昼休み。
調達したパンを手に、島津豪は屋上へ向かっていた。左手にはパンの入った紙袋。右手には、疲弊しきったリョウの手が握られている。
「もう無理。ここから、一歩も動けそうにない。屋上まで連れてって、豪」
そうやって甘えられるのも、随分と久しぶりのことなのである。だったら、期待に応えてやるのが幼馴染としての役割なのではないか。
周囲の眼は確かにある。それでも、少しの逡巡もなしにリョウのお願いを聞き届けてしまうのが、島津豪という男だった。
繊細な肌。しかし、ところどころにかたい部分がある。
この何年かでベースにハマっていること。そして、つい最近までバンドを組んでいたことを、昨日虹夏から教えられている。
「おっ。いらっしゃい、豪ちゃん。というかリョウ、幼馴染の帰還を歓迎する側として、なにか用意してあげるのが普通なんじゃないの? それをいきなり、お昼たかっちゃってさ」
「えー? それは、豪がいいって言ったから。私だって、さすがに無理強いまではしない」
「気にするなよ、虹夏。それに、飢えてるリョウのこと、俺が放っておけるわけないだろ?」
「うっ、それもそっか……。ほんっと、豪ちゃんはリョウに甘々だよね」
建物の陰に腰をおろし、リョウに買ってきたパンをひとつ渡す。
右手にリョウ。左手には、虹夏がいる。もっと幼い頃はなんとも思わなかったが、これはいわゆる両手に花という状態なのではないか。
「ちょっと失敬。はむ、もぐっ」
「そんな体勢で食って、喉つまらせても知らないぞ?」
「そうなったら、豪が助けて。この姿勢は、信頼を最大限あらわしてるだけだから」
あぐらをかいた膝の上。リョウの頭の重みが、やけに愛おしく感じられた。
気にせずパンをかじりはじめた幼馴染の髪を、撫でてみる。手入れはちゃんとしているようで、指の間を簡単に通り抜けていってしまう。
「はあ……。転校初日から、豪ちゃんも大変だねえ……。っていうかなんなのさ、この空気は」
「あんまり騒がないほうがいいんじゃない、虹夏? ほら、パンツ見えちゃってるし。ふふっ。結構、かわいいの履いてるんだ」
「ちょっとリョウ、そんなの報告しなくていいから!」
「むう……。虹夏はこう言ってるけど、豪はパンツの色気になるよね。安心して、あとでこっそり教えてあげるから」
「当事者の眼の前で話してる時点で、全然こっそりになってないでしょ。豪ちゃんも、興味ありそうな顔しない! はい、この話題はもうお終いだからね!」
なにも変わっていない騒がしさ。
帰る以前にかすかにあった心配はすべて杞憂で、二人は自分を受け入れてくれている。
「そういえばだけど、豪ちゃんの親御さんはしばらく向こうに行ったままなんだよね」
「ああ。父さんは、母さんがそばにいないとまともに生活できないような人だからな。しばらくしたら、もどってこられるそうだけど、我侭言って俺だけ先に帰ってきたってわけ」
「んっ……。だったら、それまでお昼、あたしが用意してあげよっか? どうせ毎日つくってるんだし、豪ちゃんの分くらい増えても問題ないからさ」
そう言った虹夏の顔が赤い。母性のかたまり。このような成分は、どうやったってリョウからは摂取できないものだった。
最低限の料理は母から教わってきたものの、自炊ができると自信を持って宣言できるレベルには程遠い。
虹夏には歳の離れたお姉さんがいるが、子供心にも家庭的な人だとは思えなかった。早くに母を亡くしていることもあって、伊地知家の家事全般を司っているのが虹夏だった。
「よし。それじゃ私は、豪と一緒にお弁当をおいしく食べてあげるね。幼馴染の笑顔こそが、なによりの原動力。でしょ、虹夏?」
「便乗しようとしないで、万年金欠ベーシスト。というか、リョウもそろそろお金の遣い方覚えなよ。高い楽器に全部注ぎ込むの、まともじゃないにも程があるでしょ」
「ふへへっ。やっ、それほどでも……」
「いやそれ、全然褒めてないからね!」
二人による掛け合いが心地いい。地元に帰ってきたんだという気持ちに心底なれて、ずっと聞いていたくなってしまう。
「ほんと、持つべきは幼馴染だな」
「へえ。今頃気づいたんだ、豪。私は、ずーっと昔から知ってたよ」
「うんうん。またこの三人で、仲良くやってこう。ねっ、豪ちゃん?」
それまで膝でごろごろしていたリョウが、急に起き上がる。
真剣な眼差し。超然としているようで、どこか寂しがり屋な気質がある女の子。
そばにいるのが当たり前で、まさかこんなに離れ離れになる期間ができるとは思っていなかった。ふと吸い込まれそうに感じてしまうのは、そのせいなのか。
リョウが手で顔にふれてくる。突然のことに、虹夏は面食らって言葉がでないでいる。
「じっとしててね、豪。んっ……」
「はっ? へっ、ちょっ、ちょっとリョウ!?」
叫びに近い、虹夏の声だけが聞こえている。
一瞬の出来事だった。それなのに、妙に濃厚な時間を過ごしたかのような感覚が残っている。
唇。間違いなく、ふれていた。
リョウの表情からして、冗談やなにかではないようだった。
「私お金ないし、なにもしてあげられないから。精一杯のおかえりなさいの表現方法が、これだったってだけ」
「ン……。ただいま、リョウ。それと、すっごく嬉しかった」
完全なる不意打ちだった。
リョウもさすがにドキドキしているのか、視線が上手く合わないでいる。
いきなりのキス。予想外に感じているのは、虹夏も同じなのである。かたまりかけている表情。その中で、口だけがパクパクと動いている。
「いいんだ、虹夏は? 私は、別にそれでも構わないけど」
「……す、するっ! あたしだって、豪ちゃん帰ってきたの嬉しいもん! だから、んーっ」
「らしいよ、豪。あんまり待たせると、虹夏気絶しちゃうかも」
ちょっと歪なくらいの関係。だけど自分たちには、案外そのくらいがちょうどいいのかもしれない。ぼんやりとしていく意識。それに伴い、様々なタガがたぶん外れていっているのか。
確実に、もう元にはもどれない。もどりたいなんて、思うことすらできやしない。
早くしてやれと言うように、リョウが手を振っている。そういうところが、幼馴染思いなのである。前に進むのなら、三人一緒で。そうやって、自分たちはつながっている。
虹夏の顔が近い。頑張って突き出した唇が、かわいらしかった。
軽くついばむように虹夏にふれる。緊張。それだけでも、はっきりと伝わってくる。
粘っこいやり方は、今は相応しくないと思った。顔がゆっくりと離れていく。虹夏はまだ身体を硬直させたまま、眼をぎゅっと閉じていた。
大切に思っていた幼馴染の二人と、立て続けにキスを交わしてしまっている。
とてつもない倒錯感に襲われる。それでも、心のどこかに余裕があると思えているのは、いつかこうなることを自分が望んでいたからなのか。
「むーっ! むーっ! むっ……、ふはっ!?」
「ぷぷっ。いつまで息とめてるの、虹夏」
「だっ、だってさぁ!? 豪ちゃんには一応言っとくけど、これ……初めてなんだからね!?」
「当然だけど、私もそうだよ。豪が全然帰ってきてくれないから、ファーストキスを危うく墓場まで持っていくところだった」
変化していないと思っていた関係。
きっと、これからなにもかもが変わっていくのだろう。ただ、その中で大事な部分だけが同じであり続ければいいのではないか。
してやったりという表情で、リョウが笑っている。
二人のやわらかな手を握る。そのまま見上げた空は、普段よりも遥かに青く晴れ渡っていた。