転生というものを経験して、考えた。
前の「私」は何の変哲もない平凡な人間であったけれど、自分なりに精一杯生きていた。一度きりの人生だから後悔のないようにと、一生懸命に楽しんで生きたのだ。思い出せない部分も多いけれど、きっと悪くない人生だったと思う。
ただ、私はもう知ってしまった。人生は「一度きり」ではない。息を止めれば身体は酸素を求め、胸の中では心臓が鳴り響いている。
それを理解してしまった瞬間に感じたのは、途方もない虚しさだった。
「……私は、誰?」
前と今は名前も違う、顔も違う、けれど頭の中は一緒。自分が呼ばれる名前に違和感を覚え、かといって以前の名前も自分のような気がしない。自分という存在が妙に稀薄に思える。
私を構成するものすべてのものが、ただただ信用ならない。
自分を信じられない私が、他者と上手く接することができるはずもなく。いつしか私はできるだけ息を潜めて生きるようになっていた。
「あ、やっぱりここにいたー!」
「……梓」
人と話すのが苦手で、一生懸命話そうとしてもどもってしまう私は友達が極端に少ない。よく声をかけてくれるのは、幼馴染である彼女だけだ。可愛くて明るい彼女は私の憧れだ。今の自分とは真逆であることを知っているから、もはや嫉妬も抱けない。
「今日から部活見学でしょ? 全員入部しなきゃいけないんだし、図書室はまたにして見に行こうよ」
「あ、……うん。梓は見たいところあるの?」
「うーん、せっかくだからなるべくたくさんいろんなの見たいと思って」
「わかった。この本借りてくるから、ちょっと待ってて」
読もうと思っていた本を閉じ、カウンターに寄る。
中学校に入学してすぐに確認したのは図書室の場所と蔵書だった。もともと本を読むのは好きだったし、何より本を読んでいる間は誰も話しかけてこない。人となるべく関わりたくない私にとってはありがたいツールと言えた。
「文化部から順にまわろっか。今日雨だし、外の部活はあんまり見られないもんね」
「じゃあ、近いところから……」
「うん。近いのは……あ、演劇部があるね。行ってみよ」
演劇部のような人前に出る部活は無理だと、このときの私は考えていた。しかしその考えは、すぐに撤回されることになる。
この部活見学こそが、「私」の人生の始まりだった。
***
あれから十年近く。本当に人生、何が起こるかわからないものである。
昔のことを思い出したのは、これから久しぶりに幼馴染に会うからだろうか。今も付き合いのある彼女と最近会う時間が取れず、是非自分が働くお店に来てほしいと誘われた。仕事中にお邪魔して良いものか少し悩みはしたが、会いたい気持ちが上回る。今でも彼女は私の大切な幼馴染で、何でも話せる友人だった。
「……喫茶、ポアロ」
地図アプリを見ながらたどり着いたお店は、昔ながらの喫茶店だった。ドアを開けるとかららん、と優しい音が響き、ふわりと珈琲の香りに包まれる。
「いらっしゃいませ! 来てくれてありがとう、柚希」
昔から変わらない、梓の明るい笑顔。知らない店にきた緊張が少しほぐれ、肩の力が抜ける。
「……うん。久しぶり、梓」
「最近なかなか会えなくってごめんね? 前なんかドタキャンしちゃったし」
「ううん、お仕事なんだから仕方ないよ」
カウンター席を勧められ、珈琲を注文する。
人があまりいない時間帯でよかった。わいわいしているお店も嫌いなわけではないが、自分には似つかわしくない気がして少し居心地が悪い。
「いらっしゃいませ。お冷をどうぞ」
「あ、……ありがとう、ございます……」
しまった、驚いてびくついてしまった。
男性の店員は気にした様子もなく、今珈琲もお持ちしますね、と笑顔を見せてくれた。ああ、この人が梓の悩みの種、炎上の原因のイケメン。確かに整った顔立ちで、所作も洗練されている。女子高生が騒ぐのもわかるかもしれない。
「梓さんの幼馴染の方だそうですね」
同僚のことを下の名前で呼ぶのは普通なのだろうか。そういうところが誤解を招くのでは、と思いつつも何とか口を開く。
「は、……い。……梓が、いつも……お世話に、なっています」
「お世話になっているのはこちらの方ですよ。では、ごゆっくりなさってくださいね」
「……ありがとうございます」
話すのが苦手なことを察してくれたのか、糧は笑顔をもうひとつ残して戻っていった。ありがたくも申し訳ない気持ちになる。お気を悪くされてはいないだろうか
「はい、お待ちどうさま」
「あ、……ありがとう」
珈琲を出してくれたのは梓だった。ふわりと鼻をくすぐる珈琲の香り。梓が自信をもっておすすめするだけはあるようだ。カップに口を付けると、口の中にまろやかな味が広がっていく。
「……美味しい」
「ふふ、でしょー? 柚希もきっと気に入ると思ったの」
カウンターを挟んでにこにこ笑う梓は、少し得意げだ。
それに少しだけ笑顔を返して、本当に美味しいと言葉を重ねる。
「それで柚希、最近はどうなの? 仕事の方は」
「それなりに……大きいのがひとつ終わったから、今は空白期間かな」
「あの舞台でしょ? 本当にすっごい良かった‼」
「あ、ありがとう……だけど、こ、声が大きい……」
宥めても一度火のついた梓は止まらない。よくそこまで感想が出てくるものだと思うほど、くるくると舌がよく回る。その素晴らしい滑舌は本職として羨ましく思うけれど、さすがに加減して欲しい。人が少ないとはいえ、他のお客さんがいないわけではない。そしてさっきの店員さんもいる。そんな場所で自分の話を大声でされたくないし、それ以上に梓は勤務中だ。真面目でしっかり者の梓が仕事をサボっているなんて思われたくない。そう思っているのに、上手く口をはさむことすらできない自分が歯がゆかった。
「梓さん、少し声が大きいですよ?」
そう慌てていた時に降りてきた、天の助け。
「はっすみません安室さん!」
「いえいえ、久しぶりにご友人に会えて嬉しいのはわかりますが、ご本人もお困りのようですし」
「あ、ごめん柚希も!」
「ううん……でも、ありがとう、ございます……ええと、安室さん……?」
「どういたしまして」
にこりと笑ってくれる彼、安室さんの対応は柔らかい。炎上は困るけど安室さん自身は本当いい人なのよ、と悔しそうに言った梓の言葉が蘇る。きっと、相手のことをちゃんと見ることができる人だ。
「仕事中じゃなかったらもっと語るのに……本当にかっこよかったんだから……!」
「……ありがとう」
少し困ったように笑って見せると、梓はまた口を尖らせた。拗ねる表情も可愛い。
「感想はまた……別の機会に聞かせてね」
「! うん!」
またぱっと笑ってくれた梓に、私も笑顔を返す。微笑ましそうに見ている安室さんの視線が何だか妙にくすぐったかった。
*
「へえ、女優さんなんですか!」
「そうなんですよ~柚希ってば舞台の上だと本当別人なんです!」
安室さんは味方だと思ったのに。収まったはずが再度始まった梓のマシンガントーク。安室さんがお仕事の話ですか、なんて話題を振ってしまったばっかりに、また梓の舌がくるくると動きだす。
「結構大きな舞台で主役したりしてるんですよ! テレビに顔出しはほとんどしてないけど、たまにナレーションとかもやってて!」
「あ、梓……本当にもう、そのあたりで……」
それは僕も是非拝見したいな、と安室さんはにこにこと笑っている。お願いだからこれ以上余計なことを言わないで欲しい。
「柚希、次の舞台の話も決まったんでしょ? 今度はどんなのやるの?」
「……その前に珈琲おかわり」
仕事中なことを忘れないで、と暗に告げると、梓ははっとした顔になった後、笑顔で誤魔化しながら珈琲の準備を始める。安室さんはそれさえも微笑ましそうに眺めていたが、ふと気づいたように視線を上げる。
「ひょっとしてなんですが、番組のナレーションって」
そう前置いて安室さんが口にしたタイトルは、確かに私がナレーションを担当している番組だった。国営テレビ局の自然系ドキュメンタリーで、遅い時間に放送されることもあって視聴率がいいわけでもないが、落ち着いた趣があって気に入っている。
「……そう、です……」
まさか見ているひとがいるなんて、と失礼なことを思いつつも、小さく頷く。安室さんは嬉しそうな顔になってやっぱり、と声を上げた。
「よく拝見していますよ。寝る前とかに見ると落ち着いて眠れるんです。どこかで聞いたことのある声だとは思っていたんですが、やっぱり」
「よ、く、おわかりに、なりましたね……」
「ふふ、貴方の声のファンですから」
たどたどしくお礼を言うと、安室さんはまたにこりと微笑んでくれた。恥ずかしいけれど、それでもやっぱり自分の仕事を好きだと言ってくれるのは嬉しい。
「はい、珈琲のおかわりお待ちどうさま」
「ありがとう……」
すっと差し出されたおかわりに口をつけて、ひとつ安堵の息をつく。ほっとする味の珈琲は確かに病みつきになりそうだ。
「それで、次の仕事って? 何か新しいことをするんだよね」
「うん……ある作曲家さんとコラボの話が持ち上がって」
「コラボ?」
「ええと……舞台のセットはほとんどなしで、舞台に立つのは私とその作曲家さんだけで……私が自分語りみたいにシーンを展開していって、その作曲家さんがオリジナルの曲をバイオリンで演奏するの」
舞台の題材は誰もが知る有名な物語。たとえば『シンデレラ』、たとえば『オペラ座の怪人』。聞いただけで何となくあらすじと登場人物がわかる有名なストーリーをモチーフに、私は登場人物のひとりとして物語を語り、シーンに合った曲を自ら演奏して演出をする、というわけだ。
言うなれば、完全に私の演技力と作曲家さんの表現力頼みの舞台。正直なところ自信はなさすぎるが、関係者にあの手この手で説得され、結局頷いてしまった。
「すっごい面白そう!」
「上手くいけば……面白いとは思うの……だけどやっぱり新しい試みだから、一般公開の前に関係者とか舞台に詳しい人の前でお試しをやってみようってことになって……梓も、来ないかなって……」
いつも私の舞台、見に来てくれるから。
そう言うと梓は嬉しそうに頬を緩め、もちろんと力強く頷いてくれた。
「でも私が行って大丈夫? 関係者とかばっかなんでしょ?」
「大丈夫……他の人も親しい人呼んでるって言うし……その作曲家さんも友達でもいいよって言ってくださったから……。……もし、よろしければ安室さんもどうぞ……」
「僕までいいんですか?」
「お時間が、合うようでしたら……当日、私は動けない、ので……梓が、ひとりになって、しまいますし……」
「なるほど。では梓さんのエスコートはお任せください」
芝居がかったように礼をしてくれる安室さんに小さく笑う。
舞台の関係者には癖の強い人も多い。梓ひとりで招くには少しだけ不安だったので、同行者がいるのは心強かった。
「ところで、その作曲家さんて?」
「羽賀、響輔さん……知ってる……?」
「……天才作曲家の?」
「有名人じゃないですか!」
驚いた声を上げる二人に、やっぱり有名な人なんだと改めて思う。
あの人に初めてお会いしたのはもう数か月前になる。随分親しくしてくださるけれど本当に私でよかったのかと今も思っている。
「そんなすごい人とコラボって……本当にすごいじゃない柚希!」
「うん……そう思う……何で私にオファーくださったのか……」
「しかも向こうからのオファーとは。見込まれているんですね」
「そう……なんでしょうけれど……」
羽賀さんはとても良い人だ。良い人なのだが、ただの「良い人」とは言いきれない事情があった。今まで誰にも相談できなかったが、梓になら話しても大丈夫だろうか。梓は絶対に馬鹿にしないで聞いてくれるし、安室さんも確か探偵が本業だという話を聞いている。秘密の多い仕事だ、きっと口も堅いだろう。
そして今、私以外にいた最後のお客さんがポアロを出た。少しくらいなら、話をしてもいいだろうか。
「……羽賀さんについて、ちょっと……」
「……えっ何、実は嫌なやつとか怖いやつとかそういう?」
「そ、そんなことはないの、とても良い人。良い人なんだけど……」
「……だけど?」
「……なんていうか……わ、らわないで、聞いてくれる……?」
もちろんと大きく頷く梓に、私は意を決して羽賀さんとの出会いから順に辿った。
*
あの人に初めてお会いしたのは、知り合いのプロデューサーさんの紹介だった。君に会ってみたいという人がいると言われて連れられた先にいたのが彼だ。
さすがに顔も名前も知っていた私はただただ目を丸くするしかできず、いつも以上に上手く話せなかったことを覚えている。
「初めまして、羽賀響輔です。いきなり呼び出してごめんね」
「い、いえ……あの、佐倉、柚希です……」
初めましてと小さな声で続けると、羽賀さんはひとつ瞬きをして、それから面白そうに笑った。
「君の演じた『ナイチンゲール』にはしびれたよ。それでつい君と会ってみたいなんて言ってしまったんだけど……舞台と普段は別人っていうのは本当みたいだね」
「す、すみませ……!」
「ああごめん、責めているつもりはないんだ、気にしないで楽にして。僕は今日、ナイチンゲールでなく佐倉柚希さんに会いに来たんだから」
にこにこと笑う羽賀さんは、特に失望している気配はない。それに少しほっとして頷くと、羽賀さんはまたにこりと笑って続けた。
「『ナイチンゲール』、好評を博して何度もリバイバル公演してるんだって?」
それはタイトルそのまま、私演じる「クリミアの天使」、フローレンス・ナイチンゲールが主役の舞台だ。彼女の人生にアレンジを加えたストーリー展開で、恥ずかしくも私の代表作という位置づけになっている。
「……おかげ、さまで。もう一度観たいと、……そう仰ってくださる方が多くて……本当に、有難い、です……」
「気持ちはわかるな。あんなに心をわしづかみにされる舞台、他にはないよ」
「こ、光栄、です……」
小陸軍省とも呼ばれた彼女は、誰を目の前にしても気丈、言うべきことははっきりと言う強い女性である。自分とは似ても似つかない彼女だからこそ芝居のしがいがあったし、私としても思い入れがある。それを評価されるのは本当に嬉しいことだった。
「僕は特にあのシーン、故郷を焼かれ復讐に燃える傷だらけの兵と、ナイチンゲールが真っ向から対立するシーンがあるだろう?」
「ああ……はい。あのシーンは……賛否両論あるみたいなんですが……ええ、とても……難しかったです」
「衝撃的だったよ。……とてもね」
ほんの少し憂いを含んだ笑みを見せた羽賀さんに、少し首をかしげる。ほとんど無意識に、それは口から零れ落ちた。
「……感情移入されましたか?」
彼か、彼女かの、どちらかに。
そう言うと、羽賀さんが少し驚いたようにひとつ瞬きをして、また笑みを濃くする。
不躾な質問だったのかもしれない。だけど、その時の羽賀さんの笑顔はどこか満足げだったような気がした。
*
それからまた少し話をしたが、羽賀さんときたら話し上手に聞き上手で会話が途切れない。話下手の私の言葉をしっかりと聞き、そのうえでちゃんと返事をくれる。本当に優しいというか、大人だと思う。
話し始めてそれなりの時間が経過したころ、羽賀さんはふと腕時計を見て言った。
「おっと、話し込んじゃったね。時間大丈夫?」
「あ……はい、大丈夫です」
「そっか。……もしよければ、食事でもどう? もう少し話したいな」
「え、……」
「あ、男と二人は事務所的にまずい?」
そんなことはありませんが、と戸惑いつつ返した。
私の所属している事務所は緩い方だし、そもそも私はアイドルではない。私生活についてはそれぞれで責任を持つことになっている。
「それなら付き合ってくれると嬉しいな。実は話に夢中になって、まだ本題の話をしていないんだ」
少し恥ずかしそうに言う羽賀さんに、瞬きをひとつ。そんな私に、羽賀さんもまた不思議そうな顔。
「あれ、プロデューサーから聞いてない? 君と一緒に仕事がしたいっていう話をしにきたんだよ」
「……初耳、です……」
「そっか、それならなおさら付き合ってほしいな。君のファンとしてはこうして話ができただけでも嬉しいけど、それだけで今日を終わらせたら完全な職権乱用になるからね」
おどけたように言う羽賀さんに思わず小さく噴き出すと、羽賀さんはふ、と嬉しそうに笑った。
「やっと笑った」
「、え……」
「君、最初から緊張しっぱなしでずっと硬い顔してたから。まあこんな年上の男にいきなり呼び出されて二人で話なんかさせられたら無理もないけど」
「そ、そんな……すみません、緊張しいなだけで、羽賀さんがどうとかでは……!」
「うん、わかってる。ただ嬉しかっただけだよ。きっと笑ったら可愛いんだろうって思ってたから。当たってたね」
お世辞だとわかっていても、ぶわりと顔が赤くなるのを感じた。本当に何というか、そう、手慣れた人だ。そしてそんな私を見ながらくつくつと笑っている。良い人である以上に、良い性格をしている人、の方が正しいのかもしれない。
「それで、付き合ってくれるかい? そうだな、静かな店の方がいいかな。いくつか美味い店を知ってるんだけど」
「……それなら、……はい」
仕事の話と言われれば退くわけにもいかない。マネージャーが同席していないのは不安だが、とりあえず内容だけでも聞いておかなければ。そう思って頷くと、羽賀さんは嬉しそうに笑った。
そこで連れられたお店で今回のコラボの話をもらい、さすがに話の大きさに驚いて及び腰になっていたところを、数日のうちに私の周囲に入念に根回しをされ、さらにまた何度か呼び出されてあの手この手で説得され、逃げ切れなくなった私は白旗を上げてしまったというわけだ。
「頷いてくれて嬉しいよ。これからよろしく」
「は、……はい……」
そう笑顔で握手を求められた時にはすでに疲労困憊。会話自体は楽しいけれど、上手いこと会話を羽賀さんの望む方向へ誘導されているのは感じていた。しかし、会話そのものが得意でない私にはそれに抗う術はなく。とにかく確信したのは、この人の人間性。確かに良い人だけれど腹黒い。
「ああ、また食事に誘ってもいいかな? 君のことをちゃんと知ったうえで曲を書きたいから」
疲れ切って思考能力が落ちていた私は、迂闊にも深く考えずにその言葉に頷いてしまった。これもしかしてダメなんじゃないかと気づいたのは、羽賀さんと連絡先を交換し終えてからのこと。
「これからよろしくね、佐倉さん」
にこりと意味深に微笑んだ羽賀さんを見て、少しだけ背筋が寒くなったのは気のせいだと思いたい。
*
「……それで?」
「押しの一手と言うか……勘違いだと思う暇もないほど押しに押されるというか……毎日のように連絡くださるし、食事の誘いも多くて……本当に距離感の上手な方だから、ストーカーとも思わないし迷惑ではないんだけれど……相手が相手なだけに……驚きとか困惑とか、そういうのが先に来てるというか……」
「柚希は全然そういうの経験ないしねえ……そこまでくると応援よりも心配になるかな。流されちゃだめだよ? 嫌なことは嫌だって言わなきゃ」
「そのあたり本当に上手な方で……会話も上手で気まずくなることもないし、夜は遅くなる前に送ってくれるし、送り先も家じゃなくて最寄りの駅だし、距離が近くなることもないし、上手いことお金割り振って私が気を遣わない程度に払わせてくれるし……」
うわー、と梓は驚き半分感心半分という感じで頷いた。
そう、絶対に私が嫌がることはしてこない。職業上いろんな人にお会いしてきたし、男性が近づいてくることも正直初めてではない。だが、これほど付き合い方が上手な人は本当に初めてだった。
「……むしろ誘いを断る理由を丁寧に潰されている感があるくらい……」
遠慮すらさせてくれないってどういうことだろう。
少し遠い目をしてそう言うと、梓も堅い笑みを浮かべていた。
「う、うーん……男性の意見としてどう思われますか安室さん」
「そこで僕に振りますか……」
口を挟まずに食器洗いをしていた安室さんは、洗った皿を布巾でぬぐいながら苦笑する。しっかり耳は傾けてはくれていたらしい。
「そうですね……聞いた感じ、羽賀さんは女性との交際が多いとかそういう話はないんでしょう?」
「はい……むしろ今まで避け続けてきたとか……」
モテる人なのに近づく女性は上手くかわし続け、浮いた話など全くなかったらしい。だからこそ周囲も完全に「羽賀さん応援モード」になっているのだ。冷やかしは本当に勘弁してほしい。
「ふむ。それならやっぱり、羽賀さんは本気なんでしょうね。あれほど有名な方です、お忙しいでしょうに、もう何か月も毎日のように連絡をくださってるわけでしょう? こう言ってはなんですが、遊びの相手にそこまで尽くす真似はしないと思いますね」
「確かに……」
食事中に仕事の電話が掛かってくることも珍しくはない。どれだけ忙しいの方なのかは察しているつもりだ。羽賀さんほどの方なら付き合いとして食事に誘われることも多いだろうに、それでも二週に一度は私に食事の誘いがある。さすがに遊ばれているとは考えにくかった。
「お話を聞いた限りですが、佐倉さんのことを大事にして心を開いてくれるのを待っているというのと、誘いを断られる理由を潰しているというのと、両方かなと」
「安室さんが言うと説得力が違う……!」
はははと硬い笑みを零す安室さんに目をやることなく、梓はずいっと私に身を乗り出した。
「柚希は嫌じゃないのね?」
「嫌……ではない、かな……丸め込まれてる気がするだけで」
「そこさえはっきりしているなら、もう少し交流を続けてみてもいいのでは? ただ佐倉さん、これは彼と同じ男としての忠告ですが」
安室さんがきりっとした顔を作って言うので、思わずさっと姿勢を正した。何でしょう、と身構える。
「佐倉さんの心が定まらないうちは、きっと強引なことはしてこないと思います。ですが、少しでも貴方の心が傾いてきたと悟った瞬間」
多分一切の遠慮はしませんよ。
その安室さんの言葉にすっと血の気が引くのを感じた。何故だか説得力がすごい。
「……肝に銘じます……」
「ええ、しっかり自分の身を守ってくださいね! もしストーカーになるようでしたらいつでもご連絡ください。本業で私立探偵をやっていますから、きっとお力になれると思います」
そう言って差し出された名刺を受け取り、ありがとうございますと頭を下げた。
お仕事の方も応援していますね、という言葉にもありがたく頷く。
「私も! どっちもまとめて応援してるからね、柚希! とりあえず舞台楽しみにしてるから!」
「うん……頑張るね……」
きゅっと私の両手を握ってくれた梓の手を私もそっと握り返し、できる限りの笑顔でそう答えた。