいなぁ!」
「あの、羽衣課長にお話しして、お願いしたい事がありましてお電話しました。会社だと話しにくい事なので…」
「会社だと話しにくい事…?何か君自身に関係ある事かね?」
「は、はい。実はそうなんです。これは誰にも言わないで絶対に秘密にして欲しいんですが…。私、最近お付き合いしている人が出来たんです」
「…!そうなのか…でもそれをどうして僕に?」
「はい。私がお付き合いを始めたその人、日刊エブリーの松田さんなんです。それで、彼が仕事でアメリカに行ってしまってしばらく帰って来ないので、私、アメリカに少し長めに行かせていただきたくて…」
羽衣は、柔と松田記者が交際している事と、彼がアメリカに行っている事に驚いたが、今までの、彼が柔の事を書いた記事を思い返してみれば、何だか二人の交際について不思議と納得出来たし、最近、松田記者の書いた記事が少ないと思い始めていたので、そちらも彼がアメリカのスポーツを取材しに行ってるなら仕方無いと思った。
「そうか、猪熊くん。松田記者と交際しているんだね。何だか二人はお似合いだと感じるよ。松田記者が君の事を書いている記事は本当に素晴らしいからね。君達がそういう関係なら、僕も応援させてもらうし、誰にも言わないよ。それで、いつからどのくらい行きたいんだね?」
「ありがとうございます。私の希望としては十二月の中旬くらいから、一月の中旬くらいまでが良いんですけど…。ちょうど仕事も忙しい時期で、大変申し訳ないんですけど…まだ松田さんとも話しが出来ていなくて、細かい日程はこれから決めるんですが」
「そうか。まだそれまではまだ日があるし、日程が決まり次第すぐに教えてくれるかな?君は今回のバルセロナオリンピックでも、我が社に多大な貢献をしてくれた。僕の昇進も、君と松田記者のお陰と言っても過言では無い。猪熊くんは本当に恩人なんだ。君の休暇の理由はその事への会社からの感謝のプレゼントとしてはどうかと、私から社長に話してみるよ」
「え、そんな恩人だなんて…私、そんな立派じゃないですよ。…でも、ありがとうございます。日程が決まったらすぐにお知らせしますね」
「ああ、分かった。電話ありがとう。それじゃあね」
それで、羽衣との電話が切れた。柔は、羽衣課長からの理解と協力が得られた事でひとまず安心した。
12月はまだもう少し先だが、柔がその時期を選んだのには理由がある。
柔は、恋人とクリスマスを一緒に過ごしたいという思いと、それが日本ではなくアメリカのニューヨークでならどんなに素敵だろうと、憧れたのだ。しかも、今までは耕作と良い雰囲気になると必ず邪魔が入っていたが、今度は誰にも、何にも邪魔される事は無いはずだ。柔は、そう考えるだけでも楽しみで仕方が無かった。
(21時頃、松田さんに電話してみようかな。向こうはその時は朝よね。松田さん、いるかなぁ?声、聴きたいな…)
その頃、耕作は朝起きて昨日買って食べたサンドイッチの残りを朝食にして食べていた。昨日までは出張しており、夜中にやっとニューヨークの拠点のアパートに帰って来ていた。この日も仕事だが場所はニューヨークだったので、朝は比較的にゆっくり出来る。昼前に出ても充分間に合う。
耕作が朝食を終え、コーヒーを飲んでいると電話が鳴った。仕事用ではなく、部屋の電話だ。
「ハロー?」
まだ拙い発音で、耕作は電話に出た。昨日までの疲れがまだ少しだけ声に残っていた。が、次の瞬間に耳元に聞こえた声で、それは全て吹き飛んだ。
「もしもし?松田さんですか?あたし、柔です」
「柔さん?どうしたんだい?君から電話してくれるなんて。何かあったのか?」
「あたしからだって電話くらいしますよ。それであの…あたし、成田で別れる時言いましたよね?必ずアメリカに会いに行くって。あたし、お金の都合も仕事も何とかなりそうな目処がたったので、松田さんと相談したくて、それで電話したんです」
耕作は、確かに成田で柔がそう言ったのを覚えていた。だけど、まさかこんなに早くそれが実現しそうになるとは正直思っていなかったのだ。柔がアメリカに来るまでに超えなければならない壁は多いはずだ。
「本当に大丈夫なのか?滋悟郎さんは何て?」
そう。一番ネックになるのは滋悟郎だ。この壁がとても厚い壁の様な気がした。
「はい。実は今朝、おじいちゃんにあたし達の事を話したんです。反対されると思ってたんですけど、お母さんがあたし達の事をすごく応援してくれてて、それを知ったおじいちゃんが何も言えなくなっちゃって、渋々だけど、あたし達の事を認めてくれて、あたし達の事を無闇に反対出来なくなったんです」
「へぇ、君のお母さんは本当にすごいね。あの滋悟郎さんを言いくるめちゃうんだから」
「あと…勝手に話してしまって申し訳ないんですけど、仕事の方は上司の羽衣課長にあたし達の事を話して、これからは協力してもらう事にしちゃいました。ごめんなさい。羽衣課長、松田さんのファンだから、あたし達の事応援してくれるって言ってました」
「ああ、そうなんだ。君がそう判断したのなら、俺は何も言う事は無いよ。それでいつ頃こっちに来ようと思ってるの?」
「もう少し先なんですけど、十二月中旬くらいから一月中旬くらいまでがいいかなって…。松田さんとクリスマス一緒に過ごせたら嬉しいから…。それでも良いですか?」
「一ヶ月?そんなに会社休めるのか?今までもだいぶ休んでるよな」
「そうなんですけど、それは無理矢理おじいちゃんがテレビ番組とかインタビューとか入れちゃったから…でも、お母さんの口添えで、今は仕事に復帰出来てるんです。お母さんがおじいちゃんに言って、テレビ出演断ってくれて。だから、元々のテレビ出演の予定よりかはかなり減ったんです」
「そうなのか。俺は年内は君は滋悟郎さんがテレビ出演とかの予定組んでて忙しいって聞いていたから、こっちに来れるのかと思ったから訊いたんだけど」
「はい。なのでそちらは大丈夫です。羽衣課長があたしが休めるように協力してくださるそうなので。羽衣課長、あたし達の事
恩人って言ってくれたんです。あたし達のお陰で昇進出来たって。だから応援するし、協力するって。そんな風に言ってくださって、本当にありがたいですよね」
「そうだな。感謝しないといけないな。…じゃあ、こちらに来る事に関しては特に何も心配はいらないな。…柔さん」
「…はい。何ですか?」
「あ、あのさ、それなら十二月中旬じやなくて初旬にこっちに来ないか?まだ十二月何日に行くとか詳しい事は伝えてないんだろ?」
「はい,。松田さんと相談してから報告すると言ってあるので」
「それならまだ変更出来るよな?」
「はい,。大丈夫です」
十二月初旬の八日は柔の誕生日だ。耕作は以前から柔の誕生日を知っていたが、プレゼントを渡した事は無い。今までは自分達は記者と選手としての間柄だけだったが、今は違う。歴とした恋人同士の間柄だ。誕生日を堂々と祝える関係になれたのだ。柔も、話しの流れで誕生日を自分が一緒に祝いたいと思っている事に気付いただろう。
「じゃあ十二月の五日辺りはどうかな?そうしたら、年末年始まで一緒にいられるだろ?」
「はい、そうですね。それじゃあ、あたし、羽衣課長にお願いして休み取りますね!」
柔の声は、期待と喜びに満ちており、明るかった。耕作は、それだけで嬉しくなった。そして、耕作は柔と恋人同士になれた瞬間から、いや、柔を好きになった瞬間から胸に秘めてきたある決意を実現させるかどうかの判断をしたくて、柔なもう一度告白をしようと思い至った。出会いから六年経っているとはいえ、自分達が付き合い始めてからはまだ間も無い。それをするにはまだ早いのでは無いか、という思いもある。だが、耕作はもう、柔を生涯でたった一人の女性と心に決めていた。もう自分は彼女しか愛せないと。柔も自分を好きだと言って想いに応えてくれたが、それがどれくらいの想いなのか、耕作には分からなかったし、自信がある訳でも無かった。耕作も、近いうちに柔の自分に対する強く深い想いを知っていく事になるのだが、この時の耕作はまだそれを知らなかった。
「分かった。その日は俺、空港に迎えに行くからさ、何時着の何便が分かったら教えてくれよ」
「はい、分かりました」
耕作はそこで一旦深呼吸した。心臓がドキドキする。だが思い切って言葉にした。
「俺、柔さんと会えるのを楽しみにしてるよ。その…や、柔さん、あ、愛してるよ」
「…!!」
電話の向こうで、柔が息を飲んだのが微かに聞こえた。そして、少しの沈黙の後、柔の啜り泣く声がした。
「や、柔さん⁈な、泣いてるのか?」
耕作は動揺した。まさか柔が泣いてしまうとは思いも寄らなかったからだ。
「ごめんなさい、泣いちゃって…。あたし、すごく嬉しくて、すごく幸せで…あたし、あたしも松田さん…ううん、耕作さんの事、愛してます。心から、愛しています…」
柔が涙ながらに、でもしっかりとした口調でそう告げた。耕作は、こんな時に側にいれば彼女を抱きしめられるのに…と思ったが今更どうしようも無い。
「ありがとう…柔さん。その…俺の事、今下の名前で呼んでくれたね」
「はい。ずっと松田さんって呼んでたから呼び慣れないですけど…これからはそう呼んでもいいですか?」
「もちろん良いよ!その、嬉しいよ。なんか照れるけど」
「はい!これからはそう呼びますね!」
耕作が時計を見ると、電話を始めてからだいぶ時間が経っていた。国際電話は料金もかなり高い。もういい加減切らなければならないだろう。
「柔さん、そろそろ切るよ。だいぶ長く話してたし。また電話するし、手紙書くから」
「分かりました…待ってますね」
柔が寂しそうに言ったが、こればかりはどうしようも無い。二人は名残惜しいのを堪えて電話を切った。だが、耕作はこの電話のお陰で、一つの決心を固めていた。それは、柔がアメリカに来た時にプロポーズをする事だった。前から考えていた事だが、もし失敗でもしたら自分は立ち直れないだろう。彼女も自分を好きだと言ってくれたが、プロポーズが成功する自信なんて無かった。でも、柔の自分に対する気持ちを再び聞いた耕作は、その自信を持つ事が出来たのだった。柔がアメリカに来るまでの間、耕作は更に仕事を頑張って、柔により相応しい男になろうと誓いを新たにするのだった。