好きでもないアイドルに告白をしたらどうなるのか? 作:なおちー
プロデューサーは日本人の女性とロンドンで結婚していた。
ちひろが入手したのは、英語で書かれた彼の子供の「出生記録」だった。
イングランドやスコットランドなどキリスト教圏の国では
日本で使われる戸籍制度(戸籍謄本の登録義務)は存在しないが、
「出生登録」は子供が生まれてから42日以内に登録する義務があり、
子供が生まれた地域の地元登記所、または病院で行う必要がある。
「出生登録」には生年月日、名前、性別、両親の名前と住所、
両親の生年月日、両親の結婚又は市民パートナーシップの日付、
親の仕事、母親の旧姓などが記録される。
この出生届を出したのはプロデューサー(父親)本人である。
生まれた子供の母親に当たるの自分の欄には、
RELATIONSHIP(続柄):spouse(配偶者)と書かれてある。
※ A spouse is a significant other in a marriage.
提出先はロイヤル・フリー病院(総合病院)である。
当医院はウッドサイドパーク・ステーションから
近い位置にあり、その周辺にはビジネス目的の日本人が多く住む。
ちひろは、この情報が偽物とは思えないことから彼の妻と断じた。
子供が生まれた場所は、バーネット・ロンドン自治区
ウッドサイド・パークの総合病院となっている。
彼のように海外勤務の多いビジネスマンが現地で日本人女性と
結婚することは珍しくない。ただし妻と娘を現地において
知らん顔をしながら日本で暮らしてることをのぞいては。
(この人には奥さんがいたんだ……)
夕美は怒りで震えていた。ちひろの言う通り、騙されたのだ。
何が独身だ。何がそろそろ身を固めるだ。彼は今まで夕美に散々
愛の言葉を吐いて口説いた。だが嘘だったのだ。全部嘘だったのだ。
プロデューサーをしてる時の彼は自分が独身だと言い続けた。
それを周囲は疑わなかった。現に彼は一人暮らしだったのだから。
でもこんなにカッコいい男性が30歳まで独身なのは変だなと
思ったことはあった。まさか本当に結婚して子供までいたとは……。
「それではプロデューサーさん。説明をお願いします」
ちひろから笑みが消えている。今度こそ追求から逃げることはできなくなった。
日本にいるプロデューサーにとって妻子のことは絶対に知られては
いけない情報であり、彼女らの嫉妬や絶望を考えると、少しでも
説明を誤れば一生植物人間として暮らすことを余儀なくされる可能性もある。
「分かった。今から全部話すよ。アーニャ、
説明の途中で頭が回らなくなるといけないから俺の手を握っててくれ」
「はい」
不思議なことにアーニャは嫌そうな顔をせず彼の指示に従った。
一方の夕美は彼から数歩距離を取っていた。それが今の心の距離だ。
プロデューサーは目を閉じ深呼吸してから語り出した。
「妻の名前はちひろだ」
「え」
「いや、たまたま君と同じ名前の女性だったんだ。
知り合ったのは上司の紹介でな。当時の所属は英国支所のトレーディング部門
だったんで現地に住んでいたんだ。あそこは仲の良い先輩と一緒の部署で楽しかった。
だが勤務先が極東に代わってから家族と会う時間も減ってな。
いつも出張ばかりで日本と海外を行き来してたから家族との時間なんてなかった。
次第に疎遠になっていき、気が付いたら完全に別居状態だ。
コロナや戦争で飛行機も飛ばなくなったしなあ」
「今はもう2023年ですから飛行機は乗れると思いますけど。
奥さんたちに会いに行かないんですか?」
「……」
「会わなくても電話やメールくらいできるでしょう。
失礼かとは思いましたが、私の知り合いのハッキングが得意な友人
(カザフスタン人)に頼んであなたの所有するSNSのアカウントを
調べさせていただきましたが、
ここ1年の間で家族の方と連絡を取った形跡がありませんね」
「……」
「あなたって人は、この状態でもだんまりですか。
この期に及んでまだ隠し事ができると思ってるのなら良い度胸ですね。
これは独り言ですが、あなたの口が何かの理由で重くなってるのなら
こちらもしかるべき処置を考えてありますよ」
プロデューサーは頭を掻きながらため息を吐いた。
頭の中が狂いそうなほどのストレスを感じていたので英語で思考してしまう。
頭の中の「言語チャンネル」を切り替えたのだ。
「Be honest...I disagreed with my wife.
for example, she said I want to go right,
but I'll say, that I want left. that is all.」
「Are you divorced?」
「Not yet.」
「Tell me why」
「......」
「Please Mr.P. speak with an honer. if you are Japanese Gentleman.」
「There's no big suprise like you wanted.
I didn't have time to divorce.」
「nhh... but you're poor family...How they live?
how they live with a cost of living in London?
You don't wourry about The U.K.'s cost of living crisis by the covid-19?」
「In jun of 2021, I spent them the money.」
「how much?」
「More than 62,000 pound sterling.」
「Sorry, I can't image that.
Is that a lot of money by the today's excahge rate?」
「為替かぁ。ポンド円の相場なんて最近は見てないけど、
当時の日本円で約900万円はするんじゃないのかな」
「そんなにですか!?」
「俺はそれなりにお金を持ってたからな。それくらい渡すのが普通だろ」
「そのお金を21年の6月に送ったんですか」
「ああ。ネットバンキングで妻の口座に送金したんだが、何の返事もなかったぞ。
サンキューともな。娘の顔すら俺には見せてくれない。きっと別の男でも
できたんじゃないのか。コロナで死んでないことは確かなようだが」
プロデューサーがつまらなそうな顔でスマホでレートを調べる。
今日の英国ポンド(GBP)で換算すると妻に渡したお金の価値は
当時とそんなに価値が変わらなかった。
一時は50万くらい価値が上がっていたはずだが(円安)
今は23年。年が明けてから欧州全域でのインフレのピークアウトが示唆され、
イングランド銀行が間もなく政策金利の引き上げを止めるのではないかとの思惑と
日銀総裁交代への警戒でむしろ円が買われて円高方向になっていた。
「ちょっと待ってよ!!」
夕美が苛立つ。
「さっきから何ふたりで英会話しちゃってんの?
ふたりで仲良さそうに早口でペラペラ話しちゃってさぁ。
何言ってるのか全然分からないんですけど!!」
「ヤーも、何も聞き取れませんでした。説明してください」
「分かったよ。今から説明するから落ち着いてくれ」
・妻とは仕事が忙しくて疎遠になったが離婚はしてない
・理由は離婚する時間がなかったから
・妻と仲が悪く喧嘩ばかりだった
・21年から英国のインフレがヤバくなったのでお金の仕送りはした
実質的に離婚してるようなものだ。
さすがのちひろも向こうの法律はの内容までは知らないが、
日本の民放であれば三年以上の別離は「悪意の遺棄」に
該当するために離婚事由となる。
しかしこの冷めきった夫婦関係では今さら離婚の調停などしないだろう。
日本の民法第770条1項2号より。
法定離婚事由のひとつ「配偶者に悪意で遺棄されたとき」
・別居中の配偶者が行方不明
・音信不通が続いている
・自分の自宅に戻ったらカギを変えられてしまった
・生活費などの婚姻費用を払ってくれない
ざっと以上の例が「悪意の遺棄」に該当する可能性がある。
民法第752条では、夫婦間の義務として「同居の義務」「協力義務」「扶助の義務」
が定められている。配偶者の行動が悪意の遺棄に該当すれば、
これに違反したとして、慰謝料や離婚の請求が可能なケースがほとんどだ。
悪意の遺棄によって離婚した場合、慰謝料の相場は50万円〜300万円。
「たぶんあいつにとって俺と離婚する理由がないんだよ」
「どうして?」 ←夕美
「離婚するのに俺と会わないといけないのがまずひとつ。
俺だって会いたくないから都合がいいよ。
あとはあいつの稼ぎがいいから俺の助けを必要としないことかな」
「そんなに高給取りの人なの?」
「あいつは子供が生まれてからもUBSで勤めていたよ」
「なにそれ?」
「UBSはスイスに本店がある銀行だ。あいつはロンドンにある支店で働いてたんだ。
ウェルスマネジメント(富裕層向けのリテール業務)をやってたから
たぶん俺より年収が良かったんじゃないかな」
※ユービーエス。スイスのチューリヒおよびバーゼルに本拠を置くスイス最大の銀行
「どのくらいの年収だったの?」
「そうだな。あいつの部署だと1,000万から1,200万くらいじゃないのか?」
「そんなに稼いでいたの!! 超エリートじゃん!!」
「俺、あいつの通帳見たことないからさ、いくら持ってたのかも知らねえよ。
それに当時稼いだ金なんて今の英国の物価では相対的に価値が下がってるぞ。
そこんとこは本人も分かってるだろうから稼いだお金の大半は
有価証券で運用してると思う。あ、でも2017年に転職したって言ってたな」
「どこに転職したの?」
「確かバークレイズだったか? 英国が本場のそこそこ有名な証券会社だよ。
企業の財務分析をするのが得意だからアナリストにでもなったかもな。
子供ができてからもバック(裏方)で働くのは嫌そうだったから
ガンガン稼いでると思うよ。妻は俺より学歴高いからな」
「プロデューサーさんより学歴が高い女性なの!? どこの大学?」
「最終学歴はオックスフォードだ。
最初に日本の私立大学を出て新卒での就職に失敗してな、
それがよほど悔しかったのか、その後に改めて英国に留学したんだ。
オックスフォードの経済学コースの大学院でMBA(経営学修士)も修めてるよ。
外国の大学で勉強するなんてすげえよな。俺なんて英語の問題は解けねえよ」
「そうなの? プロデューサーだって英語が話せるじゃない」
「まあ仕事では使ってるけど、なんつーかビジネス用の会話なんて
会話ってよりは経済の専門用語とか決まり文句を覚えるようなもんだしな。
たぶん慣れたら誰でもできるよ。聞き取れるようにさえなればな。
本格的な英語は会話よりも読み書きする方が百倍難しいんだぞ」
ちなみにプロデューサーも社会人になってから
妻に負けないようにMBAの勉強はしたが時間に余裕がないので断念した。
「プロデューサーの奥さんって、どんな人だったの?」
「んーそうだな。あれは女じゃなくて男だったな。
髪が長いから見た目は女だけど、中身がちょっと残念なタイプだな。
何をしててもビジネスのことしか頭にないような感じだよ。
テレビの娯楽番組は興味なくてニュースしか観ないタイプ。
仕事用のオフィシャルな服は持ってても休日に可愛い服なんて絶対に着ない」
あの女はプライドが高いから口も悪かった……。
プロデューサーは嫌そうな顔をしながらそう言う。
「でもそんな人と……プロデューサーは結婚してたんだよね?」
「恥ずかしい話なんだが、あの時はたぶん誰でも良かったんだろうな。
20代半ばの時の俺は、今では信じられないくらい
結婚にこだわってた時期だったからな。休みの日に近所の公園とかを歩くと
若い家族連れの連中が多かったから、うらやましくなったんだろうな」