正直言って、午後の授業の内容はまるで頭に入ってこなかった。
深呼吸をしながら、虹夏はあの瞬間のことを思い返していた。
どくん、どくん、どくん。心臓が、ずっと鳴りやまないでいる。
幼馴染とのファーストキス。いきなり終えたというのに、なに食わない顔をしていられるのだから、リョウはやはりただ者ではないように思えてくる。
『STARRY』の扉をくぐる。
姉が経営しているライブハウスで、ほとんど自分の家のようなところだった。実際、自宅は『STARRY』の入っているマンションの上階にあって、そこで虹夏は姉と父と三人で暮らしている。
「ただいま。ねぇ、聞いてよお姉ちゃん。私……、私ついにしちゃったんだ」
「あん? だから、ここでは店長って呼べって何度も……」
言いかけて、姉である星歌の顔がかたまった。
今の自分は、それほど普段と違う雰囲気を出してしまっているのたろうか。
姉が立ち上がり、心配そうに歩み寄ってくる。
口は悪いが、優しい人だということはよく理解していた。料理は下手くそで、家の仕事は自分に頼りっぱなしだが、今の生活には満足していた。
「しちゃったって、おまえまさか」
「う、うんっ。わかるの、お姉ちゃん?」
「話したのか、警察には。いや、今後のことを考えれば、それもやっぱり……」
「へっ……? なに、警察って」
「あ、違うのか? てっきり、出来心で万引きでもやらかしたんじゃないかと」
大きなため息。だけど、ある意味安心している自分がいることに、虹夏は気がついていた。
姉といつもの様なやり取りをしていると、少し気分も落ち着いてきた。唇に、人差し指でふれてみる。今まで知らなかったぬくもり。それが、鮮明に蘇るようだった。
自分だけがどうしようもないくらいに緊張していて、豪はそれほどでもなかった。そこがちょっとばかし悔しかったが、忘れられない思い出ができたことには違いない。
「しちゃったっていうのは、キスのことだよ! もう、お姉ちゃんはなんにもわかってくれないんだから」
「き、キスぅ!? あ、相手は誰だっ! おまえほんとに、悪い男に捕まったんじゃなんだろうな!?」
「うーん。悪い男っていえば、そうなのかも? これまで散々待たせた挙げ句、あたしとリョウのファーストキスをすんなり受け入れちゃうんだもん。めちゃくちゃだよね、そんなの」
なにも、嘘など言っていない。
リョウの気持ちなんてわかりきっていたし、いつか豪と結ばれるのなら応援する心構えはできているつもりだった。
それなのに、あいつは。
現代の倫理観に照らすとあまりよろしくない関係を、自分たち三人は築こうとしているのだ。だから、あのキスは誓いの証。新たな旅路をはじめるための、起爆剤。
三人で好きあって、なにが悪い。
あいつを誘ってバンドを組み、ロックに生きようとしているのだから、タイミングとしてはむしろいいくらいなのかもしれなかった。
「おい。そいつの面、今すぐ拝みに行ってやる。あたしの妹に舐めた真似しやがって、ただじゃおかねえ」
「やっ、そこまでしてくれなくっていいから!? 豪ちゃん。その悪い男ってのは、豪ちゃんなんだよ! 言ったでしょ、昨日帰ってきてくれたって」
「はっ? ああ、そういえばそんなこと……。そうか、あの豪とね……」
「うん。でなきゃ、あたしとリョウがそんなことするはずないよ。許してくれる、お姉ちゃん」
「許すもなにも、そんなのおまえたち次第じゃねえか。けっ、けど、あいつに言っとけ。帰ってきたんなら、あたしにも顔見せに来いってな」
素っ気ない表情をつくっているが、たぶん喜んでくれているのではなかろうか。
自分とよく一緒にいた豪のことを、姉は弟のように思っている。その豪がせっかく下北沢にもどってきたのだから、会いたいと考えるのは当然だった。
「えへへ。材料買ってきて、お赤飯でも炊いちゃおうかなー」
「浮かれてる場合か。仕事しろ、仕事」
「はーい。それじゃ、掃除からはじめるね」
いつものようにカウンターに腰かけ、姉が頬杖をついている。
そっぽを向いてしまった顔。覗き込むようなことは、虹夏はしなかった。
♪
学校からの帰り。当たり前について来るリョウを連れて、豪はコンビニに買い出しに向かっていた。
自炊の真似事をはじめるのは、もう少し落ち着いてからにするつもりだった。しばらくの間は、コンビニやスーパーでありあわせの物を買って凌いでいけばいい。
幸い、仕送りは貰えているし、バイトも探すつもりでいる。だから、自分ひとりくらいであれば、どうにでもなるはずだった。
「あっ。このお菓子、結構美味しいらしいよ。ううむ……。それと、こっちも」
「そんなにたくさん選んで、泊まりにでも来るつもりか、リョウ?」
「うん、そのつもり。家には、もう連絡してあるから」
呆気なく返ってくる答え。聞くまでもないようなことを、わざわざ聞いてしまったような気がしてくる。
リョウはあれからずっと上機嫌で、虹夏とも楽しそうに接していた。三人ではじめる、新たな関係。それに対する気負いなんてものは、少しもないようだった。
「リョウさんリョウさん」
「はい、なにかね島津くん」
「この薄いゴム状のものが入ってそうなパッケージは、間違えて投入されたのでしょうか」
「おおっ、さすがに目聡い。だけど、これも生活必需品なのでは? まあ、どちらかというと性活のほうだけど」
「活字にしないとわからないようなボケはやめなさい。けど、本気なんだよな、リョウ」
「まじのまじ。虹夏も誘いたかったのに、バイトなら仕方ないよね」
飄々とした姿勢を崩さずに、リョウはカゴの中のパッケージを指で突っついている。
泊まる意思があると確定した時点で、決まっていたようなものだった。これから、どんな顔をして家には向かえばいいのだろうか。一瞬でもそう考えたのは自分だけで、きっとリョウは自然体のままでいるのだろう。
この付き合いも、三人でのつながりの延長線上でしかない。それがこの先続いていくのだから、さっさと腹をくくるべきだった。
「あっ。それすぐ使うんで、袋いらないです」
「はっ、えとっ!?」
「店員さんを困らせるのはやめなさい、リョウくん。すみません、袋もください」
「むう。ちょっと、やってみたかっただけなのに」
だからって、年頃の女子高生がゴムの箱をぷらぷらさせていいものではない。
奪い取るようにして袋の中に押し込み、お金を払って店を出る。店員さんのなんともいえない表情。しばらく、ここを使うのは控えようと豪は決意していた。
家に到着して鍵を開けると、真っ先にリョウが飛び込んでいった。二階建ての一軒家で、この一年ほど誰も帰っていないから、どこかで気合を入れて掃除をしなければならなかった。
リョウの家まで、歩いて十分もかからない。帰りたくなれば、いつでも帰ることのできる距離ではあった。
荷物の整頓はまだ半ばで、最低限必要なものしか取り出せていない。
「懐かしいね、豪のウチ。あっ、ちょっと虹夏の匂いが残ってるのかも」
「よくわかるな、リョウ。確かに昨日、荷物の整理手伝ってもらったんだけどさ」
「ううん。なんとなく、カマをかけてみただけ。豪が、そのくらいのこと隠すとは思わなかったけど」
「ははっ、なんだそりゃ。ソファーくらいしかないけど、まあくつろいでいってくれ。ほかのものは、追々設置していくから」
「ここ、ひとりで暮らすには広すぎるくらいだよね。住んであげよっか、一緒に」
「ずっと帰らないのは、さすがにだめだって。けど、合い鍵は渡しておくよ。……っと。そうなると、虹夏の分も用意しておくべきだよな」
「だね。今日からここが、私たちの愛の巣になるんだし」
そういう言葉を恥ずかしげもなく吐けるのだから、リョウのメンタルはかなりのものだ。
いや。よく見ると、顔がちょっと赤い。視線を合わせてくれないのも、照れくさいからなのだろう。
「よっと。それでは、早速」
リョウがシャツのリボンをほどき、胸もとをちらつかせる。
ゴムも買ってきてあることだし、準備は万事整っている。据え膳食わぬは男の恥。相手が大好きな幼馴染であるのなら、余計にそうだと言えるのではないか。
挑発的に佇むリョウ。力いっぱい抱きしめ、やわらかさを味わった。
自分だって、性欲旺盛な思春期男子なのである。こうまでされて、冷静でいられるはずがなかった。
「んっ、あっ……。興奮してるの、豪」
「抑えられるかよ、こんなの。誘ってきたリョウが、悪いんだからな」
「むむっ。これは、山田リョウ史上最大のピンチなのでは? あっ、お風呂とかどうしよっか」
「いいよ、そんなのあとで。汚したら、二人で入ろう」
「はふっ、んっ……。なら、キスしよっか」
リョウのささやき。
甘ったるいくらいで、するりと耳の奥にまで入り込んでしまう。
ズボンの前を引っかく指。昼間したのとは違う粘っこい口づけが、リョウとの時間がはじまる合図だった。