息子が慧音の願いを叶えてから一年後。
慧音の衰弱は、もはや末期に達していた。布団から出られない日々だった。
体温も下がり、身体が低温に苛まれることが毎日続いた、脈も弱まっていく。秘薬でもどうにもできなかった。
命日は近かった、一年も生きられないことは確実だった。
夜、家には慧音と息子の二人だけだった。翁は家に帰らないことが多くなった、二人の邪魔になると考えていた。息子が将来、人里で暮らせるための根回しもしていた。
慧音と息子は、布団の中で一緒に寝ていた。お互い抱き合っていた、息子が慧音の身体を温めるためだった。
「いつも悪いわね……温めてもらって………。」
慧音の声は弱弱しかった、もはや風前の灯火のようだった。
「何言ってるの母さん、……少しでも助けになりたいんだ。だから、こうさせて。」
「ありがとう……この温かさだけが………心の支えだわ………。」
「母さんッ…。」
母親の冷え切った身体を抱き付く、信じられないほどの冷たさだった。氷の柱を抱くようだった。
お互い悲しい気持ちになった、死期が近いことを嫌でも実感させられた。
「ああ………私……幸せ…………。」
「今日も一緒に寝よう、母さん…。」
親子は少しでもこの時間を味わいたい、味わえなくなる前に。
(この子には、苦労を重ねてしまった。恋人ごっこまでやらせてしまった……、母親にそんなことをやらされるのも辛かったでしょうに。この子には、もっと甘えさせてあげたかったわ……。だけど、それも叶わない。
現実は残酷ッ……うんざりさせられるほどに、憎くなるほどに。
けどね、悪いことばかりじゃなかった。あなたを産んで、育てた日々は本当に幸せだった。翁さんの言っていた悪しき血が流れていることを否定して良かった、
あの時あなたを切り捨てたら後悔していた。
血なんて関係ない……愛しい子よ、最後まで。)
二人の夜は、毎日続いた。翁は自分の出る幕は無いと考えた。
それから、三か月後
慧音の容態が急激に悪化した、心臓が動きが弱くなり始めた。怖れていたことがついに始まった…。
覚悟の時が来た。
「………。」
「慧音殿……。」
「………み…んな……。」
息子と翁は見守ることしかできなかった、だがそれだけは貫いた。二人とも取り乱さなかった
少しでも慧音に安心して欲しかった、これからも生き抜けると証明するために。
「母さん……お別れの時間だね………。」
「ええ……もっと………一緒に、いたいのに。」
「…。」
本当は泣きたくて仕方なかった、だがぐっと堪えた。……抗い続けた。
「ねえ、○○。……聞いて…。」
「母さんッ?」
「わがままを……言ってちょうだい。……願いを…。」
「わがままを……ここで………。」
「恋人になってくれた……あなたの………願いを…。」
慧音は、最後の最後に息子の願いを叶えようとしていた。母親でいたかった、恋人ではなく。
今にも消えそうな命の火が、少しだけ激しく燃えて輝いていた。
「母さん、僕のわがままを聞いて。」
「……言って………早く。」
「母さんの過去を知りたい!ッ僕は母さんの今までを何も知らない。……だからこそ知りたいんだ。
僕にとっても関係があることだからッ知らずに終わるなんてやだ。」
「!!?ッ」
慧音は迷っていた、我が子に真実を告げていいのか?墓まで持っていくのもよかった、だが真実を告げることを息子は望んでいた、願っていた。
最後のわがままを聞かないわけにはいかなかった。
「………分かったわ、……○○…私をある場所へ、連れてって……。」
「……ある場所へッ?」
「ええ………案内するから………。」
「……。」
翁は止めたかった、だが……。
(あの子も覚悟が出来ておる、口出しは野暮じゃ。真実を知り絶望し道を踏み外さないかどうかは儂にも分からん、賭けになるのう……。)
「案内するよ、母さん。ありがとう……わがままを聞いてくれて。」
「礼はいいわよ………私はあなたの………お母さんだもの。」
息子は慧音を背負い家を出た、翁は家に留まった。ただ座り込んでいた。
(すまん親子よ………儂が…不甲斐ないばかりに!!ッ。)
独りだけになった翁は、泣き崩れた。
慧音を背負う息子は、導かれるまま歩いていく。歩みに迷いは無かった、決意は固まっていた。
季節は廻り、冬が訪れていた。森の中、枯れ木と落ち葉が広がっていた。哀愁を漂わせ二人を静かに迎えた。
まるで今の親子の心境を表現するかのようだった。
冷たい北風が吹いていく、粉雪も降り始める、それだけが続いていく。
「母さん寒くない、大丈夫?」
「大丈夫よ……もう何も感じないから………。」
「……。」
肌の感覚は完全に死んでいた、気温も分からなくなっていた、息子の温もりも……。
「……僕が温かいのも分からないってことッ?」
「ええ……残念ながら………でも、感じれただけ良かった。…後悔は無いわ。」
「僕もだよ、母さん。母さんとの日々は忘れないから。」
身体の熱が抜けていく母親を抱いてきた日々、それに後悔は無い。
息子が慧音とともに進んでいると、遠くに一つの小屋が見えた。
「こんな森の中に小屋が……一体誰が。」
「ふふッ………。」
「母さん?」
「私も先生だった頃………そんな風に…思ったっけ………。」
「ま、まさかッ!?」
「ええ、……あの場所こそが…。」
息子達はさらに歩んでいった、そして着いた、あの場所に。
目の前には古小屋が佇んでいた、これこそが全ての始まりだった、
親子にとっての。
慧音が別れを告げてから十年以上経った小屋は、一部が風化して損壊していた。
屋根や壁に穴が開き、もはや小屋というより廃墟に近付きつつあった。その姿は、どこか物悲しくもあった。
人々に忘れ去られ、消滅を待つだけだった。
「これが僕たちにとっての…始まりの場所?」
「そうよ、あなたが産まれる切っ掛けは………ここよ。……死んだお兄さんも…。」
「死んだお兄さんッ?……僕に兄弟が?」
「本当は行きたくなかったッ………もう二度と…訪れないって……思ったのに!!ッ」
「母さんッッ……一体何がッ?」
「!!?ッッ」
「母さんッッ!!!?」
突然慧音の身体が、激しく痙攣しだす。汗も酷く滲んでいく、目の焦点も定まらない。
息絶え絶えだった、もう助からない、残された時間は僅かだった。
息子は、背負っていた慧音を樹木へと寄り添わせる。そして優しく抱き寄せる。
しばらくして、慧音の震えが止まった。落ち着きを取り戻した。
だが、視力はほとんど失われていた。辛うじて息子の顔が分かる程度だった。
「○○……よく聞いて。」
「母さん……。」
「あなたに私の力を託すわ、それで…あなたが知りたいことが分かる……。」
「母さんの力を僕にッ……。」
「そしてあの扉を……開けなさい、その中に…あなたの父親がいる。」
「父親ッ!!?あの小屋の中にッ!?」
息子にとって思いも寄らなかった、廃墟になりかけの小屋に父親がいることを。
ずっと会いたいと思っていた、問い詰めたいと思っていた。なぜ母と結ばれたのか?どうして家族を捨てたのか?
翁を苦労させたのに思うところはないのか?自分を本当に愛しているのか?
聞きたいことは山ほどあった。
「でもこれだけは忘れないで……。」
「えッ?」
「この先には…残酷な現実が待っている……それでも………自分の人生を投げ捨てないで…私の分まで幸せになって……お願い…。」
「……約束するよ、母さん。………だから僕のこれからを…天国で見守っててッ。」
「天国ね、……最後にそう言ってもらえるなんて……嬉しいわ………。」
我が子の優しさが愛おしかった、だが自分の行先は天国ではなく、おそらく…。
「あなたを産んでよかった………私はそれだけで………幸せよ…。」
「…………うんッッ」
「今ま………で…あり…………が……と………う…。」
「………ッ。」
「…。」
「」
「さよならッ…母さん。」
慧音は息絶えた、我が子に看取られながら人生を終えた、最期を告げた。
涙が流れていたが、どこか穏やかで安らかだった。
「……なんで、父さんは母さんを捨てたんだ。」
「なんでこんな辛い目に遭わなくちゃいけないんだッ……!!、……僕らはッ…」
この世の不条理を嘆いた、だがそれも空しく響くだけ。
「?ッ…これはッ」
息子は亡くなった慧音の右手に、あるものが握られていることに気付いた。
それは、光り輝く欠片だった。慧音が、最期に遺した歴史を操る力の因子だった。
「これが、母さんが僕に託す力……。」
息子は欠片を掴み取った、輝きはより強さを増し……。
バチィッッ!!
!!?ッッ
欠片が全身に浸透した、能力に目覚めた証だった。身体が熱くなっていく。
「これが託された力……、これで真実を知ることができる。」
後戻りをする気は無かった、最初から。
「母さん……僕は行くよ。」
息子は、小屋の扉を開けた。
ガラッッ!!
「!!?ッッこれはッ!!」
小屋の中にいたのは、二つの白骨死体だった。
二つとも長い時間により風化し始めていた。ハエも寄り付かず、誰にも埋葬されず放置されていた。どちらも頭蓋骨の顔面が砕けており他殺なことは明白だった。
背丈は息子と同じぐらい、今の息子と同じ年に死んだのが分かる。
他にあるものは、土に帰りかけていた僅かな藁と血の跡が付いた石だけだった。あまりにも奇妙だった。
「この二つの死体が…僕のお父さんだっていうの?一体誰に殺されたの?…しかも死んだ年頃は僕と同じぐらい……
この古びた小屋で、母さんと父さんに何があったの?……訳が分からないよ…。」
何もかもが謎だった、だが息子はあることに気付いた。
自身の両手が、意志に直接語りかけてくることを。
(サワレバ ワカル)
「欠片が帯びていた光が僕の両手に……この死体に振れれば、真実が分かる!ッ」
息子は、二つの死体に歩み寄る。そして、両手でそれぞれ触れようとしていた。
(僕は迷わない、覚悟はできている。)
輝く両手で、死体に触れた。
バチバチバチィィィィィィィッッッッ!!!!!
「うあああああああああああァァァァァァッッッッ!!!」
死体に刻まれた記憶、それが脳に直接流れ込んで来た。凄まじい奔流が激流のように荒れ狂う、意識が精神世界に溶け込んでいく。
「これが……父さんの………記憶……!!ッ」
息子は、知ってしまった。自身の父親達の全てを。
信じたくはなかった、父親が今まで何をやってきたのか、どんな人生を送ってきたのか、母親に対してきたことも。
もう、吐いてしまいそうだった。
「嘘………そうだとすればどれだけ良かったか……いや…………母さんの記憶を…全てを知れば。」
息子は小屋から出て、慧音の亡骸の前に立つ。母親の記憶を…人生の全てを知ろうとしていた。
そんな最中、両手の光が再び語り掛ける。
(ホントウニシルノカ カクゴハイイカ)
「覚悟なら出来ている、母さんの全てを知るんだ、今ここでッ!!!」
息子は、慧音の右手を掴んだ。再び精神世界へと導かれた……。
(これが、母さんの今まで……。)
自身の両親を記憶を…人生の全てを知った。父と母の記憶は矛盾無く、一切誤差のない歯車のように嚙合っていた。
それが嘘でも幻でもない真実だということの証明だった、だからこそ残酷だった、身を引き裂かれるように。
「これが母さんの言っていた残酷な現実………。」
まさにその通りだった。この小屋が悲劇の始まりだった、監禁凌辱という名の悲劇、それで兄は死に自分は誕生の切欠になった。
最後は母が二人の父を殺したのだ、だがそれは悲しくなかった。
一番悲しいことは、母である慧音が尋常ではない辛い人生を送ってきたことだった。
寺子屋、人里の住民、両親、神獣、ありとあらゆる者たちによって散々痛めつけられたのだ。
「なんで………母さんは……こんな辛い目に遭わなければならなかったんだ…。」
「こんなの間違ってる………母さんは何も悪くないッ………。」
「なのに………なんで……。」
不条理、それが母親に不幸をもたらした。だがいくら憎んでも恨んでも呪っても…復讐する術は無い。
歴史を操る力でもどうすることもできない、能力でも過去は変えられない。無力に打ちのめされるだけ。
残されているのは遣る瀬無さだけ…。
「母さんの人生はッッ……一体なんだったっていうだァァァァッッッ!!!」
息子は叫ぶことしかできなかった、母の亡骸を抱えながら。
その慟哭は、初めての子を亡くした慧音とよく似ていた……。