かららんと鳴るベルの音にも慣れてきた。
迎えてくれるいらっしゃいませの声に会釈をすると、続けてこんにちは、の声が付け足される。
「佐倉さん、お久しぶりです。お話は伺っていますよ」
「あ、りがとうございます。あの、それじゃ先に、これを……」
「はい、確かに。……へえ、今度は『幸福な王子』ですか。ワイルドの名作ですね」
響輔さんと舞台に立つ音楽劇「MUSE」は、ありがたいことに今も新作を重ねている。今日はその新作のポスターをポアロに掲示してもらうべく、こうして届けに来たのだ。チケットが完売する程度には評価されている舞台だけれど、やっぱり普段あまり舞台を観に来ることのないようなひとたちにも知って欲しい。
快くOKをくださったポアロのマスターには本当に感謝している。
「次も……あの、頑張り、ますから、……よかったら安室さんも」
「いいんですか? 今やチケットの入手もなかなか困難と聞いていますけど」
「お時間、ありましたら……是非」
差し出したチケット入りの封筒を、ありがとうございます、と安室さんは嬉しそうに受け取ってくれた。機会を逸してチケットを渡せなかったときも、安室さんは個人的に舞台を観に来てくれていたと聞いている。探偵業もあってお忙しいだろうに、そうやってわざわざ足を運んでくれるその気持ちが嬉しかった。
楽しみにしていますね、という言葉に何とか笑顔を返したとき、ボックス席の方から思わずといった大きな声が聞こえてきた。
「今大注目の舞台女優の、佐倉柚希……‼」
「ちょ、ちょっと園子!」
高校生さんだろうか、確かこの近くの帝丹高校の制服だったと思う。茶色い髪をアップにした女の子がまっすぐにこちらを指さしている。
舞台ばかりでメディアに出ることの少ない私のことを知っているなんて、よほど情報通かそれとも芝居に興味があるのか。どちらにしろ、ありがたいことには変わりない。しどろもどろになりそうになるのを何とか押さえ込みながら、小さく礼をする。
「あ、ええと、はい、……佐倉、です……」
舞台女優のくせに口ごもってしまってごめんなさい、とそんなことを思う暇もなく距離を詰められ、両手を取られた。
「前の舞台、観に行ったんです、人魚姫の! めちゃくちゃ切なくって辛くて泣いちゃったけどすっごい良くて!」
「あ、……ありがとうございます……!」
この一つ前の舞台のテーマはアンデルセンの「人魚姫」。人魚姫の姉のひとりにスポットを当てて、それは徹底的なバッドエンドに仕立て上げた。客席で涙を流す人も多かったと聞いているけれど、彼女もそうだったのなら嬉しい。
興奮冷めやらぬ彼女にまあ落ち着いて、と安室さんが声をかける。
「佐倉さん、こちらよくポアロにも来てくれる鈴木園子さん。そちらの毛利蘭さんはこの上の毛利探偵事務所の毛利探偵の娘さんで」
「あ……眠りの小五郎の……」
「ええ、実は僕、毛利先生に弟子入りしてまして。それもあってこのポアロでアルバイトをしているんです」
そうだったんですか、と少し目を丸くした。実はそうなんです、と笑ってみせた安室さんは、今度は鈴木さんたちに顔を向ける。いつのまにか毛利さんも鈴木さんのそばに立っていた。
「そして改めて、舞台女優の佐倉柚希さんです。実は梓さんの学生時代からのご友人だそうで、たまにポアロにも来てくださるんですよ。今回は新作のポスターを持ってきてくださったんです」
「梓さんの!」
「そ、そうだったんだ……って、新作? MUSEの?」
見たい、という声に応えて、ぱさりと安室さんがポスターを広げる。今回のテーマはオスカー・ワイルドの名作「幸福な王子」だ。
「今回は『幸福な王子』なんだ! 今度は誰の役を……って、当日まで秘密よね、ごめんなさい!」
感情の賑やかな鈴木さんが目を輝かせる後ろで、毛利さんもひょっこりとポスターをのぞき込む。
「ごめんなさい、私知らなくて……童話をテーマにした舞台なんですか?」
「あ、はい……」
「ただの舞台じゃないのよ蘭、登場人物はひとりだけ、大道具も衣装もほぼナシ、あるのはバイオリンの音だけっていう音楽劇なんだから!」
「バイオリンだけ? あ、天才作曲家の羽賀響輔さんだ」
「そう! 佐倉さんと羽賀さんだけの舞台なの!」
私が口を挟む暇もなく、鈴木さんが舞台の魅力という魅力を紹介してくれた。舞台装置を最低限におさえて純粋な芝居だけで表現する役者泣かせの舞台、アドリブたっぷりの響輔さんの即興演奏、有名な古典童話から登場人物をひとりだけ抜き取って、その目線で物語を描き直すストーリー。
とても紹介上手な鈴木さんに、嬉しいを通り越して感心してしまう。きっとプレゼンとかそういうのが得意な子なのだろう。面白そう、と顔を輝かせる毛利さんに、でしょと満面の笑みで応えていた。
「あっごめんなさいご本人の前で興奮しちゃって……!」
「いいえ、……あの、本当に嬉しいです。ありがとう……」
観客の生の声を聞ける機会はなかなかない私にとっては、何よりも嬉しい言葉。ありがとうしかいえない自分を情けないと思いつつ、それでも鈴木さんも嬉しそうに笑ってくれた。
「次のも絶対チケット手に入れて観に行きますね!」
「あ、ええと……」
とても嬉しいのだけれど、果たして今回の舞台は無邪気な女子高生さんに見せて良いものなのか。初めて脚本を読んだときの衝撃がよみがえる。
「……ちょっと今回のは刺激が強いかも……」
「……えっ」
「あ、ええと、年齢制限があるような内容ではないのだけれど、何というか……」
ネタバレをせずにこの感覚を伝えるには、はてどう説明すれば良いのやら。
オスカー・ワイルドの名作「幸福な王子」は、よく自己犠牲の物語として解釈される。自我を持った王子様の像が、あちこちを飛び回るツバメを通して、自分の身体を彩る宝石や金を分け与えるストーリー。最後にはみすぼらしい姿になった王子像と南に渡る時期を逃して凍え死んでしまうツバメが残る。子ども向けと言うにはあまりに皮肉と哀愁のこもった作品だが、世界的に有名な寓話といえるだろう。
「……今回は、愛の話なの」
私が演じるのは、王子の願いを叶えて宝石や金箔を届けて回るツバメだ。舞台では無邪気で愛らしいキャラクターとして演じるのだが、その実なかなかに闇が深い。
だってこのツバメは、確かに王子の願い事を叶えているのだが、本当に「それだけ」なのだ。王子の声だけを聞いて貧しいひとびとに施しを運ぶ。それだけを聞けば、確かに美談なのかもしれないけれど。
街のシンボルだった王子像がみすぼらしくなっていくことを惜しむ声もきっとあっただろうに、どうしてそれを王子に伝えなかったのだろう?
両目のサファイアすら失って目の見えなくなった王子に、まだ貧しさで苦しんでいるひとがいることをどうしてさらに伝えるのだろう?
やさしい王子が嘆き悲しんでしまうと知っていながら、どうして王子の前で最期を迎えしまったのだろう?
王子のために心身を削ってその願いを叶えたように見えるツバメ。けれど、この舞台ではそれを利己的な愛として描く。
『だって、僕だけなんだよ、王子の声が聞こえるのは』
『だって、僕だけなんだよ、王子の願いを叶えられるのは!』
その像に王子の魂が宿っていることを知っているのはツバメだけ。身動きができない王子はその瞳すらも失って、ツバメがいなければ世界を知ることもできない。
『──僕が、王子の唯一。僕だけが、王子の傍らに在ることを許される』
『多くを救ったつもりでいる王子が、唯一救えなかった存在になれる。その足下で息絶えることで、王子の魂に自分の存在を刻みつけられる。嗚呼、なんて愉快で、なんて甘美な!』
『目が見えなくても、きっと僕の最期のキスは貴方に届いたよね? だってそのとき、貴方の鉛の心臓は真っ二つに割れてしまったんだから!』
このシーンに当てた響輔さんの音楽は、きっと観客の心を揺らすことだろう。緩やかで、華やかで、嬉しいのに哀しいような、陰鬱なのに爽快で。同じ舞台に立っていた私ですら、鳥肌がたった。透明で、純粋で、誰にも否定することを許さない、けれど聴く者を魅了してやまない、そんな音。
自然と「ツバメ」は、笑っていた。
『──僕たちのおかげで街のみんなは少しばかり救われて、街で一番尊いものとして王子の心臓と僕の身体を神に示した天使は褒められて、そして僕たちの魂は楽園で永遠を過ごすことを許された。ねえ、すごいと思わない?』
僕の愛が、みんなの幸せに繋がっている。
『──僕の愛は、間違っていなかったでしょう?』
さて、これを観た観客は何を思うのか。
思わず視線が斜め上を向く。私自身はとても面白いと思うし、良い舞台だという気概もある。けれど、きっと恋や愛に夢を見ている年頃の女の子たちには、少々刺激が強いというか、どういう感想を抱くのか不安があるというか、そんな気持ちがなくもない。
とはいえ、観客を選ぶような思い上がった舞台にも決してしたくはなかった。
私は、予備として持っていたチケットを二枚、彼女たちの前に差し出した。
「……よかったら、観に来て、ください」
楽しんでもらえるかわからないけれど、日常では味わえない世界を魅せるのが私たちの仕事。その世界に触れてどんな感想をもつのかは、それこそ観客の自由、役者がどうこういえることではないのだから。
「もしかしたら、ちょっと重い舞台かもしれないけど……あの、精一杯、やるので」
チケットを差し出した手が震えているのが自分でもわかる。その震えごと、きゅっと手を握られた。
「絶対観に行きます!」
「ありがとうございます! 楽しみ!」
その「愛」に触れた彼女たちがどんな感想をもつのか、できることなら聞いてみたい。無邪気な笑顔を見せる彼女たちを見て、そう思った。