彼の名刺をもらってから数日後、とあるバーの個室で彼と向かい合っていた。一応酒と簡単な食事は頼んだが、まだ口はつけていない。酒が不味くなる話は食事の前に終わらせてしまおう。
「何から話すかな……まずは家族の話か。僕は今母方の姓を名乗っているけど、もともとは『設楽』という苗字でね」
「有名な音楽一家だそうですね。少し調べさせて頂きました」
簡単にですけれど続ける彼に、話が早くて助かると笑う。彼と会うのはこれで二回目だが、それでも安室くんがとても優秀な人だということは察していた。
「じゃあ、三十年前の事件のことも?」
「……はい」
少し間があったのは僕を気遣ってくれてのことだろう。あの事件によって父は亡くなり、母も父より先に看病疲れが祟って亡くなった。
あの、全ての元凶である忌まわしい事件。
「説明の手間が省けてありがたいよ。二年前に僕の叔母が亡くなったことは?」
「階段からの転落による事故死と記憶していますが」
「その通り。……その事故の原因は、僕だ」
彼は特に動揺は見せなかった。表情を変えないまま、視線で続きを促す。
いいね、と思わず口角が上がる。この反応だけで彼の有能さと冷静さがわかる。縁だけで選んだ探偵だが、やはり彼は信頼できそうだ。
「……叔母が亡くなった日、僕は叔父から銘器ストラディバリウスの調律を頼まれていてね。そのバイオリンに触れた瞬間、わかった」
あの音、あの感触。忘れるわけがなかった。
「あれは、父が僕に贈ってくれたバイオリンだ」
叔母を問い詰めればすべてを吐いてくれた。
三十年前のその日、伯父が父からストラディバリウスを借り、自分の息子に演奏をさせたこと。その音色に聞き惚れ、返すのが惜しくなってしまった伯父は、レプリカを父に渡したこと。すぐに見破られ、口論の末に父が階段を踏み外し重傷を負ってしまったこと。
「そして伯父は救急車も呼ばずに、その場にいた全員に言った。強盗に襲われたことにしようと。そうすればストラディバリウスをいつでも弾かせてやると」
「それで口裏を……それが強盗事件の真実ですか」
「ああ。その話をしてくれた叔母も、話の最中で階段から落ちて死んだよ。……叔母の死体を見たとき、これは神の啓示だと思った」
父と同じように階段から転落死した叔母。
母、千波から始めて、父、弾二郎、そして叔母、詠美。そしてこれから死ぬべき者のイニシャルを並べると、ちょうど音階の順になる。Cから始まり、Cで終わる。神が告げているのだと思った。殺せと。復讐を果たせと。
僕はその啓示に従い、復讐をしようと──ずっとそう思っていた。そう口にしても、安室くんは一切の動揺を見せない。
「……驚かないんだね」
「殺意を持っても無理のないご事情でしょう。そして貴方は『だった』と仰った」
今はもう、違うのでしょう?
凪いだ青い瞳に見つめられ、ふっと笑う。そう、あの時は神の啓示を受けたと思った。復讐を「しなければならない」のだと。本当にそう思い込み、準備をしていた。
僕の、女神を見つけるまでは。
「……安室くん、佐倉さんの『ナイチンゲール』、見たことは?」
「? いえ」
「機会があったら是非どうぞ。あんなに熱量のある舞台、そうないから」
突然の話題にぱちくりと彼は瞬きをひとつ。その表情に少し笑って、続けた。今でも脳裏に染み付いている、力強い炎のような彼女。
「故郷を焼かれた復讐に燃える兵士と、ナイチンゲールが衝突するシーンがあるんだ。傷だらけの身体をおして、それでも戦場に向かおうとする兵を、彼女が止める」
復讐に狂う兵士は止まらない。故郷を、家族を、友人を、思い出を踏みにじった奴らに苦しみを。その身の痛みなどもう感じてもいないのだろう、流れる血に構うことなく突き進もうとする。
その前に立ち塞がったのが彼女だった。
彼女は臆することなく彼に語りかけ、治療をするから戻れと言う。しかしやはり兵士には届かない。死んでも構わない、それで復讐が果たせるのならと兵は叫んだ。アンタに何がわかる、自分にはもうそれしかないんだと、力の限り慟哭した。それだけで見た者の心は抉られただろうに、こともあろうに彼女は、それをばっさりと切り捨てるのだ。
『知ったことですか! 私は戻れと言っているのです!』
兵も、その周囲の役柄も、観客も、そして僕も、呆然とせざるを得なかった。
知ったことかと、彼女は繰り返す。私はただ貴方の傷を癒すことのみを考えます、と。
『よろしいですか、ここに運び込まれた以上貴方は患者、私にとっては癒すべき対象。仮に患者自身が死を望んだとしても癒すのが私たちの使命であり誇りです。四の五の言わずにベッドにお戻りなさい、復讐でもなんでも、その傷が癒えてから果たせばよろしい!』
貴方の命の使い方を否定はしない、しかし私の命の使い方も否定をされては困ると、彼女はただ一喝した。
雷に打たれたような。胸を貫かれたような。あの衝撃を、何と表現すればいいのだろう。別に納得をしたわけではない。説得されたわけでもない。当然ながら僕に向かって言われた言葉でもなく、その台詞に感銘を受けたのかと言われればそれは違うと言わざるを得ない。ただ、彼女の放った、意味を含んだ音の塊に脳天を揺らされただけ。揺らされた脳が楽器となって音を奏で、その音律がまた脳に響いた──気がしただけだ。
あの感情を表現する言葉を、僕は知らない。
「……そのシーンが、そのときの彼女が、……『響いて』しまってね。……僕は多分、正気に戻った」
いや、別のものに狂わされたと言った方が正しいのかもしれない。苛烈で傲慢で誇り高い彼女の音に、心を奪われた。
そして役を演じた佐倉柚希という存在を知り、彼女が出た作品や関わった仕事を漁った。「ナイチンゲール」が彼女の一部に過ぎないことは他の作品を見ればわかる。それでも僕の、彼女への興味は尽きなかった。「ナイチンゲール」だけじゃない、佐倉柚希の奏でる全ての音が、僕を捕らえて離さなかった。
神の啓示だと信じて疑わなかった復讐よりも、彼女の音への渇望が勝る。
そんな自分に、絶望もした。父や母への想いは、あのストラディバリウスへの想いはそんなものだったのかと。それでも、止まらなかった。
彼女を想うと脳裏に響く音楽がある。彼女が奏でる、耳には聴こえない透明な音楽。その音に、僕はもう魅了されてしまった。
とうとうそれだけでは我慢できなくなって共演の話を持ち出した。以前からそういう舞台の案をもらっていたが、僕が曲を書きたくなるような俳優がいなくてストップしていたあの企画。
ちょうどいいと思った。彼女なら、僕の曲に負けない芝居をしてくれる。
「復讐をするよりも、彼女の存在(おと)を聴いていたくなってしまったんだ」
音楽に心を奪われると他が手につかなくなるのは、音楽家の性というものでね。
そう笑ってみせると、安室くんは少しだけ苦笑した。そこには何だろう、僅かな安堵と、何か言葉に出来ない感情があった気がした。少し、らしくない気もする。もっともらしくないと言えるほど、彼のことを知っているわけではないのだが。
「だけど、さすがに真実を知ってしまった以上は、何もしないわけにもいかない」
彼女への渇望に塗りつぶされているとはいえ、確かな憎しみと殺意はまだ僕の中にある。彼女の音を聴いていたいと望むのなら、これにけじめをつけなければならない。
「前置きが長くなってしまったね。君への依頼だが、三十年前の強盗事件が狂言であったという証拠が欲しい。もちろん立件できないのは承知の上だ。難しいのもわかっているが、どうにかならないだろうか」
僕がそう言うと彼は目を伏せ、さすがに確約は出来ませんがと前置きして言った。
「やってみましょう」
おや、と思った。今までの穏やかだが底を見せない音が変わった。覚悟と決意が滲み出る、硬質な音。これが彼の本来の音なのだろうか。
「……羽賀さん?」
「おっとすまない、何でもないんだ」
よろしく頼むよ。そう言って手を差し出す。交わされた握手は力強かった。
*
少しだけ久しぶりにお会いした羽賀さんは、やけに機嫌がよさそうだった。
久しぶりと言っても、いつもよりちょっと間が空いただけ。それでも「久しぶり」と感じてしまう辺り、どれだけこの人に馴染んでしまっているのだろうと少し呆れる。
「今日は少し良いところに行こうか」
「いいところ、ですか?」
「うん。……ひとつ、やるべきことが片付いてね。そのお祝いをしたいんだ、付き合ってくれないかい?」
大きな仕事でも片付いたのだろうか。申し訳ないことにいつもお店のチョイスは羽賀さんに任せてしまっている。お任せしますと一言言うと、あとで嫌は聞かないからね、と少し意地悪気に笑った。どういう意味かときょとんとしていたが、すぐにその理由を思い知る。
連れてこられたのは、超が付くほど高級なホテルのレストラン。詳しくない私ですら名前を知っている。予約が年単位で埋まっていて、有名シェフがコースを手掛けていると評判の。
「……は、羽賀さん」
「あとで嫌は聞かないって言っただろう? 大丈夫、個室を予約したからドレスコードも気にしなくていいよ」
「しかも個室……!」
いったいどんなツテを使って、いくら払えばそんなことが。
顔を青くした私を楽しそうに見ながら、相変わらず機嫌のいい羽賀さんが穏やかに入店を促す。今日はお祝いだから、細かいことは気にしないでと彼は言うが、さすがに気にせずにはいられない。
そんな私の顔を、羽賀さんが覗き込む。その近さにぴゃっと逃げようとすると、さっと腰に手を回されて完全に思考が停止した。
「逃げないで。今日は本当に特別なんだ。ね?」
頷かないと腰に回した腕を離してやらないよと、その笑顔が語っている。あ、これは逃げ道ないやつ。どれだけ逃げようとしても絶対に捕まるやつ。いつもならちゃんと距離を守り、決して触れてくることはないこの人が、まさか。
驚きながらも拒否をできないでいると、私を射貫く目が優しく細められる。
「あ、あの……?」
「……この距離でも、嫌がらないでくれるんだね」
「え……?」
まるで子どものように嬉しそうに笑う、私よりずっと大人のそのひと。ただただ顔が熱い。嫌がる嫌がらないでなく、とにかく恥ずかしい。まして人目のある所で、こんな、お願いだから離してほしい。そう思いつつも口がうまく動かない。
「ディナー、付き合ってくれるだろう?」
そうダメ押しされては、頷く以外に何ができただろうか。
そのまま個室に通され、値段を聞いたら卒倒するだろうコースを出される。恐る恐るフォークでそれを口に運ぶ。びっくりするほど美味しい。なにこれ美味しい。最初の躊躇を塗りつぶしてくれるような美味しい料理と、いつもより少しだけ機嫌よく、楽しそうに会話をしてくれる羽賀さんにすっかり私は流されてしまっていた。
いつもより度数の高いお酒に、気付きもしないほどに。
*
見込んだ以上に安室くんは優秀な探偵だった。
依頼してからひと月もしないうちに彼に呼び出され、報告書を渡される。そこにあったのはまさかの証言記録。三十年前に捜査に当たった警察官の一人の告発だった。
「警察に少々ツテがありましてね。当時の捜査の状況を調べてみたのですが、どうにも不可解だったんです。あまりにも、捜査が適当すぎる」
被害者の証言をただなぞるだけのような捜査に違和感を覚えたのだと、安室くんは書類を辿りながら説明をしてくれた。
当時の捜査の責任者は、この事件の随分あとにパワハラと収賄で問題になった人物らしい。とうに警察を去っていたため話を聞くことはできなかったが、その部下だった人物は今も警察官として働いていた。ツテを使い、その人物から証言を得ることができたのだという。
「まあその人物もパワハラで結果的に収賄の片棒を担がされていたそうなんですが。公にはなっていませんでしたが、この事件についても不正があったと証言を得ることができました。この事件の責任者は、被害者である設楽調一郎氏から賄賂を受け取っていたそうです。この『強盗事件』の捜査を、早期に打ち切らせるために」
「そんなことまでしていたのか……」
「調一郎氏の独断かもしれませんね。そのため深く踏み込んだ捜査が行われることもなく時効を迎えてしまったというわけです。捜査にあたった警察官の証言です、証拠としては十分かと思うのですが、いかがでしょう」
十分だ、とと報告書を封筒に戻した。別に公判で使えるような証拠が欲しかったわけではない。ある程度の説得力があればそれでいい。
「……踏み込んだことをお伺いしますが、これをどう使うおつもりですか?」
慎重にそう尋ねてきた安室くんに、苦笑を返す。
「復讐をするつもりはないよ。本当に。この事実を公にするつもりもない」
「では、何を?」
「……伝説の銘器は、相応しいものの手にあるべきだ。そう思わないかい?」
あんな欲深な者の手ではなく、もっと純粋な、音楽を愛する者の手へ。
あの伯父にいたっては自分が死んだら棺桶に入れろなどと言い出す始末。そんなことは絶対に許されない。本来の所有者が僕だとか、もはやそんな問題ではなかった。
あの銘器は、相応しい者の手で奏でられるべきなのだ。そこだけは音楽家として絶対譲れない。
「もちろん伯父たちにも、一時でも悪魔の囁きに耳を傾けてしまった僕にも、あの銘器には相応しくない。だけどたったひとりだけ、設楽家にもストラディバリウスを手にするに相応しい子がいる」
僕から見ればまだまだ子どもで、バイオリンの腕も粗削り。しかし彼女の音は澄みきっていて、温かで、きっとこれからもっともっと洗練されていく。
何より彼女の音はいつも高らかに歌っている。音楽が好きだと。愛していると。あれほど純粋な音を奏でられる彼女にこそ、伝説の銘器は相応しい。
「きっと父も、それを許してくれると思う」
父もまた、純粋に音楽を愛する音楽家だったから。この証拠は、そのために使う。
そう言うと安室くんは少し安心した顔をして、貴方がそれでいいと思うのならそうなのでしょう、と続けた。
「しかし脅迫罪にならないようにはお気をつけて」
「大丈夫、訴えたら痛い目を見るのは自分たちだからね」
そうにっこりと笑うと、安室くんは少しだけ困った顔をした。が、決して止めることも咎めることもなく。
「聞かなかったことにしますね」
ただそう言って肩をすくめて見せた。
*
執事の津曲さんを味方につけ、知り合いの弁護士を連れて彼らと話をしたのはつい先日のこと。
全ての事実を公にされたくなければ、ストラディバリウスの所有を姪の蓮希に譲れと。今後一切、あの銘器に触れるなと。そう言ったときの彼らの顔は、まさに醜悪だった。どれだけあのバイオリンに固執しているのか、まるで狂信者というに相応しい。……あまり、人のことは言えないか。
それでも何とか話をまとめ、念書を書かせ、津曲さんに彼らの監視を頼んだ。
姪が全てを知っている必要はない。彼女はただストラディバリウスを譲り受け、バイオリンの腕を磨き、それを奏で、そしてまた音楽を愛する誰かへ受け継いでいってくれればいい。銘器を譲り受けた姪はひたすらに恐縮し、喜んで、絶対にこれに相応しい音楽家になると宣言してくれた。きっとその言葉は現実となる。きっといつか、その銘器をもって素晴らしい音楽を奏でてくれるだろう。
これで、けじめをつけた。そう思うことにする。
すると途端に、彼女に会いたくなった。この件のせいで、しばらく彼女に会えていない。はやく顔が見たい。その声を聞きたい。彼女という存在に、触れたい。
──もう、いいだろうか。今まで結構かなり、我慢して遠慮していたけれど。けじめをつけた今なら、もっと彼女に近づいてもいいだろうか。彼女を欲しいと願ってもいいだろうか。
そんな殊勝なことを内心で呟いてみるが、そもそも僕と言うのは結構にずるくて欲深な人間なもので。
端から彼女を逃がしてやるつもりなど、毛頭ないのだ。
「……佐倉さん、大丈夫かい?」
「ん、……」
頬を赤くし、目をとろけさせた彼女は煽情的で美しい。彼女があまり酒に強くないのは知っていた。だからいつもはほろ酔い程度で終わるように、勧める酒にも量にも注意していたが今日は別。
レストランでディナーを楽しんだ後、同じホテルにあるバーに彼女をエスコートし、いくつかおすすめのカクテルをオーダーした。酒に詳しくない彼女は勧められるままにレディキラーを口にする。良くないな佐倉さん、いくら今まで手を出さなかったからって、狼の前で油断して酔ってしまうなんて。それだけ彼女の信頼を勝ち取れたことを喜びつつ、座りながらもゆらゆらと揺れる彼女の背を支える。
「……はがさん」
「何だい?」
「これ、つよいおさけじゃ、ないですか……?」
残念、気づくのが遅い。どうかなと軽くかわすと、彼女はむむむ、と少し眉間にしわをよせた。そんな表情も可愛く見える。もう末期だなと自分に苦笑するが、今更だとも思いなおした。
「……佐倉さん」
「はい……?」
「君はだいぶ、僕と一緒にいることに慣れてくれたよね。最初のころは怯えた兎みたいだったのに」
「……だって」
貴方も、貴方の音も、いつだって私を導いてくれたから。こんな、中身がからっぽの私を。
うわ言のようにつぶやいた彼女に、まばたきをひとつ。からっぽの私、と彼女は言った。芝居で役を演じるから自分に中身がないとでも言いたいのだろうか。ある意味彼女らしい、少し卑屈な言葉。
僕はひとつ笑って、答えた。
「からっぽか。だから君の存在はよく響くんだね」
「……え……?」
「楽器はたいてい、中身は空洞だよ。じゃないと音が響かないだろう?」
そう言うと彼女はひどく驚いたように目を丸くし、数秒硬直して、顔を綻ばせた。ひだまりのような、花のような、あたたかで、心から喜んでいるとわかる笑顔。
初めて見た表情に目を奪われる。脳裏に音楽が響く。何てやさしい、柔らかい音楽だろう。こんなに美しい音が、この世にあったなんて。
「……もっと聴きたいな」
そっと彼女の耳元に、口を寄せた。ありったけの気持ちを込めて、囁く。無理強いをしたいわけじゃない。どうか、彼女も望んでほしい。
「今夜はもう少し、一緒にいてくれないか……?」
上の階に、部屋をとってあるんだ。
彼女の耳が真っ赤なのは、酒のせいか、それとも。
*
やさしく頭をなでられる感触。丁寧で、あたたかで、心地がいい。このままずっと微睡んでいたい。そんな気持ちとは裏腹に、私の意識は浮上した。
そっと目を開けると、目の前にあったのはやさしい笑顔。
「……目が覚めたかい?」
柔らかい声に、鼓膜を揺らされる。音が耳から脳へと走り、はっとした。
見知らぬ柔らかいベッドの上で、隣には羽賀さんがいる。シーツにくるまれているから下はわからないけれど、少なくとも羽賀さんの上半身は露わになっていて。私もまた下着しか身に着けていない。
すうっと血の気が引く。バーに連れられて以降の記憶がない。そんなに飲んだつもりはなかった。涙すら滲んできた私に、羽賀さんは困ったような表情で口を開いた。
「……さすがに泣かれるのは辛いな」
遠慮がちに羽賀さんの指が目元をたどる。不思議なほどに違和感なく、私はその手を受け入れていた。私は、この手を知っている。言葉にできない感情が次々とあふれ出し、さらに視界がゆがんでいく。
「一応言い訳させてもらうと無理強いはしてないよ。遊びで手を出したつもりもない」
そうだろう、と思った。思ってしまった。きっと私はこの人を受け入れたのだろう。この人はそんな無理強いをする人ではない。そんな人ではないことくらいはわかっている。今まで見てきた彼の姿を偽りだとは思えなかった。
なのに私はいったい何を涙しているのだろう。どうしてこんなに苦しいの。私は何を悔いているの。
胸の痛みを少しずつ言葉に直す。彼が私の言葉を急かしたことは一度もなかった。
「え、……と、……」
「うん」
「……何も」
「ん?」
「何も、覚えていないのが……不誠実な、気がして、……ショック、です」
きっと、嫌なわけではないのだ。
だって、この人だから。私だって、流されてばかりだし、自己主張も全然できないけれど、それでも、そんなに安くはないのだ。
羽賀さんが相手でなければ絶対お酒だってそんなに飲まないし、酔っぱらったりなんてしない。それくらいの分別は、私にだってある。
ただ、本当に、何も覚えていないから。それが、ひどく、恥ずかしくて。
「……そう、それなら」
滲んだ視界でも、羽賀さんがにっこりと微笑んだのがわかった。え、と音にする暇もなく視界がぐるりと回る。いつのまにか私は真上を向いていて、見上げた先には隣にいたはずの彼の顔がある。
「意識がはっきりしてる今、もう一度しようか」
声にならない悲鳴が口から漏れる。羽賀さんはいつものようにくつくつと楽しそうに笑っていた。顔が燃えるように熱い。
「うん、今度は赤くなった。ということは嫌ではなかったと思っていいよね?」
「あ、あの」
「……最後まではしてないよ」
え、とまた羽賀さんを見る。ようやく視界がはっきりして、彼の顔がちゃんと見えるようになってきた。羽賀さんはいつもと同じ、優しい笑顔をこちらに向けている。
「君が初めてだって教えてくれたからね。それならやっぱり素面の時に合意でもらおうと思って、昨日は途中まで。……安心した?」
安心したというか何というか。感情をぐるぐると巡らせながら、わけもわからないままとりあえず頷く。そんな様子を見て、羽賀さんはまたくすりと笑った。
「……ね、佐倉さん」
「は、……い」
「ずるい手を使ってごめん」
君が好きなんだ。
そう言って下りてきた彼の言葉を、紡いだ唇を、私は自然に受け入れていた。
*
何というか、彼女に悪いことをしてしまったような気持ちになるのはなぜだろうか。
彼に報告書を渡してからしばらく、彼らは揃って喫茶ポアロに訪れていた。片や満面の笑み、片や真っ赤な顔をして、それも手を繋いで。
ああ上手くいったのかと安堵しつつも、これは佐倉さんがもたないのではないだろうかと心配にさえなる。人間の顔ってここまで赤くなれるのか。そんなことを思いながらカウンターに座った二人に珈琲を出す。
「うまくいったんですね」
「お陰様で。安室くんにも世話になったね」
「とんでもない。いい結果に終わったようで何よりです」
にこにこと機嫌良さそうに言う羽賀さんは、もうこちらが砂を吐きたくなるくらい嬉しそうな空気をまとっている。その横に座る彼女は未だ真っ赤な顔のままぷるぷると震えていて、もはや気の毒と言うほかなかった。未だに繋がれていた手が離される様子はなく、それをにまにまと見る彼女の幼馴染も助けてやる気は毛頭ないらしい。
「……あ、あの、手を……!」
「んー? 何かな?」
「ち、近いです……!」
ずいっと顔を寄せた羽賀さんに、ぱっと彼女は驚いて俯く。完全にいいように翻弄されている。そして羽賀さん、ものすごく楽しんでいる。できれば余所でやってもらえないだろうか、特別濃く淹れたブラックコーヒーが飲みたくて仕方がない。
「……これは、随分熱烈ですね」
「見ているこっちが恥ずかしいですよ~! 羽賀さん、柚希は初心なんですからね!」
完全に楽しんでいる梓さんに、羽賀さんも確信犯の笑みを浮かべつつ不思議そうな声を装って言った。
「これでも手加減しているんだけどな?」
「どこが、ですか……!」
「へえ、じゃあ本気を出そうか?」
そっと繋いでいた手を離し、その手で肩にまわされる。近づいた顔にごめんなさいやめてくださいごめんなさいと佐倉さんは繰り返し、それを羽賀さんはにこにこしながら見つめていた。真っ赤な顔で照れているから嫌がっていないのはわかるのだが、何というか、そう、容赦がない。
結果的にとはいえきっと羽賀さんに協力してしまった手前、何となく申し訳ない気持ちが募る。いや、彼に目をつけられてしまった時点で運がなかったのだろうとは思うけれど。もはや、言える言葉はこれしかない。
「……お幸せそうで、何よりです」
ありがとう、と彼は返し、彼女もまた、小さな声ではい、と返した。
彼女から返事があったことには驚いたが、つまり彼女もまた、ちゃんと幸せを感じているということで。
念のため彼の家族の様子をしばらく窺っていたが、彼は復讐を果たす様子もなく、彼の姪はもうすぐバイオリンのコンサートを控えていると噂を聞いている。それも、彼女に受け継がれたというとある銘器を演奏する予定だとか何とか。
復讐にとらわれた男が女神と出逢い、愛によって改心する。まるで舞台の脚本のようだが、どうやら現実でも有り得てしまうらしい。
「それではお祝いがわりにケーキでもご馳走しましょうか、梓さん」
「いいですね! すぐ用意します!」
どうか彼らのこの先に、ハッピーエンドがありますように。
心底幸せそうなこのふたりにこんな願いはむしろ無粋かなと、ひとり苦笑した。