かえでちゃんが家に来て、丸一日が過ぎた頃、みはりはようやく目を覚ました。
「み、みはりぃ、良かったぁ」
俺は赤く腫れ上がったみはりの顔を泣きながら覗き込む。
「はぁ……はぁ……、おにいちゃん?ここは??」
「お前の部屋だ。それより、大丈夫か?」
みはりは目を動かし、辺りを見回す。
そして、再び視線を俺の方へ移す。
「へーき、寝てれば直る……、ごほっ、ごほっ」
手を押さえ、咳き込むみはり。
口を切っているのか、手のひらにはわずかに血が付いている。
「全然へーきじゃないだろ!本当に大丈夫なのか?」
「……うん、それより……お兄ちゃんはご飯、ちゃんと食べた?」
この期に及んで、俺のことを気遣うみはり。
そんなみはりの優しさに涙が出そうになる。
「ああ。さっき食べたところだ」
俺はそう言って、みはりに、空になったカップ麺の容器を見せた。
「そっか、良かった……」
みはりは安心したのか、ゆっくりと目を瞑る。
「……家のことは俺に任せろ」
俺はみはりが眠ったのを確認すると、そう呟き、ゆっくりと部屋を後にした。
「さて、やるぞ!やってやる!!」
俺はリビングで意気揚々と声を張り上げる。
みはりがダウンしている今、家事が出来るのは俺しかいない。
一日だけとは言え、家の中が散らかってしまうのは、自宅警備員のプライドが許さなかった。
俺だって一応、学校で家庭科の授業は受けている。
家事くらい楽勝だ!
そう思ったのも、束の間、さっそく壁にぶち当たる。
「漂白剤、柔軟剤。ちゅう……せい?アルカリ??」
棚に置かれた複数のボトルを持ちながら、俺は悩んでいた。
……、何がなんだか分からない。
一応、単語は聞いたことがあったが、それがどんなもので、どう使えばいいのかはさっぱりだった。
「まぁ、大体一緒だろ」
実際、パッケージも全て似たような色と形をしている。
多分好みの問題だ。
そう考え、俺は棚から適当にボトルを取り出し、洗濯機の中に注ぎ込んだ。
さて、次は……。
「さすがに掃除機くらいは使えるぞ」
掃除機を手にしながら、リビングを隅から隅まで綺麗にしていく。
すると、
ガガガッ……
掃除機が床に落ちていた紙の束を吸い込み、嫌な機械音を上げる。
「ん?何だ??」
慌てて掃除機のノズルを確認し、紙の束を取る。
くしゃくしゃになってしまった表紙には、みはりの名前と学籍番号、そして研究テーマらしきものが書かれていた。
これって……。
そう言えば先日、みはりが「今時、紙の提出なんてありえない」とか愚痴りながら、大学のレポートを書いていたような。
……、みはりに昼食でも作るか。
掃除機をその場に投げ捨て、そそくさとキッチンに向かった。
「やっぱこういう時は、お粥だよな、お粥ぅ」
俺は携帯を取り出し、お粥の作り方を検索する。
すると、直ぐにレシピが表示された。
便利な時代だなぁ。
そんなことを思いながら、俺は戸棚をあさり、調味料を取り出した。
―そして苦戦すること30分
「よし、出来た」
みはりほど、とはいかないが、素人が作ったにしてはまぁまぁのお粥が出来上がる。
「よっと……、それじゃあ」
お粥を持ち、階段を上ると、俺はみはりの部屋の前に立つ。
「みはりー、入るぞ」
ノックをするが、返事がない。
「みはり?」
お粥を床に置き、そっとドアを開ける。
「はぁ……、はぁ……」
みはりは、ベッドの上で眠っていた。
俺は、みはりを起こさないよう、ソッと机の上にお粥を置き、みはりの眠るベッドの横に座った。
薄暗い部屋で、チク……チク……と秒針の動く音だけが聞こえる。
そんな時間が1時間ほど続く。
……、みはりに万が一があったらと心配して側にいたが、もう大丈夫そうだな。
ここにいても迷惑だろうし、部屋に戻ろう。
俺は立ち上がり、ドアノブに手をかける。
そんな時だった。
「おにいちゃん……、ごめんなさい……」
涙ぐむみはりの声が聞えたのは。
同時に、俺の心臓がバクバクと高鳴り始める。
今のはただの寝言だ。
実際、みはりは眠ったままベッドから動いていない。
だから、気にすることはない。
そう自分に言い聞かせる。
……、やっぱりみはりは俺を恨んでいるんだろうか。
今日、少し家事をやってみて分かったが、人間はただ生活をするだけでも相当な苦労を強いられる。
そんな中、みはりは家事と大学の勉強を両立させ、俺の暴力に耐えていた。
それは相当なストレスだったに違いない。
改めて考えてみると、みはりが俺を恨んでいるは当然のことだ。
実際、夢の中で俺に謝っているあたり、俺に殴られた記憶が、相当深く脳に刻み込まれているんだと思う。
だから、俺が罰を受けるのも、仕方がないことなんだ。
そんなことを考えていると、俺は無意識にみはりの前に立っていた。
……、俺が罰を受けるのは本当に仕方がないことなのか?
じゃあ、俺はこのままみはりに殺されても、何も文句を言えないのか?
本当に全部、俺が悪いのか?
昨日、かえでちゃんに殴られたせいなのか、上手く思考がまとまらない。
そして、
「ハァ……、ハァ……」
俺の両手は無意識にみはりの首元へ向かっていた。
―今みはりに手を出せば、俺たちは本当に戻れなくなる
頭の中では、理解していた。
しかし、体が言うことを聞かない。
―ここでみはりを殺せば、俺はこれから罰を受けなくて済む
それだけじゃない、みはりと比べられ、侮辱されることも、罵られることも、蔑まれることもない。
女の子になってしまった以上、みはりを殺せるタイミングはみはりが弱っている今しかない。
―俺は完全に頭がおかしくなっていた
かえでちゃんに殴られた箇所が傷むのか、荒い息使いをするみはり。
俺はそんなみはりの上に乗り、
「お前さえ……、お前さえいなければ……」
みはりの首を力一杯絞めた。
「カハッ……、ァァ」
目覚めたみはりが突然の出来事にパニックを起こしながら、白目を剥く。
そして、軽く足をバタ付かせながら、俺の手をひっかく。
俺の手からポタポタと血が流れる。
しかし、俺は手を緩めることなく、みはりの首を絞め続ける。
やがて、みはりは抵抗する気をなくしたのか、俺の手を離す。
「さよなら……、みはり……」
そんな時だった。
俺の目から涙が流れたのは。
「あれ……、俺、なんで……」
みはりの顔に大粒の涙がポタ、ポタと流れ落ちる。
するとみはりは、俺のほっぺに手を伸ばし、
「ご……めん……ね」
そう言って笑いかけた。
「……っ、ああああああ」
俺は思わず、叫び声をあげ、みはりの首から手を離す。
そして、
「俺は……俺は……」
そう言って両手で顔を覆った。
―どうしてみはりはあんな表情をしたんだ
弱っている所につけ込まれて、殺されそうになったんだぞ!
しかも、相手は実の兄だぞ!!
お前は俺を恨んでるんじゃないのかよ……。
感情がごちゃごちゃになり、頭が真っ白になる。
なのに、なんで……、なんであんな顔が出来るんだよ……。
みはりがベットの上で「ゴホッ……、ゴホッ……」と苦しそうな声を上げる。
みはりの声を聞く度、涙が止まらなくなる。
同時に、昨日、身を挺してまで俺を守ってくれた大切な妹を殺そうとした罪悪感と、兄としてありえない醜態を晒した情けなさが湧き上がり、思わず吐きそうになる。
終わりの見えない地獄のような日々と狂ってしまった兄妹関係。
―俺はもう、限界だった
6.5話に続きます