ーーー征服歴1500年11月 王都カルネアス ミスト侯爵家別邸ーーー
リガール家の執事に案内されて、アレクとエリカは先代リガール辺境伯レオポルドの滞在している部屋へと案内された。
扉の前で、部屋の中から漂う異様な程の殺気を感知したエリカがポツリと呟く。
「なんか、最近もこんな状況に出くわした気がするわ…」
「俺もだ…」
アレクも同意するが、同時に逃げるわけにもいかないなと覚悟を決める。
リガール家の執事が扉をノックすると、中からエリカの副官であり、同じくリガール家の執事でもあるエバンス・フィデック准尉が内側から扉を開き、アレク達を部屋へ招き入れた。
「「っ…!!」」
部屋の中心に座る禿頭の老人から放たれる壮絶な殺気に、アレクとエリカは思わず身構える。
エリカの祖父、先代リガール辺境伯レオポルドが気の弱い者なら失神しかねない鋭い眼光でアレクを睨み据える。
「お、お祖父様…私はっ」
「エリカや、お主は黙っておれ」
「エリカ、下がっていろ」
アレクを庇うために前に出ようとしたエリカは、レオポルドとアレクに制止され後ろへ下る。
アレクは一人、部屋の中心で文字通り怒髪天を衝く(なお髪はない)レオポルドの正面で正座する。罪人のように、だが堂々と背筋を伸ばして。
椅子から立ち上がったレオポルドが、老いてもなお壮健な肉体に覇気を漲らせながら、アレクやエリカが生まれるより遥かに前から人を殺し続けた拳を握る。
「覚悟はよいな?」
「…はい」
ドゴォォン
「ぐぅっ…」
アレクの頭頂部に、レオポルドの巌の如き拳骨が叩き込まれる。
うめき声と共にアレクの額の傷が開き血が吹き出す。だが、アレクは背筋を伸ばしたまま、堂々とレオポルドに対峙する。
「………孫娘を傷物にした件は、これで勘弁してやろう。エバンス、傷を手当してやれ」
「ハッ」
エバンスは恭しく、己の主君の命に従いアレクの傷を改める。
エリカはエバンスの肩越しから傷を覗き込み、呻くように呟く。
「その傷、縫ってないのね」
「傷跡が何重にもなっているせいでまともに縫い合わせられないそうだ。昨日は焼いて止めた」
「ウォーカー大尉、申し訳ありませんが今は包帯だけで」
「ああ、頼む」
顔の半分を血に染めながら、殴られた当初しか痛みを訴えないアレクに戦慄しながら、エバンスは手際よくアレクの頭に包帯をきつく巻き付け、傷を止血する。
「…大丈夫なの?」
「この程度なら問題ない」
レオポルドの対面に座ったエリカは、隣で白湯を飲むアレクに声をかけるが、アレクは何とも無さそうに答える。
「さて、そろそろ良いかのぉ?」
「ええ、構いません。先代辺境伯閣下」
「そこまで堅苦しくせんでよい。皆からはご隠居や先代などと呼ばれておるからの」
「承知しました、先代様」
アレクは貴族として文句のつけ難い礼節を以てレオポルドに頭を下げる。
「それで先代様、わざわざ朝食前に自分を招いたのは如何なる用件でしょうか?」
「そう警戒せんでよい。まあ用件の一つはもう済んだしの」
「殴るのが要件だったのね…」
「可愛い孫娘がどこの馬の骨とも知らん男に傷物にされたんじゃ。むしろ拳骨一発ですませたのは温情じゃぞ?」
呆れ顔のエリカに、レオポルドは諧謔に富んだ顔で嘯く。
そして咳払いを一つすると、笑いを引っ込めて真面目な顔になり、アレクへと頭を下げる。
「今回の件は儂の、いやリガール家の不手際じゃ。すまなかった」
「お祖父様…」
この国で、かつては王族に次ぐ権勢を誇り、現在でも絶大な権力を有する七大貴族の元当主が、たかだか滅んだ一領主貴族の、その後継ぎですらない男に頭を下げる。他国よりも平民の力が強いとはいえ身分制の色濃く残るこの国ではまずあり得ない状況に、孫娘であるエリカは絶句する。
だが、謝罪を受けたアレクは無表情のまま、レオポルドの下げられた禿頭を冷たく見据える。
「謝罪は受け取りました、先代様。どうぞ頭をお上げください」
「そうか、うむ」
頭を上げたレオポルドに、アレクは凍てついた声音で告げる。
「ええ。
「なっ!!?」
「ウォーカー大尉!」
つい先程まで礼節を保っていたアレクの突然の暴言に、レオポルドは目を見開き、エバンスが咎めるように声を荒げる。
アレクは己を睨む男達を嘲るように唇を歪め、足を振り上げる。
ガゴォォォン
部屋を震わせる轟音と共に、アレクとレオポルドの間に置かれていたテーブルが砕ける。アレクが振り下ろした踵が、頑丈な樫材で作られたテーブルを粉砕したのだ。
「っ…! お主」
「ご隠居様!」
「……はぁ」
レオポルドが憤怒の表情でアレクを睨み、彼の忠実な臣下たるエバンスは主君を庇うように立ちはだかる。一方で、エリカはアレクが、テーブルを踏み砕く前に退避させたカップから白湯を啜り、溜息をつく。
「ウォーカー大尉殿、幾ら貴殿であってもこれ以上、先代様に無礼を働くようなら」
「黙ってろ木端、お前如きの出る幕じゃない」
「な…っ!?」
幾らエリカの想い人であり命の恩人でもあるとはいえ、あまりにも礼を逸する言動にエバンスが激昂しそうになるが、命の危険を察知した彼の生存本能が、アレクへ掴みかかろうと踏み出した足を縫い留める。
「ぬぅ…」
「くっ」
先程、レオポルドが発していた殺気がそよ風に思える程の、息の詰まるようなアレクの壮絶な殺気に、レオポルドとエバンスの主従が呻く。
かつては武門の名家リガール辺境伯家の当主として、大陸屈指の精鋭騎兵隊を指揮したレオポルドも、その麾下で鬼神の如き戦果を挙げたエバンスも、己の半分にも満たない歳の若造の殺気に抗することも出来ない。
「先代リガール辺境伯閣下、一つ尋ねさせて頂きたい」
「…なんじゃ?」
慇懃な、形だけ敬意を込めたアレクの質問に、額に冷や汗を浮かべたレオポルドが答える。
「閣下、貴方はさっきの謝罪で、今までの事を全て有耶無耶にするつもりでしたね」
「…何のことじゃ?」
「呆けてんじゃねぇぞジジイ、最低でも3回もこっちの命を狙ってきた上に家族にまで手を出しやがって。テメェの禿頭一つ下げるだけで帳消しに出来ると思ってんのか?」
敬意の欠片もない、どころか普段のアレクでもまず使わない伝法な口調で、アレクはとぼけようとするレオポルドに釘を刺す。
「ショーン・ジルベルト中尉にバーナード・ジルベルト大佐、今度はえーっと…」
「ランビス少尉?」
「そうそうラ何とか少尉」
「ラドロス少尉です、ウォーカー大尉…」
エバンスの控えめな訂正にポンと手を打ったアレクが、気を取り直して言葉を続ける。
「ショーン・ジルベルト中尉の義弟だって言っているラドロス少尉も合わせて三人、俺の命を狙ってきた訳だ。ああ、一人は事故だが狙ってたことは似たようなものだな。全員、アンタの家の分家の人間だが?」
「そやつらが勝手に…」
「じゃあ今からジルベルト子爵家の人間は皆殺しにしてくる」
「なっ、待て! なぜそうなる!?」
「当たり前だろう。これ以上放置しておくとまたぞろ命を狙われかねん」
「じゃが…」
「なんだ? 庇うのか? そいつ等が勝手にやっただけなんだろ?」
「そ、それは…」
言葉に窮するレオポルドに、アレクが畳み掛ける。
「そもそも俺は、アンタの孫娘に戦功を譲る代わりに、リガール家に家族の保護を約束して貰っていたはずだ」
「そ、それは謝罪を…」
「俺を殺すためにわざと護衛に手を抜いたのか?」
「違う!」
「へぇ、じゃあさっきの曖昧な謝罪は何に対する謝罪だったんだ?」
「っ…」
言葉に詰まるレオポルドをアレクは嘲笑う。
「部屋に入った時の殺気も俺への拳骨も、テメェのやったことを頭を下げるだけで有耶無耶にするための芝居だろ?」
「……」
「拳骨については素直に受け取ったが、その先は駄目だな。“剣”のリガールが聞いて呆れる」
「お主、それ以上わが家名を侮辱するようなら…」
「ハッ、一軍人を使い潰した挙げ句、そいつを殺すのにわざわざ家族を人質にとる卑怯者共に何の名誉があるんだ?」
「じゃからそれはあやつらが勝手に…っ」
反論しようとしたレオポルドは、アレクの昏く重苦しい殺気の籠もった視線に射竦められ口を噤む。
「分かってて止めなかったんだろ?」
「っ…」
投げ捨てるようなアレクの言動に、レオポルドは歯ぎしりし、苛立ちの籠もった声で反論する。
「
「そうだな。だが俺は死ななかった…まさかとは思うが、
アレクは顔に嘲弄を浮かべながら、視線だけは凍てつかせたままレオポルドの言葉を補足する。
「別に、俺はこんな国どうだっていいんだ。革新派だろうが七大貴族だろうがな。憂さ晴らしに何人か殺したところで心は傷まん。特に、自分で手を汚さないようにしながら俺を殺そうとしてくるジジイとかはな」
「…できるとでも?」
「できないとでも?」
睨み返すレオポルドを、アレクは嘲笑う。
レオポルドは喉まで出かかった『お前の
それをやれば、眼の前の狂人は迷いなく自分を、そして己の家族の命を脅かした者達を鏖殺する。そう思わせるだけの狂気が、アレクの目に宿っていると、歴戦の軍人であり、政治家として数多の人間を見続けてきたレオポルドは察する。
「狂人め…」
「そうしたのはお前らだ」
アレクは足を組み、冷や汗を流すレオポルドとエバンスを睥睨する。
「どうしたジジイ、さっきまでの殺気はどうした? 自分より格下相手じゃねぇと威張れねぇのか?」
「貴様っ…!」
「ハッ、高潔が売りのリガール家もこんなもんか。やっぱりまとめて殺…あ痛っ!?」
物騒な事を言い始めたアレクの額に、エリカの手刀が落ちる。丁度傷の部分に打撃を食らったアレクは、割と痛そうに傷を抑えてエリカを睨む。
「痛いぞ、エリカ」
「いい薬でしょ。八つ当たりでお祖父様の寿命を縮めた罰よ」
「いや、こういうのはできる時にきちんと恐怖を刻み込んでおかないとだな…」
先程までの放っていた殺気を嘘のように霧散させたアレクは、咎めるように自分を睨むエリカの視線から逃れるように顔をそらす。その動きには、レオポルド達を震え上がらせた狂気は欠片もなく、年相応の、むしろ数歳以上若く幼く見えた。
エリカによって齎された劇的な変化に、レオポルドは目を瞬かせる。
「貴方が怒るのは分かるけどやり過ぎよ。見なさい、お祖父様の顔が真っ青よ?」
「いい気味だっ痛い!?」
「途中から愉しんでたでしょ! お祖父様のやり方が悪いのは確かだけど、立場的にあれ以上の事が出来ないのは貴方のほうがよく分かってるんじゃないの?」
「…それも含めて交渉材料だったんだが」
不貞腐れたように呟くアレクに呆れたように、エリカは溜息をつき、致命的な言葉を浴びせる。
「いい? アレク、そうやって人の弱みに嬉々としてつけ込むところ、
「なん…だと……?」
「ほら、だからちゃんと謝りなさい。大丈夫よ、誠意を尽くす心が残ってるならカレウスおじ様とかダニエル兄様みたいな外道には堕ちないわ」
「そう…か?」
「そうよ」
絶望に染まっていたアレクの顔に僅かに希望が差す。
「…そんなにカレウスと同類扱いされるの嫌なのかの?」
「それはそうでしょう」
レオポルドの疑問に、仕事のできる執事は恭しく頷く。
彼らの目線の先で、ショックから立ち直ったアレクが改めて頭を下げた。
「先代様、先程は大変失礼しました」
「う、うむ。こちらも、お主が被った被害について謝意が足りなんだ…元当主として分家の手綱を握らなかったこと、そしてお主とその家族に累を及ぼしたこと、改めて謝罪しよう。この通りじゃ」
深々と、先程のような軽いものではなく誠意を込めて、レオポルドも謝罪した。
「賠償等については後にするしかないのぉ。おそらく朝食の時には、カレウスめが情報をまとめているじゃろう」
「承知しました、先代様」
アレクは先程とは異なり、正しく敬意を込めて、レオポルドの言葉を受け入れた。
アレクとエリカは部屋を辞し、朝食室へと向かった。
二人がいなくなった客室で、レオポルドは砕けたテーブルを見ながら苦笑する。
「ふぅむ、まあちと寿命は縮んだが、どうやらエリカの目は確かだったようじゃのぉ」
「先代様、確かにウォーカー大尉は優秀な軍人ですが今回の態度は…」
苦言を呈そうとするエバンスの発言を遮るように、レオポルドはひらひらと手をふる。
「気にするな、とは言わん。おそらくあの狂気は演技ではなくあの傷だらけの坊主の本質じゃ」
「では尚の事危険では?」
「ああ、危険じゃ。いつこちらに牙を剥くが分からん猛獣など近くに置きたくはないわい」
レオポルドは未だ恐怖に震える手で葉巻を取り出す。先端を切り落とし口に咥えた葉巻に、同じく手を震わせるエバンスが火を点ける。
「あれはおそらく、エリカがいる限りこちらに牙を剥くことはなかろう。わが孫娘ながら愉快なものじゃの、あの狂人を飼いならすとはのぉ」
「先代様、流石にその言い方は…」
「ふむ、では尻に敷いているということかの」
レオポルドが楽しそうに葉巻を吹かす。
「のおエバンス、ああいう怪物は偶に…本当にごく稀に現れるものじゃ」
「先代様?」
「お主は思い出さぬか?
「
「儂は思いだしたぞ? 四十年以上前に味わった恐怖を…あのお方、
エバンスは未だに震える己の掌を、そして同じく震える主君の手を見ながら、レオポルドの言葉を待って沈黙する。
「いやはや危うい危うい…エリカが居らなんだら、儂の首もカレウスの首も身体と泣き別れしておったじゃろうの」
「カレウス様はともかく、先代様は我々がお守りします」
「ホッホッ、嬉しいのう…まあ幸運にも儂は家臣も目をかけている分家の当主も失わず、思いがけぬ奇貨を得たわけじゃ」
レオポルドはニヤリと、獰猛な笑みを浮かべる。
「長生きはするものじゃのう。生きてもう一度、
レオポルドは己が夢想が現実になる日を想像しながら、芳醇な葉巻の香りを楽しんだ。