ーーー征服歴1500年 スペイサイド州 ユチノメ山 北東部ーーー
スペイサイド州ラバナキア平原の北部にそびえる、標高約500メートルのユチノメ山は、スペイサイド州では珍しくない、ほぼ手つかずの山林を有する山だった。開発が進んでいないスペイサイド州では、平地は兎も角、切り拓くのに労力の必要な山は後回しにされていたためだ。
人の手の入っていない山林は、訓練された兵士であっても単独で行動するのは危険である。方向もわからず、危険な獣におそわれ消耗し、遭難するのがオチだ。
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エリカは、硬い地面の感触と、微かに聞こえる
軍人として、そして女として貞操の危機を感じた彼女は即座に飛び起き、肌見放さず懐に忍ばせている懐剣を手に、唸り声の方向を睨む。
そして彼女は、その“唸り声”の正体に気付いて剣を下ろし、戸惑いながら尋ねる。
「……何をしているの?」
「フゥ…っ…目が覚めたか…」
エリカの目の前には、上半身裸になり、舌を噛まないように口に布を咥えながら、自らの胸部にきつく包帯を巻くアレクの姿だった。
顔の包帯を外し、傷だらけの痛ましい顔に脂汗を浮かべながら、アレクはエリカの方を見て答える。
「肋骨が何本か折れていてな。応急処置だが…っ…無いよりマシだ」
「肋骨って…いっ…」
そこでエリカもまた、自身の頭の痛みに気付く。
「大丈夫か!?」
「痛ったた、大丈夫、タンコブになってるみたいだけど」
「手足は動くか? 痺れは? 吐き気はあるか?」
普段のアレクからは考えられないほど慌てた様子で、頭を抑えたエリカの体調を確認する。
「大丈夫…手足も動くし、咄嗟に飛び起きたけど特に違和感はないわ」
「そうか…良かった」
心底安堵したようにアレクは溜息をつくと、脱いでいた上着を羽織り、エリカに向き直る。
そして膝と両手をつき、額が地面に触れる程に深く頭を下げる。
「エリカ・リガール中尉殿、この度は命を救って頂き本当にありがとう御座いました」
「ちょっ…ちょっと何よ、似合わないわよそんな改まって!?」
「俺は今日だけで貴方に3度命を救われた。地位も財も無い俺には、こうして頭を下げる以外、貴方に返せるものは無い」
そう言ってアレクは、肋骨が何本も折れ、動くどころか話すことすら苦痛な状態でエリカに頭を下げ続ける。
「わ…私が貴方を助けたのは感謝される為でも、報奨の為でも無いわ! 私はただ、
「……そうか」
「…そうよ」
エリカの苦しそうな声を聞いて、アレクは頭を上げる。
ポンポンと服についた土を払い、地面に敷いた毛布に座ったアレクを見たところで、エリカはようやく現状を把握する余裕が出来た。
「…というか、私こそお礼を言わないと駄目じゃない。ありがとうウォーカー大尉、貴方のお陰なんでしょ? 崖から落ちた私がこうやって生きているのは」
「俺はただ、出来ることをやっただけだ…運良くお前を空中で捕まえる事が出来て、運良く崖下の森の木がクッションになって、辛うじて助かったに過ぎん…」
「…今更だけど、よく生きてたわね、お互い」
「まったくだ。頑丈な体に生んでくれた母上に改めて感謝したよ」
「そうね」
アレクの言葉にエリカは苦笑する。
「ああそれと、俺だけじゃなくお前の馬にも礼を言っておけ。あいつがいなければ、気絶したお前をここまで連れて来れなかった」
「リーゼが? 無事だったの!?」
「無事どころか、俺とお前のところまでベルガを連れて現れて驚いたぞ? あれほど賢い上に、主人に懐いている馬がいるとはな…」
「あの子はリガール家でも指折りの名馬の血筋だもの、賢いのは当たり前よ。懐かれていたのなら、ちょっと嬉しいわね…」
エリカは嬉しそうに、その場にはいない愛馬の姿を思い浮かべて笑みを浮かべる。
アレクはそんなエリカの姿を横目に、エリカとの間に置かれた簡易コンロにかけられた薬缶からお湯をカップに注ぐ。
襟下にカップを手渡し、自分の分も注ぎ、中身を冷ましながらゆっくりと飲み干す。
エリカも同様に白湯を飲み干し、今更ながら気付く。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「…? 悪いが茶葉は持ち合わせがないぞ?」
「そう…それは残念…じゃなくて!! ここどこなのよ!?」
「どこと言われても、ユチノメ山の山林だが?」
「ここ殆ど手つかずの山林よね? なんで結構しっかりした拠点があるのよ!?」
エリカが辺りを見渡すと、大人四人は余裕で雑魚寝出来るスペースに、簡易のコンロと毛布、それに保存食等が置かれている。
周囲は木の骨組みにフェルトを被せてあるのだろう、かなりしっかりとしたテントのようだが、そもそもアレクは武器以外まともな装備など持っていなかったはずなのに、何故山中で、ここまでしっかりした野営道具を整えられたのか、エリカには想像すら出来なかった。
「ああ、ここは元々俺…というよりもガラクタ中隊が準備していた拠点の一つだからな」
「え…どういうこと?」
「…元々俺達の隊は、スペイサイド州が陥落した場合は、反抗作戦に備えて潜伏するように通達されていたんだよ。…十中八九捨て駒だがな」
アレクの言葉に、エリカは真顔になる。彼女が調べ、そして師のバーナードが語った彼の過去が真実なら、軍上層部はアレクをそのように扱うし、バーナードと彼の盟友であるカレウスも平然とその策に乗るだろうと納得してしまったから。
その心情を知ってか知らずか、アレクは淡々と語る。
「だからまあ、使えそうな場所に見つかり難い拠点を作って、せっせと大隊から横領した物資を隠したり、俺のヘソクリで調達した資材なんかを運び込んだ訳だが」
「待って…何でそうなるの!?」
エリカは、しれっと強かな事をしているアレクに思わず突っ込みを入れる。
「どうせ上層部は命令するだけでまともな支援などしないだろうからな。先に準備をしておくのは当然だろう?」
「…横領とか聞こえたんだけど?」
「わざわざ怠け者の大隊長の仕事を手伝ってやったんだ。正当な報酬だが?」
「それもそう…というかよくバレなかったわね!?」
「ああ、我ながら上手く偽造出来てたんだが…まさかウーサーにバレるとはな」
「あ、ちゃんとバレてたのね」
「まああいつの上官に賄賂を渡したら黙認されたがな」
「…なんか、貴方思った以上に逞しく生きてたのね」
エリカは呆れた様子で遠い目をする。勝手に盛り上がって、悲劇のヒーローの様に思っていた男が、存外その環境に適応していたのだなと、不思議な感慨が浮かぶ。
「取り敢えず、ここは貴方とガラクタ中隊が用意した拠点の一つと言うわけね」
「ああ。お前の馬が来てくれたお陰で、日が沈み切る前にここに辿り着けたのは僥倖だった。ここなら最低限の食料も置いてあったしな」
アレクは保存食のビスケットの包みをエリカに投げ渡し、自分も同じビスケットを齧りながら、エリカに現状を説明する。
「今俺達がいるのはユチノメ山の北東部だ。夜が明けたら北へ向かい、俺達が奇襲に使った道を伝って味方に合流する」
「分かったわ…でも大丈夫なの? その道が敵に見つかってたら…」
「その可能性は高いが…今からルートを変更するのは困難だ。リスクはあるが、追いつかれる前に味方が助けに来てくれるのを期待するしかないだろう」
「アテはあるの?」
「…俺だけなら間違いなく見捨てられるが、お前が居るからな。バグラムか、俺と一緒に奇襲をかけた面子が無事に生き残っていたら、俺達が辿るコースに救援を寄越してくれるだろうよ」
「そっか…そうね」
アレクの言葉にエリカも納得する。
「先に休め。火の番もあるから二時間で交代するぞ」
「ええ…そうしましょう」
エリカは渡された毛布にくるまる。そして金色の瞳をアレクに向けて、最後に一つだけ、伝えるべき事をアレクに伝える。
「ねぇウォーカー大尉、いいかしら?」
「…なんだ?」
「ごめんなさい。私はさっき、一つだけ嘘をついたわ」
「嘘…?」
エリカは目を伏せ、彼女の銀色の髪が金色の瞳を覆い隠す。
「私は…私は貴方に感謝されるほど、立派な志で助けに来たわけじゃない。色んな人に言い訳して、立派なお題目で兵を戦場に連れ出したのは…ただ私が、貴方を見捨てる罪悪感に、耐えられなかっただけ」
「……」
アレクは何も言わず、ただエリカの言葉の続きを待つ。
「ウォーカー大尉、本当にごめんなさい。私が…私がスペイサイド州に行くことを志願しなければ、貴方はまだ、今よりも柵の少ない戦いができたはずなのに…」
「ああ…やはりあの
「ええ、そうよ…」
復讐に最早執着していないアレクが、それでもこの地で戦い続ける理由を知っている人間は、スペイサイド州にはバーナードか、軍団長であるアーカイムとその側近の一部だけ。その中でエリカに事情を話すのはバーナードくらいだろうと、アレクは当たりをつけていた。
悄然と目を伏せるエリカを見て、アレクは溜息をつく。
「…気にするな、とは言わん。実際迷惑だとは感じていたからな」
「…返す言葉も無いわね」
アレクの言葉に、エリカは更にしょげかえる。
「だがそれでも、俺がお前に何度も助けられたのは事実だ。こんな死ぬしか道の無い俺を、お前は何度も救ってくれた」
「それは…私の自己満足で…」
「例えそうだったとしても、
アレクは真っ直ぐにエリカを見つめる。普段ならば、冷めて昏く濁っている瞳にこの時だけは、混じり気の無い敬意を宿して。
「ありがとう、エリカ・リガール中尉。今俺がこうして生きているのは貴方のお陰だ。だから、どうか貴方自身の決断を卑下しないでくれ」
「ウォーカー大尉…?」
エリカは顔を上げ、再び頭を下げるアレクを、涙で潤んだ金色の瞳で見つめる。
「リガール中尉、誰がなんと言おうと、貴方は間違いなく英雄だ。貴方の決断は、決して間違ってなどいない。だからどうか、もう謝らないでくれ。それは貴方自身への、そして貴方に救われた俺への侮辱だ。…違うか?」
「…いいえ、そうよね。私は貴方を助けたんだもの。だったら胸を張らないと、ね」
「ああ」
エリカは瞳に浮かんだ涙を拭う。その姿を見たアレクは、眩しいものを見たように目を背け、再びエリカに告げる。
「もう休め。まだ獣国と帝国の連中から逃げ切れていないんだ」
「そうね…ありがとう、ウォーカー大尉」
「どういたしまして、リガール中尉」
そんなアレクの言葉に、エリカはふと眉を寄せる。
「どうした?」
「うーん、なんだか余所余所しいというか…」
「…何を言っているんだ?」
アレクは胡乱げに、突然悩み始めたエリカを見つめる。
「うん、そうしましょう!」
「…岩の当たりどころが悪かったか?」
“ウンウン”と唸った挙げ句、百面相をしだし、そして突然一人で頷き出したエリカから距離を取るように、アレクは後退り、かつて軍医に聞いた精神病患者の治療方法を思い出そうとしていた。
そんなアレクの様子を無視して、エリカは宝石の様な金色の瞳を輝かせ、アレクに呼びかける。
「ウォーカー大尉!」
「…なんだ?」
いつでも動けるように警戒しながら、アレクは返答する。
「私の事はこれからは名前で呼びなさい」
「……ハァ?」
大抵の事には動じないアレクをして、本気で”何いってんだこいつ?“と困惑しながら声を発する。
「だって余所余所しいじゃない。いちいち名字に階級までつけて呼ぶなんて」
「いや、俺階級は上かもしれんが身分としてはかなり下だからな?」
「その割には“お前”とか“馬鹿”とか散々言ってるじゃない」
「いや、まあ…ハイ」
エリカの剣幕に、流石のアレクも効果的な反論が出来ない。
「公の場は兎も角、今は逃げる為に一蓮托生なんだし、わざわざ他人行儀な呼び方しないで名前で呼びなさい。私も貴方のことは“アレク”って呼ぶし」
「俺は略称なんだな…」
「良いじゃない、長いし。ウェインズ中尉とかはそう呼んでるでしょ?」
「まあな」
どや顔で豊かな胸を張るエリカに、反論する気力も失せたアレクは観念する。そして玩具を投げてもらう直前の大型犬の様な表情のエリカへ向けて、彼女の期待通りの言葉を投げかける。
「
「何かしら、
尻尾があったら振っていそうな位に嬉しそうに、エリカが答え…
「いい加減に寝ろ」
「…ハイ」
アレクの冷たい視線に晒され、逃れるように毛布を被った。
濡れ場を入れようか迷ったけど、まだお互いの好感度が足りないので先延ばしに…(血涙)
悔しいので次くらいに番外編(R18)を書く予定です。