ラストシーンを見て、観客は気づくだろう。
その温もりに触れられることが、どれだけ幸せなことなのか。
*
「次の舞台の予習かい?」
ひとりがけのソファで本を開いていると、その背もたれの後ろから声が飛んでくる。
いつまでもふたりでいることに慣れなかった私だけれど、最近ではようやくその声に慌てることなく笑顔を返せるようになっていた。首だけ振り返って、そのテノールの主に顔を向ける。
「はい。次の人魚姫、楽しみですね」
私がそう言うと、そうだね、と響輔さんも微笑みを返してくれた。
響輔さんとふたりでステージに立つ音楽劇は、有難くも好評を博して、シリーズのようにその都度モチーフの物語を変えて舞台を続けている。この次に挑戦するのは、アンデルセンの名作「人魚姫」だった。
「例によって人魚姫本人じゃなく、そのお姉さんを主役にもってくるなんてね」
この舞台が評判のいい理由のひとつに、その物語の主軸を変えるところにあった。例えば一番最初の舞台、「シンデレラ」ではあえてシンデレラの母、そして魔法使いを持ってくることで物語の印象を変えている。今回の「人魚姫」では、人魚姫の姉のひとりを主軸に据えていた。
「人魚姫のお姉さん、彼女もまた『人魚姫』なんでしょうけれど、彼女から見てもこの物語は辛いところがありますね」
「うん。むしろお姉さんから見たほうが悲劇性が強いよね。初恋に翻弄される妹を救おうと髪と引き換えに短剣を手に入れたのに、その刃は妹を貫いた」
きっと、嘆き悲しんだだろう。初めての恋を失うのは辛くとも、海の中でゆっくりと癒して、また柔らかな笑顔を見せてくれるようになると思っていたのに。自慢の髪と引き換えに手に入れた短剣で、まさか自らの胸を刺すなんて!
海の中で泡となった可愛い妹。結局消えることはなく風の精霊に生まれ変わったとは言っても、姉たちはそれを知っていたのだろうか。風の精霊はつまり空気の精霊、ならば海の底にいる姉たちに自分の存在を伝えることはできなかったのではないだろうか。姉たちは、わたくしは、妹が消えてしまったことを嘆き悲しんだのではないだろうか。
『──わたくしが渡した短刀で、あのこは胸を突いて消えてしまった』
その悔恨は、きっと海の底より深く、暗い。
『どうして、あのこにあんなものを渡してしまったのでしょう』
人魚の涙は、海の中でどう流れるのだろう。ともすればすぐに海に溶け込んで、涙を流すということさえ知らないかもしれない。
そんな人魚の哀しみは、いったいどこに流れ着くのか。
「…わたくしの、かわいいいもうと」
辺りが、水に包まれる。口元から泡が溢れ出て、嗚呼ここは海の中だ。押し流そうとする波に逆らって、尾びれを動かしその場に留まる。上も下もわからない世界のなか、光がある方に目を向ければ、そこにはまるで鯨のような。いいえ違う、あれは生命をもたないもの、陸上のヒトが船と呼ぶもの。あそこにわたくしたちの妹はいる。
短剣は渡した。さあ、帰っていらっしゃい。この海の世界、貴方を傷つけるものなど存在しない世界へ。
とぷん、と頬に波を感じる。嗚呼、帰ってきた、と頬が綻んだところで、気づく。
確かに飛び込んできたのは可愛い妹、けれどその胸には王子を貫いたはずの短剣。美しい鱗に覆われた尾びれは珊瑚色を取り戻すことなく、歪な二本の脚のまま。
『──どうして!』
手を伸ばす。泡に包まれる妹を、抱き締めようと。その身がほどけていくのを、引き止めようと。必死に泳いで、その腕を捉えたはずなのに、わたくしの腕は水をかいた。
泡となった妹は、微笑みだけを遺して、つぷりと消える。
「……はい、ストップ」
ぽん、と肩に置かれた手が、私を嘆きの海から引き上げた。はっと意識を戻して、ぱちぱちと瞬きをする。そんな私を見て、響輔さんは楽しそうに笑っていた。
「役に入り込むのはいいけど、まだ台本も来てないんだし、ほどほどにね?」
「あ、……そうですね、夢中になっちゃった」
「うん。……腕を伸ばしていたよ。可愛い妹を引き止めようとした?」
「ええ、でも…間に合いませんでした」
触れることさえ、叶わなかった。彼女の哀しみと嘆きが胸の中で渦巻く。そんな私を見て、ふうん、と響輔さんは少し首を傾げた。
「多分、間に合っても苦しかっただろうね」
「そう、ですか?」
「人魚姫は人間のままだ。だから体温があるだろう? でも多分、海の中で生きる人魚たちの体温は海水と同じ冷たさだ」
触れたらきっと、気づいてしまう。思い知らされてしまう、と響輔さんは続けた。
「ひとに恋をした妹が、もう自分たちと同じ『人魚』ではないということを。上手く言えないけど、……それはきっと、別離以上の絶望なんじゃないかって気がするよ」
ぱちり、と私の中で泡がひとつ弾けた気がした。
可愛い妹。愛する妹。人魚ではなくなってしまった妹。まったく別のいきものになってしまった妹。わたくしの、手の届かないところへ行ってしまった妹。
それを、触れることでまざまざと思い知らされる。それは、きっと。
「……つらいですね」
「だろう?」
「えっつらい……間に合っても間に合わなくてもつらい…もし本当に台本がこんな感じだったらどうしましょう……なんだかんだ今まで完全なハッピーエンドこそなくても完全なバッドエンドもなかったのに……」
救いのない舞台を、お客さんは喜んでくれるだろうか。少し不安になって響輔さんを見上げると、気にした様子もなく楽しげに微笑んでいた。
「いいじゃないか。バッドエンドならバッドエンドで、徹底して絶望的な、目を背けたくなるような舞台にしたいね。メロディを作るのが楽しみだよ」
そしてそっと私の髪に指を通し、そのままするりと頬を撫でた。その指先がわずかに唇を掠めて、小さく心臓が跳ねる。悪戯なその手と相反して、響輔さんの瞳はとろりと優しい。
「舞台が絶望的であるほど、観たひとはきっと思うよ。大切なひとが自分と同じ世界にいてくれるのは、本当に幸せなことなんだって」
触れて、同じ温もりをわけあえることが、どれほどに嬉しいことなのかって、とテノールの言の葉が波紋をつくる。
「きっと、大切なひとを抱きしめたくなる舞台になる」
そういうのも素敵だと思わないかい、と言った響輔さんの手は、ひどく温かかった。
趣味です。