家で女神が待っていると思うと、帰るのもこんなに嬉しいものなのだろうか。鼻歌でも歌ってしまいそうな気持ちを抑え、玄関のドアを開ける。端に揃えられた女性ものの靴に笑顔を零し、そっと靴を脱いだ。
静かに廊下を進み、彼女がいるであろうリビングにつながるドアを開ける。
「あ、……おかえりなさい」
「ただいま」
気づかなくてごめんなさい、とソファに座っていた彼女は本を閉じた。控えめに、けれど嬉しそうに笑ってくれる彼女に、僕も笑顔を返す。
最近ようやく僕の家にも慣れつつある彼女は、たまにこうして僕の帰りを迎えてくれる。このまま住んでくれたらいいのにという下心はそっと隠し、お茶でもと立ち上がりかけた彼女を制して隣に座った。
「本を読んでいたのかい?」
「あ、……はい。次の舞台の……」
彼女が読んでいたのは、「オペラ座の怪人」。次の僕とのコラボで題材にする予定の世界的な名作だ。前回の「シンデレラ」の好評を受け、今後もこのコラボはシリーズ化して続いていく予定だ。第二弾は「オペラ座の怪人」に決定しており、台本が上がるのを心待ちにしている状況だ。
「原作を読むなんて偉いな」
「もともと好きなんです……読み返していて」
「そういえば読書家だったね。僕もミュージカルは見たことあるんだけど」
ミュージカルも今度梓と観に行くんですよ、と柚希は嬉しそうに笑った。おや、そこは僕にエスコートさせてほしかったところだけれど。
「誰を演じるのかはもう聞いたのかい?」
「いえ、まだ……。定番はファントムなんでしょうけど……」
シンデレラではまさかのシンデレラの母、そして魔法使いを演じたのだから、きっと今回もメインの登場人物は外してくるだろう。
誰になるんでしょうね、と柚希も頭を傾ける。
「もちろんどの役でも頑張りますが……」
「ああ、君ならそうだろうね」
仕事に関して一切の手抜きをしない彼女なら、それこそファントムだろうがクリスティーヌだろうが、素晴らしい芝居を見せてくれるだろう。脚本の出来上がりが楽しみだねというと、彼女も無邪気に頷いた。
「誰に視点を合わせるかで、幸せな物語にも哀しい物語にもなりますから……どうなるのか楽しみです」
「確かにね。……柚希にとって、あれは哀しい物語?」
「どうしてわかったんですか?」
ぱちりと瞬きをする柚希に、ひとつ笑う。それくらい君の声を聞けばわかるよと言うと、僕の女神は少し恥ずかしそうにどもった。
「……『音楽の天使』には……報われてほしかったなって、少し……思います」
愛するクリスティーヌに音楽の指導を施したファントム。彼はクリスティーヌに「音楽の天使」と呼ばれていた。持っていた音楽の才能を惜しみなく彼女のために費やしたが、彼の愛は報われない。頬へのくちづけひとつで彼はクリスティーヌを手放し、クリスティーヌは幼馴染ラウルの手を取る。
「……僕は、あれでよかったと思うよ。ああ、報われるべきじゃなかったって意味ではなくて」
ファントムとクリスティーヌは、結ばれなくて良かったと思う。
どうしてと聞き返す柚希に、苦笑する。どこまでも純粋で穢れのない彼女にはわからないかもしれない。
「……ファントムは自分の手を血で汚してしまった。その手で愛する者に触れるわけにはいかないだろう?」
手に入れたその時だけは、それでいいかもしれない。けれど彼はその後、絶対に悩み苦しむだろう。自分が心の奥底から愛したもの、綺麗なもの、それにこの手で触れてよいのかと。罪の意識に苛まれ、血に染まった己の手を嘆き、きっと上手くはいかない。
「綺麗なものには綺麗なままでいてほしい。しかも、それができる人間はちゃんと別にいた。純真で無垢なクリスティーヌを愛していたからこそ、きっとファントムは耐えきれなかったと思うよ」
「なるほど……」
難しいですね、と柚希は少し目を伏せて相槌を打った。物語の中の登場人物に同情して思いを馳せているのだろうか。──隣にいるのは、僕なのに?
子どもじみた嫉妬心が顔を出し、つい彼女の肩に手が伸びる。一瞬で彼女の頬が赤く染まった。
「きょ、響輔さ、」
「まあ他の男のことはさておき、だ。……そろそろ僕を見てくれるかな?」
君に触れるために手を汚すことをやめた男が、ここにいるのだから。