征服歴1500年 7月 連合王国西部スペイサイド州
夏の森特有のジメジメとした蒸し暑い空気の中、軍服を着た50人程の男たちが茂みの中に伏せながら、息を殺し合図を待っていた。
彼らの目の前を、物資を満載にした荷馬車が通過してゆく。
約4年前、奇襲的に王国の領土に侵攻し大戦の引き金を引いたユスティニア獣王国の兵士たちが、前線拠点へと運び込む物資を護衛しながら土を固めただけの街道を苦労しながら進んでゆく。
雨が多く、未だに未開発の森林が多いスペイサイド地方で、彼らは泥濘と蒸し暑さに苛まれながら、友軍に食料を届けるために歩き続ける。
森林地帯を横断する細い街道を、初めこそ警戒して進んでいた獣国の兵士たちも、先頭が森を抜ける段になると流石に警戒を緩め始める。
「ふぅ…なんとか我々は無事に兵糧を拠点まで運べそうだな」
「ここしばらく、連合王国の連中に補給線を攻撃されてばかりでしたからね。こちらも警戒して普段の倍の護衛をつけましたから、奴らも怖がって襲ってこないんでしょう」
隊列の中央で馬に揺られながらようやく緊張を解いた指揮官がぼやくと、副官が相槌をうつ。
この戦域の獣国軍は、連合王国の防衛線を突破するために拠点を築いたはいいが、補給線が伸び、そこを突かれて補給部隊を襲撃されることが増え、本来の倍の300もの兵で補給物資を護衛していた。
警戒していたポイントを無事通過できそうだと気を緩め、部隊全体に弛緩した空気が漂いはじめる。隊列は前後に長く伸び、周囲の警戒も疎かになってゆく。
「しかしこの地方のジメジメした空気にはうんざりするな」
「もう夏ですからね。でも夏のうちにさっさと連合王国の連中の防衛線を抜かないと、略奪出来るような豊かな地域まで行けませんよ?」
「ああ、そうだな。戦争が始まったときみたいにまた好きに略奪をっ…」
指揮官が下卑た笑みを浮かべたタイミングで、彼の頭に矢が突き刺さり、彼はにやけた顔のまま、落馬し絶命した。
「な…隊ちょ…」
そして副官もまた、その頭に矢を生やし、何が起こったのか理解できないままその生涯に幕を閉じた。
そしていきなり指揮官が不在となった補給部隊の兵達に、茂みの中で息を殺していた連合王国の兵達が襲いかかった。
「敵だ!敵の襲撃だ!」
「畜生!何処に隠れていやがった!?」
突然の指揮官の死に混乱する獣国の兵士は、奇襲を仕掛けてきた連合王国の兵達に対し為す術もなく次々と倒されてゆく。
「ヒャッハー!! 殺せ殺せぇ!!」
「オラオラぁ! 侵略者共をぶっ殺せぇ!!」
軍人というよりも野盗や盗賊のような言動の兵士たちが、獣国の兵士達を蹴散らしながら、物資の積まれた荷車に手際よく火をかけてゆく。
大半の兵士は突然の襲撃に混乱し、指揮を執るべき部隊長と副長がいきなり殺されてしまいその混乱を収集できる者もいない。
「落ち着け!落ち着いて持ち場を守っ…ガハァ!?」
「こいつら、覚悟しっ…!」
それでも冷静さを保ち、部下の指揮を執ろうとする者や勇敢に立ち向かってくる者は優先して狩られてゆく。
「ひっヒィィ…た、助け…ギャァア!!?」
「痛い…痛いぃ、おれの腕がぁぁ!!?」
そして混乱を助長するため、あえて即死させず戦闘力だけを奪った兵士達を隊列の前後へと追い立ててゆく。
『逃げろぉ、敵の数が多すぎる!!』
『奴らは兵糧を狙ってる! 死にたくなければ兵糧なんか放っておいて逃げろぉ!!』
そして流暢な
前後に長い隊列で、まともな情報伝達もないまま襲われた隊列中央の兵達が殺到した隊列先頭と最後尾は情報が錯綜し押し合いへし合いの大混乱に陥り圧死者も出ることになる。
ーーーーーーー
「畜生、チクショウ…こ、こんなところで死にたくない…」
その兵士は混乱する戦場で、生きるために持ち場を放棄し必死に敵のいない方向へ走っていた。
まだ十代後半の幼さの残る顔立ちに恐怖を貼り付け、涙と鼻水で顔面を汚しながら、ただ生き残るために逃げる。
同じ考えの兵士達と揉み合いになり、最早自分がどの方向に走っているのか分からなくなった彼は、唐突に人の途絶えた場所に迷い込み、足を滑らせた。
「い、いでッ…なんでここ、こんなに滑っ…ヒィィ!!?」
地面に手をついた彼は、その地面がなぜ湿っているのか理解して悲鳴を上げた。
「ち…血が…こんな…」
そこは地面が死体から溢れ出した血を吸いきれず、赤い泥濘と化したおぞましい場所だった。ここは人が
なぜならそこには仲間
「あ…あぁぁ…」
ガタガタと、夏の暑い日差しを受けながら兵士は凍えたように震える。
兵士の目線の先で、首無しの死体の中心に佇む男がいる。
片刃の剣をダラリと下げ、全身に返り血を浴びて真っ赤に染まった男が、ゆっくりと彼に近づいてくる。
顔は見えない。男の顔は包帯に覆われ、本来は白いその布地もまた、返り血で赤く染まっている。
唯一布で覆われていない目は、どんよりと淀んだ瞳でまるで兵士を片付け忘れたゴミを見るような面倒くさそうな様子で見つめている。
兵士は恐怖で涙を流しながら、以前同じ隊にいたベテラン兵が話していたとある噂話を思い出していた。
ーーーーーーー
曰く、この戦場には顔の無い怪物がいる。
その怪物は、故郷を滅ぼされた連合王国兵の成れの果て。
それは憎い獣国兵を殺すために戦場を彷徨い歩いている。
それは、出会った獣国兵を絶対に逃さず首を刈り取る。
その顔は皮膚を削ぎ落とされ、炎で焼かれこの世のものとは思えない姿になっている。
それに出会ったら必ず逃げろ、仲間を見捨てて盾にしてでも。
生き残りたければ、仲間など見捨てて地の果てまで逃げろ。
ーーーーーーー
それは戦場によくある誇張され尾ひれのついた戯話だと、その時の兵士や仲間達はそのベテラン兵を笑った。
そもそも出会ったら死ぬならそんな噂にすらならないだろう、と。
だが違った。それは実在したのだ。
その姿は人の物だが、その醸し出す雰囲気は兵士の怯えた目には人外の怪物にしか見えなかった。
兵士はかつて聞いたその怪物の名前を呟く。
「
己の貌を失い戦場を彷徨う幽鬼…、憎き獣国兵を殺戮する無慈悲な怪物…。
戦場で唯一人でこの怪物に遭遇した兵士は、恐怖で膝を付きそうになる脚に力をいれ、真っ直ぐに立上りゆっくりと近づいてくる怪物を睨み据えた。
獣国の貧しい村で生まれた兵士は、徴兵され半ば強制的に軍に入った。そして故郷から遠い異国の地で、怪物によって理不尽に殺されようとしている。
だが、こんな怪物に殺されて死にたくない、と兵士は強く想った。
彼の手には、獣国の下級兵に支給される槍が握られている。
必死に逃げる中でも手放さなかった槍。それは兵士としての訓練の賜物かもしれないし、単に恐怖で手が開かず槍を落とさなかっただけかもしれない。
だが少なくとも、恐怖と絶望の果に覚悟を決めた若い兵士は怪物を睨みながら訓練通りに槍を構えた。
死にたくない、必ず生き残って故郷へ帰る。絶望の中で兵士に唯一残された想いが、若い兵士に怪物へ立ち向かう勇気を与える。
槍を握りしめた兵士は、自分達を訓練した教官の教えを思い出す。
槍は、ただ突くだけの武器ではない。自分達のような素人でも、単に振り上げ、そして振り下ろすだけで、その威力で鎧を着た兵士の頭を潰し、手足を砕くことができる強力な武器なのだと、教官は語り自分達を鍛えた。
「ああああァァァ!!!」
兵士は槍を振り上げ、渾身の力で振り下ろす。
例え怪物だとしても、当たればただではすまない。今の自分に出来る最大限の攻撃で、兵士は生き残るための最善手を、怪物を殺すという最も困難で確実な手段を実行した。
「あ…れ……?」
だが、渾身の力で振り下ろした槍に手応えは無かった。肉を裂き骨を砕く感覚も、外れて地面を叩く感覚も無い。
冷静になり自らの槍を眺めると、その槍は柄の半ばから切り飛ばされていた。
そして兵士の槍を苦もなく切り飛ばした怪物は、歩調を変えず兵士の横を通り歩き去ってゆく。
「たす…か……!?」
見逃されたのかと安堵の溜息をつこうとした兵士は突然視界が反転したことに混乱する。
「…!…!!?」
声を出そうとするが、何故か声は出なかった。
…勇敢な兵士が最後に見たのは、歩き去る怪物と崩折れる
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「隊長ぉ、取り敢えず護衛の獣国兵は全部逃げ出しやしたぜ」
「ヒャッハー、ボスぅ戦利品もたんまりでさぁ」
泥と血で汚れたどう見ても山賊の親玉にしか見えない大男と、同じく山賊の下っ端にしか見えない柄の悪そうな兵士が彼に近づいてくる。
『そうか、遺棄された物資は全て焼き払え』
「あー、アレク隊長? まだ獣国語のままですよ」
「…おっと」
先程まで、流暢な獣国語で獣国兵を撹乱していたアレクは部下に指摘されて言葉を切り替える。
「動きを阻害しない程度だけ奪って後は焼き払え」
「勿体なくねえですか、これ全部持って帰ったら王都で豪遊できますぜ?」
「すぐに獣国の追手が来る。あの世まで持っていけるのなら好きにすればいいが、足手纏になるなら見捨てるぞ?」
「へいへい。では15分で一通り手筈を整えまさぁ。おい、行くぞ」
「ヒャッハー、とっとと燃やすぜぇ!!」
明らかに他人の命令など聞きそうにない兵士達が、アレクの指示には逆らわずテキパキと物資に油をまき燃やしてゆく。
最低限、背嚢やポケットに詰められる分だけの略奪品を持った彼らは、彼らが地獄の鬼よりも恐れている自分達の指揮官に従い、森を抜けて自分達の陣地へと無事に帰還した。
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1週間後、物資の欠乏した獣国の前線拠点は後方の遊撃大隊の援軍を受けた連合王国軍に攻められあっさりと陥落した。
次回は明日21時予定