ーーー征服歴1500年11月 王都カルネアス ミスト侯爵家別邸ーーー
どれほど深く眠ろうと、四年間で染み付いた習慣は変わること無く、アレクは日の出と共に目を覚ます。
戦場の硬い地面や質の悪いベッドとは異なる柔らかいベッドと、自身の右腕が抱きしめる温かな肢体に、完全には覚醒していないアレクは僅かに体を強張らせる。
「ぅ…ん、アレク?」
「すまんエリカ、起こしたか?」
「うん…もうちょっと、寝かせて…」
「ああ」
アレクの腕を枕にして眠っていたエリカは、眠たげに目を擦ると、甘えるようにアレクの体に体を擦り付け、再び目を閉じる。一糸纏わぬ姿のエリカをアレクが優しく抱き寄せる。そうして互いの温もりを確かめ合いながら、次第にエリカは規則正しい寝息を立て始めた。
アレクはエリカを起こさないよう慎重にベットから降りる。寒くないように毛布をかけ直し、アレクは昨夜脱ぎ捨てた服を纏い部屋を出た。
部屋付きのメイドにエリカが起きた時の為に着替えと湯を沸かしておくよう頼んだ後、アレクは鍛錬の為に裏庭へ向かった。
ミスト侯爵家の王都屋敷は、アレク達が泊まった別邸の他に、主にミスト家と取引のある商人達が出入りする本屋敷があり、当主であるミランダ達は主にそちらを使用している。
この別邸は、本家の人間がより私的な客人を招く際に使用されるため、普段は当番の使用人が少数で管理している。昨晩急にこの屋敷を使用することをミランダが指示した訳だが、流石は七大貴族ミスト侯爵家だけあり、客人であるアレク達は快適に過ごすことが出来た。
芝生が短く刈られた裏庭で、アレクは使用人に借りた木剣に重りを付けて日課の素振りをする。夜が明け、肌寒い朝の空気の中で、アレクは体から湯気を立ち上らせながら、木刀を一切ブレること無く振るい続ける。
決めていた回数の素振りを終えたアレクは、木剣に重りを付けたまま正眼に構える。そしてゆっくりと、カルネアス流剣術の動きを確認してゆく。
淀み無く滑らかに、舞うように一つ一つの動作を無心で実行してゆくアレクに、後ろから声がかかる。
「良い剣だ、”黒狗隊“を返り討ちにしたってのも頷けるぜぇ」
「……ありがとうございます」
木剣を下ろし、アレクは後を振り返り頭を下げる。
そこには、筋骨隆々の偉丈夫、ヴォルス・バランタインがその野獣の如き精悍な顔に楽しげな笑みを浮かべながら腕組みしていた。
「あー、そんな畏まる必要はねぇよ。俺も眠気覚まし代わりに剣を振りに来ただけだ」
「爵位も持たない一介の大尉にそれは酷ですよ、バランタイン公爵閣下」
軍人になるより前、一度だけ遠くから顔を見たことのあるこの国で王族に次ぐ高貴な血筋の男に、アレクは頭を下げたまま苦言を呈する。
「ハッ、偉いってのも面倒くせぇもんだ。じゃあいい、命令だアレクサンダー・ウォーカー大尉、とっとと頭を上げろ」
「承知しました」
言葉通り面倒くさそうに、ヴォルスはアレクに頭を上げるよう指示する。アレクは命令通り、包帯で隠されていない顔をヴォルスに晒す。
「へぇ、聞いちゃあいたが、随分と修羅場をくぐってきたようだなぁ」
「ええまあ、それなりには」
無惨なアレクの貌を見ても、ヴォルスは特に怯むこと無くニヤリと笑う。それに対してアレクは表情を動かすこと無く、無難に会話を終えようと曖昧に返答する。
アレクの心情を知ってか知らずか、ヴォルスは無遠慮な目でアレクを観察する。
「…何か?」
「いやぁ、顔だけじゃなく全身ズタボロだなぁと…よく五体満足で生きてるな」
「頑丈さだけが自慢ですので」
木で鼻をくくったようなアレクの返答に、ヴォルスは大声で笑う。
「ククッ、ガッハッハッハッハ!! 成る程なぁ! 確かに、それだけ深手負っても生き残れれば自慢できらぁ!」
「ええ。頑丈な体に生んでくれた母には毎日感謝していますよ」
”そろそろ開放してほしいなぁ…“と内心ぼやきながら、アレクは無表情にヴォルスに応対する。
そんなアレクの心情を知ってか知らずか、ヴォルスは笑うのを止めると、手に持っていた刃引きした長剣を一本アレクに投げ渡す。
危なげなく長剣をキャッチしたアレクへ向けて、ヴォルスは無言でもう一本の長剣を構える。その目は、先程までの楽しげなものから、一人の剣士としての冷徹で真剣な物へと変わっていた。
「…」
アレクは木剣を置き、同じく長剣を構える。
一挙手一投足の間合いに立った二人のどちらも構えは正眼、使用するのは全ての基礎たる第一の型ラーヴェ。
「眠気覚ましくらいにはなってくれよ?」
不敵に笑ったヴォルスは、ほとんど予備動作無しにアレクの手首を狙って剣を振るう。豪快な見た目に反して繰り出される洗練された斬撃は、真剣であれば相手の手首を斬り落とす威力があった。
アレクは軽く剣を引き、余裕をもってヴォルスの斬撃を受ける。
”ガキン“と金属と金属のぶつかる音と共に火花が散る。手首の捻りのみの軽くし滑らかな動きに反して、ヴォルスの斬撃は重い。生半可な剣士ならば、ヴォルスの見た目に騙されて反応が遅れ、重い斬撃を受け入れず剣を落としてしまうだろう。
だが、アレクは眉一つ動かさず、受けた剣もそれを携える腕も微動だにしない。
「ほぉ…やるなぁ」
「…」
ヴォルスは動きを止めず、再び手首の捻りのみでアレクの肩を狙う。だがそれもアレクは危なげなく防御する。
一旦剣を引いたヴォルスは、スルリと自然な動きで間合いを詰め、掬い上げるようにアレクの顔面を斬り上げるが、アレクは半歩下がるだけでその斬撃を空振りさせる。
ヴォルスは楽しそうに笑いながら、僅かに視線を鋭くしてアレクを追撃する。フェイントを織り交ぜながら、ほぼ予備動作の無い斬撃をアレクに放つが、いずれも余裕をもって防御され、躱される。
「っ、しゃらくせぇ!」
「……っ!」
ヴォルスが一際激しい踏み込みと共に、今度は大振りでアレクの頭を叩き割ろうと長剣を斬り下ろす。その動きは荒々しく見えて一つ一つと挙動に無駄が無く、余程の実力者であっても剣が振り下ろされるまで動けない、見事な斬撃だった。
だが、アレクは振り下ろされる長剣の腹に正確に自分の剣を合わせ、致命の斬撃を綺麗にいなす。
「まだまだぁっ!?」
「…」
更に畳み掛けようと踏み込もうとしたヴォルスの脚が止まる。
ヴォルスの首には、いつの間にかアレクの長剣が添えられて入る。
「っ…フー、見事だ」
「……ご指導ありがとうございます」
「ケ、嫌味にしか聞こえねぇぜ」
ヴォルスもアレクも剣を下ろし、互いに頭を下げる。
「部下にエリカの嬢ちゃんが子供扱いされたって報告は受けてたが…想像以上だなぁおい」
「…自分は彼女に負けましたが?」
「ハッ、殺す気がねぇどころか怪我すらさせねぇよう気ぃつけてたんだろうが。むしろどうやって勝つつもりだったんだよ?」
「適当に相手をして諦めさせるつもりでしたよ…結局、折れたのはこちらでしたが」
「ガハハハ、そいつぁ傑作だ! なんだよおい、惚れた弱みか?」
「……そうですね。まさか負けるとは思いませんでしたが」
エリカに負けたことに納得はしていても、若干悔しさはあるのか、無表情な顔をさり気なくそらすアレクの姿を、ヴォルスは腹を抱えて笑う。
「ガハハハ!! …てか負けたことはともかく惚れたことは否定しねぇんだな」
「…? 事実ですので」
「あー…若いっていいなぁ…うん?」
「…?」
真顔で返すアレクに、砂糖の塊を丸呑みしたような顔をしたヴォルスは、アレクの後ろから迫る人影に気付き口をつぐむ。
そしてヴォルスの反応と視線に気づいたアレクは後を振り向く。
アレク達の視線の先には、不機嫌そうに頬を膨らませたエリカが仁王立ちしていた。若干顔が赤いのは湯浴みをしたからなのか、それともアレクの発言を聞いたからかはわからないが。
エリカが不機嫌な理由が分からないアレクが困惑気味に問いかける。
「どうした、エリカ?」
「………起きたときいなかったわ」
「…?」
「私が起きたとき、貴方がいなかったわ」
「いや、それは鍛錬に…」
「…また、いなくなったと思ったじゃない」
「あー…それは……すまない」
金色の瞳に涙を浮かべて寂しそうに呟くエリカに、アレクは済まなそうに頭を下げる。
それだけでは機嫌の直らないエリカは、無言で手を広げる。
「エリカ…?」
「ん」
アレクは本気で困った顔でエリカに意図を問う。
対してエリカは無言で手を広げたまま、アレクにハグを強請る。
アレクはチラリと後を振り向くが、後ろの
観念したアレクはエリカに歩み寄り、彼女を優しく抱きしめる。
「エヘヘ〜、もう勝手にどこにも行かないって言ったでしょ?」
「…ちゃんとメイドに伝えたんだが」
「私に直接言わなきゃだーめ」
エリカもまたアレクの背中に手を回し、アレクを逃さないように抱きしめ耳元で囁く。
「それに、まだ痛いからベットから降りるの大変だったのよ?」
「……すまん」
「今回だけよ?」
エリカが悪戯っぽく笑い、アレクの唇に触れるようにキスする。
そこで少しだけ顔を顰める。
「…汗臭い」
「……鍛錬後だからな」
「もう終わったでしょ? お風呂湧いてるから入ってらっしゃいな。案内するわ」
「そうか」
「そうよ」
ハグを解いた二人は、歩きにくそうにするエリカをアレクが支えてやりながら裏庭を後にした。
「……砂糖吐きそう」
「どうぞ、閣下」
胸焼けしそうな光景に顔を顰めていたヴォルスに、仕事のできるメイドが濃く淹れたコーヒーを渡す。
「……美味ぇ」
ヴォルスの嘆息に頭を下げたメイドは、テキパキと木刀と長剣を片付けた。