思い出と絆
耕作のアメリカの拠点であるニューヨークのアパートに着くと、柔はサッと部屋を見渡した。
(結構広いのね…さすがアメリカ。そしてやっぱり汚い。でも日本にいた時より随分マシだわ…)
「耕作さん、さっさと部屋を片付けちゃって、それからゆっくりしましょ」
柔は振り向いて耕作に向かって言うと、自分はキッチンで洗い物に着手し、耕作に向かってゴミを片付ける様に指示を出し、テキパキと掃除した。小一時間程でとりあえず掃除は終了した。柔は、そこにオトナなビデオや雑誌が見当たらなかった事にホッとしていた。どこかにあるのかもしれないが、柔の目に入る事は無かった。見るのは仕方ないとしても、ヤキモチ焼きな自分からしたらやはり気分は良く無いものだ。思えば、耕作と邦子の事に関して、いつもイライラしていて耕作に自分の気持ちを察しろとばかりに当たり散らしていただけだと、今となっては柔は自覚していた。つまり、ずっと嫉妬していたのだ。それが、自分の耕作に対する酷い態度に結びついてしまった。柔は、今はそれを反省していた。
「一通り片付きましたね」
「ごめんな?柔さんに片付けさせちまって…こっち来たばかりで疲れてるのに。俺、コーヒー淹れるよ。ソファーでも座って待ってて!」
「あ、あたし淹れましょうか?」
「いいからいいから!」
耕作にそう言われて、柔が大人しくソファーに座って待っていると、やがてコーヒーの良い香りが漂ってきて、柔の目の前にマグカップが差し出された。
「どうぞ。熱いから気を付けてな」
「あ、ありがとうございます…」
柔は、マグカップを受け取ると一口啜った。
「…美味しい…」
「それなら良かった」
そう言うと、耕作も一口コーヒーを啜った。
「…」
柔は、恋人同士になってから初めての二人だけの空間に少し緊張していた。二人だけなんていうシチュエーションは今まで何度もあったが、その時は自分達はまだ恋人同士では無かったから、さほど緊張してはいなかったが、今は違う。柔は、彼と話したい事がたくさんあったはずなのになかなか話題が出て来なかった。
「…柔さん、こんな遠くまで会いに来てくれてありがとうな。しかも一ヵ月も…休み取るのも大変だし、滋悟郎さんも説得するの大変だったろ?俺…その…嬉しいよ」
少しの沈黙の後、口火を切ったのは耕作だった。柔は、ソファーの隣に座る耕作を見た。
「そんな…全然大変じゃないですよ、耕作さんに会う為の努力なんて。おじいちゃんの説得も、お母さんが味方してくれてるお陰で、渋々だったけど毎日ちゃんと稽古するっていう条件だけで許してくれたし…会いたいから来た…ただそれだけです」
「…そっか…大丈夫なのかなってちょっと心配だったから。安心したよ。」
柔は、この機会に今まで胸の奥に仕舞い込んでいた思いを、耕作に話してみようと思っていた。そして、彼の奥にある今までの自分に対する本当の気持ちを知りたかった。
「あたし…あたし、ずっと今まで耕作さんに対して態度悪かった事多いですよね。あと、急に目の前で泣き出したり…耕作さん、訳が分からなかったですよね。本当にごめんなさい」
「何だ、急に?どうしたんだ?何も柔さんが謝る事なんて無いだろ?」
「あたし…ずっと邦子さんにヤキモチ妬いてたの。ずっと耕作さんの隣にいて、あたしに見せつけるみたいにイチャイチャして…その度にイライラしてた。耕作さんの『猪熊柔は取材対象』っていう言葉にも傷付いてイライラして、耕作さんに酷い態度取ったり…全然素直じゃなくて、自分でも可愛くなかったなって本当に思うの」
耕作は、柔のその真剣な告白を静かに聞いていたが、柔がヤキモチを妬いていた事を知って、顔を綻ばせずにいられなかった。つい顔が緩んでニヤケてしまう。
「…何、笑ってるんですか?あたし、真面目に話してるんですけど」
「あ、いや、ごめん。その…君がヤキモチ妬いてくれてたって聞いたら、めちゃくちゃ嬉しくてさ、止められなくて…」
「…な…」
耕作のニヤケ顔に気付いた柔がそれを咎めると、心底嬉しそうにする耕作の態度に、今度は柔が赤面した。柔は少しムッとしていたのに、そんな嬉しそうにされて何も言えなくなってしまった。柔は一度気持ちを切り替えて、先程の続きを話す事にした。でも、これから言おうとしていた事が本当の本番だった。柔は、少し間を置いていを決して言った。
「あたし…本当はずっと耕作さんの事が好きだった。あたし鈍くて自分の気持ちになかなか気付かなかったけど、多分出会って間も無い頃から耕作さんに惹かれてたと思う…」
「柔さん…」
耕作は、少し驚いて柔を見た。それも無理は無い事だった。出会った時、柔はまだ高校生で、風祭に恋をしていた筈だからだ、それなのに、自分を好きだったと言われても、耕作は全くピンと来なかった。頭にただただクエスチョンマークだけが浮かんで来る。柔が自分の事をそんなに前から思っていてくれてたかもしれない事は素直に嬉しかったが。耕作はその素直な疑問を柔にぶつけてみる事にした。
「柔さんは俺と出会った頃は風祭の事を好きだったんじゃないのか?葉山でさやかと特訓してる風祭見てショック受けたりしてただろ?」
「そうなんですけど、あたし、耕作さんの事も気になってたんです。多分、耕作さんがあたしを取り囲んでたマスコミの人達から助けてくれた時から…」
「そんなに前から俺の事を…」
耕作はただただ驚きの中にいた。ずっと好きだったとは言ってくれたが、まさかそんな前から自分の事を意識してくれていたなんて思いもしていなかったからだ。柔は自分と出会ってからもかなり長い間、風祭の事を好きなんだとも思っていた。だけど、実情は全く違っていたのだ。そして、改めて自分の態度が柔を傷付けていたであろう事に耕作は気付いたのだった。
「柔さん…ずっとごめんな?俺がなかなかはっきりしなかったから、柔さんを傷付けてたんだよな」
「…そうですね。本当に嫌だったんです。邦子さんが耕作さんの腕に絡み付いて猫撫で声出してあたしに見せつけて来るのが。耕作さんも嫌がりながらも満更でも無さそうでしたし。…耕作さんは邦子さんに揺れた事は全然無かったんですか?邦子さんスタイル良いし…」
「俺は柔さんと出会った時から柔さん一筋だよ。柔さんしか見てないし見えないから」
「本当ですか?日本にいた時は大人なビデオや雑誌も見てたみたいだし、耕作さん優しいから邦子さんに強く迫られたりしたら断われなさそう…」
「俺は柔さんだけだ。他の女じゃ意味無いし、柔さんじゃなきゃ俺はダメなんだ。バルセロナで実際加賀くんから迫られたけど、柔さんが好きだからごめんって言ってちゃんとケジメ付けたから」
柔は耕作の気持ちを確かめたくて軽い気持ちで訊いてみたが、思っていた以上に真剣に鋭い眼差しで見つめられて、柔は矢で射抜かれた様に動けなくなり、耕作を見つめ返した。そして、この時になって、バルセロナで邦子に会ったあの雨の夜の事を柔は知ったのだった。あの時、邦子は耕作に振られた直後だったのだろう。そして、邦子には悪いと思いながら、彼女の誘惑に負けず、きちんと断って決して手を出さないでいてくれた事を嬉しいと思ってしまった。
「柔さんは俺の事…信じられない?」
「そんな事無いです。信じます。耕作さんの気持ち、すごく嬉しい…あたしも耕作さんだけです。大好きです!」
「それなら良かった」
耕作の表情が和らぎ。微かに微笑んだ。柔はそんな耕作にまたもすっかり魅了され釘付けになる。優しげながらも大人の男としての色気もしっかり持ち合わせている彼の姿に、柔はもう夢中になっていた。思えば柔は、久しぶりに再会した今日一日だけでも、どんどん彼の事を好きになっていた。今まで見た事の無い彼が車を運転している姿や、まだアメリカに来て日も浅いのに英語で会話する姿を見て、その新しい彼の魅力によって柔は完全に骨抜き状態にされていた。うっとりとした顔で耕作を見つめている。
「柔さん…」
一方耕作も、自分を見つめて来る柔にドキドキと心臓を高鳴らせ、堪らない気持ちになっていた。ソファーの隣に座っている柔の肩を思わず抱き寄せて間近から柔の目を見つめると、柔が目を閉じた。耕作はまるでNとSの磁石が引き合う様に柔の唇に自身の唇を重ねた。二人にとって初めてのキスだった。少ししてから離れると、柔と目が合い、なんだかとても気恥ずかしくなってしまい、二人して笑い合った。
「なんかやけに照れるな…」
「そうですね…。でも、あたしとっても幸せです。耕作さんとこうしていられるのが…大好き❤」
柔は、恋人同士になる前とは打って変わって素直に耕作に接する事が出来ている事に満足していた。好きな人に好きと言える環境と自分がとても嬉しかった。耕作もそんな柔がとても可愛いくて愛おしく感じていた。
「さっきの話しの続きしようか?」
「はい」
「実はさ、俺、かなり前に君に告白した事あるんだぜ」
「えっ?あたし知らないです!本当に?いつですか?」
「ソウルオリンピックの時に、公園のベンチで話しただろ?あの時にさ…でも君は寝ちゃってそれは届かなかったんだ」
「そうだったんですね…あの時は本当にごめんなさい、あたし肩に寄りかかったまま寝ちゃって…。耕作さん、あたしの事起こさないでいてくれましたよね」
「あの時は君も色々あったからさ、疲れてただろうし、あんな事なんでもないよ。…でもあの時に君に聞こえてなくて良かったと思ってるよ。俺の告白なんてあの時にはまだ君を困らせただけかもしれないしな」
「…そんな事無いです。あたしその時聞こえてたらすごく嬉しかったと思います。まだ自分の気持ちには気付いてなかったけど、意識はしてましたし…。耕作さん、あたしがベンチで話した事覚えてますか?」
「ああ、アレかな?柔さんが俺をお父さんみたいって言ってたやつか?アレ、何気にショックだったんだよなぁ」
「フフッ、そうです、それです。あたしが耕作さんをお父さんみたいって言ったの、ちゃんと意味があるんですよ?そのままの意味じゃないですから。あたし、裏投げで気を失った時、お父さんの夢見てて、お父さんが柔立て立つんだって声をかけてくれてたんですけど最後は耕作さんの声が聞こえて、それで起きれたの。耕作さん、あたしが起きた後にも大丈夫か、フラフラしないか?って声をかけてくれたでしょ?あたし、その耕作さんの声がとっても気持ちが休まる声だと思ったの」
「だからお父さんみたいって言ったんだな?」
「…はい。だからベンチで寝ちゃったのも、耕作さんの隣で安心してたんだと思います。耕作さんの声がとっても気持ち良くて…だから、あの時にはあたし、耕作さんの事すでに大好きでしたよ」
「そうだったんだ…でも、柔さんはいつはっきり俺の事好きって気付いたんだ?」
「それは…」
柔はほんの少しだけ耕作を恨めしそうに見てから言葉を紡いだ。耕作は、何故柔がそんな顔で自分を見るのか意味が分からなかった。
「あたしが自分の気持ちに気付いたのは…ユーゴスラビア世界選手権の時です。耕作さん、あたしがあの時絶不調だったのは知ってますよね?」
もちろん耕作は知っていた。自分が決勝戦で着いた時、彼女は見事な一本背負いを決めて優勝したので、まさかそれまで柔が絶不調だったと知った時は信じられなくてかなり驚いた。だけど、何故それが自分と結び付くのか耕作には分からなかった。
「あたし、あの時すごく心細くて試合が怖くてたまらなくて…試合でそんな気持ちになった事も初めてで…最初はどうしてなのか理由が分からなかったんだけど、いつもと違ってた事が一つだけあって、もうそれが原因だとしか考えられなくて…富士子さんとジョディは最初から分かってたみたいだけど」
そこまで言われて、漸く耕作も合点がいった。
「君のあの絶不調の原因って、もしかして俺がいなかったから…なのか?」
「もしかしなくてもそうですよ。あたし、試合の時に耕作さんがいてくれないとダメなんです。すごく心細くなっちゃってどうしようも無くなっちゃうの。だから、決勝戦で耕作さんの姿が見えたら試合の恐怖も不安も全部吹き飛んじゃって、それで一本背負いで勝てたの。あたしには耕作さんが必要な人なの。他の人じゃダメなの」
「そうだったのか…」.
耕作の胸に、喜びと共に柔に対しての申し訳ないという気持ちが湧き上がった。ユーゴスラビアの時は父親が倒れるという退っ引きならない事情があって最初から行く事が出来なかった。それが、柔を苦しめてしまっていたのだ。
「あの時はごめんな?実はあの時親父が倒れちまってさ、山形に帰ってたんだ。今は親父も元気にしてるから心配しないでくれよ」
柔はこの時初めて彼がユーゴスラビアに来ていなかった理由を知った。そんな理由ならば、彼の不在は致し方無いと柔は思った。
「そうだったんですね…でも、ユーゴスラビアに行っても大丈夫だったんですか?」
「うん。なんとか大丈夫だったよ。それにさ…ウチの両親、俺が柔さんの事好きなの知っててさ、お袋に発破かけられてユーゴに行く決心したんだ」
「え?ご両親が?過去に話してたんですか?」
「話した訳じゃないんだけど、以前お見合いを両親から勧められてさ、でも好きな人いるからって断ったんだ。で、ユーゴの時に好きな人が柔さんだってバレた」
「ご両親にあたしの事、そう言ってたんですか?」
柔は、耕作が自分の両親にまで自分に対する気持ちを伝えてくれていた事が嬉しすぎて遂に泣いてしまった。
「おわ!?な、泣くなよ!な?」
「だって嬉しいもん、泣かないなんて無理…」
そう言うと柔は耕作に抱きついてその胸に顔を埋めた。耕作もそんな柔を優しく抱きしめた。この時、耕作はずっと疑問に思っていた事を柔に訊いてみる事を思い付いた。それは、父親との問題が解決していないのに、何故柔道に復帰したのか、という事だった。今なら訊けば話してくれるかもしれないと思った。
「柔さん…一つ訊きたい事があるんだけど、良いかな?」
「…何ですか?」
柔は、顔を上げて耕作を見た。
「柔さんは、お父さんとの、虎滋郎さんとの問題が解決していなかったのに、何で柔道に復帰したんだ?ずっと分からないんだ」
「あたしもそうだけど…耕作さんって本当に鈍いですよね」
「鈍いって言うなよ。結構気にしてるんだぞ!」
「だって本当の事ですもん。あたしはあの時お父さんの事でも悩んでたけど、耕作さんとの関係にも悩んでたんです。耕作さんが記者辞めちゃったら、あたしと耕作さんの繋がりは無くなっちゃうから…お父さんの事より耕作さんとの関係の方が本当は辛かった。自分からさよならって言ったのに…でもクリスマスのあの日、あたし耕作さんが書いたあたしの記事を読んだの。その時に耕作さんの記事から歓声が聞こえたの。それで耕作さんがあたしの事をずっと見守ってくれてた事を再確認して、やっぱりあたし、耕作さんの事がすごく好きなんだって思ったの。あたしと耕作さんの繋がりを消したくなくて耕作さんに会いに行ったの」
この時に耕作は初めて柔の柔道復帰の真相を知った。それは、自分達の関係を繋ぎ止める為だったのだ。でも何故柔が自分が記者を辞めようとしていた事を知っていたのか…でもそれは何となくだが訊いてはいけない様な気がして、耕作は黙っている事にした。
「そうか、それが真相だったのか…記者辞めないでって言ったのは、そういう事だったんだな」
「うん…あたしが柔道やるって言えば、耕作さんは記者を辞めないであたしの事をまた追いかけてくれるって思ったの。例えそれが記者としてであっても、側にいて欲しかった…」
耕作は、柔の自分に対する健気な想いに感動していた。柔が、自分という存在をそれ程までに必要とし、求めてくれていた事がただただ嬉しかった。耕作は柔の腕を掴んで引き寄せると力強く抱きしめた。柔も、耕作の背中に腕を回してそれに応えた。柔は思い切って勇気を出して自分の今まで胸に秘めていた本当の気持ちを彼に打ち明けて、本当に良かったと思っていた。それは、自分の期待以上の結果をもたらし、想像以上の幸福と歓喜と愛情で心が満たされた。この人は、あたしの運命の人…自分が彼の事をこんなにも愛する様になるのは必然だったのだと、柔は今は感じていた。