小松田は眞穹が門扉と壁の内側に入ったのを確かめると、耳に装着している〔知覚同調装置〕へと指を近付ける。
スイッチと思われる部分に指先が触れると同時に独特な起動音が脳内に響き、同じく〔知覚同調装置〕を身に付けている全てのNPCに通信が接続される。
「皆様にお知らせします」
二度と戻らないと諦めてすらいた御主が遂に帰還したことで沸き上がった喜び、興奮、動揺、緊張、様々な感情が入り交じった心持ちで立ち竦みつつも、小松田はあくまでも冷静な態度を崩さずに次の言葉を伝える。
「ただいま、《やまとまほろば》の大王にして、“五十柱の諸御主”の頂たる“全ての御主”であらせられる聖宮眞穹日嗣様が、この《磯城心安明津大殿宮》にお帰りなさいました」
一切偽っていない。嘘は全く言っていない。己の目で見た事実を、己の耳で聞いた事実を、素直に述べただけ。
だからこそ小松田の言葉を疑う者など一人としておらず、今彼の耳には知覚同調越しにNPCたちの歓声が聞こえている。
《殿宮》のあらゆる場所にいるNPCたちは、“正門監視員”である小松田からの連絡を受け、皆一様に、そして須く歓喜していた。
2ヶ月以上も姿を隠し、二度と現れないとすら思っていた自らの主の最後の一人が、念願叶って遂にこの《殿宮》に帰って来たのだから、自然その歓びは大きいのだ。
「何か外が騒がしいな」
興奮と歓喜に満ちたNPCたちの叫び声は、東屋の会議室で今か今かとひたすら眞穹が姿を現すのを待っていたメンバーたちの耳にも届く。
その中で最初に席から立ち上がったのは、秋田犬そのものの頭と毛並みを持ち、ローマの闘剣士のような格好をした男性プレイヤー【きりたんぽ】である。
「気にすんなよ。NPCが騒いでる理由なんてどうでもいいし」
しかし、きりたんぽが会議室の扉に手をかける瞬間を見計らって愛善が声をかけ、彼の動きを止めた。外の様子が気になるきりたんぽにしてみれば、気にするな、どうでもいいという失礼な二言で邪魔をされるのは面白いことではない。
扉に向けていた顔を愛善の座る席に向け、頭で手を組む小生意気な少年を睨み付けながら答える。
「どうでもいいって思ってんなら人がする事に口を出す必要はないだろうが」
唇のない顎と顎の間から、短いながら鋭い牙が覗く。もちろん厄止も愛善の余りにも軽率な挑発に、呆れも軽蔑も隠さない視線を向ける。
「もし騒いでる理由が“ギルマスが帰って来てるから”だったら、あなた殺すわよ。今のうちに撤回なさいな」
光のないじっとりとした巨大な一つ目から放たれる禍々しい眼光で、【回】が愛善を牽制するかのように威嚇する。これには普段から傲岸不遜な愛善も、渋々ながら負けを認めるほかはなく、不満を吐き出すように大げさに溜め息を吐く。
EVSON-THWOEという決して狭くはないゲームのプレイヤーたちの中でも、最上位から数えた方が早い部類の実力者とはいえ、同格の手練れ三人を同時に相手取るのは厳しい。
しかも今回は厄止を相手に自分の財産まで賭けており、万一きりたんぽと回を巻き込んだ決闘に発展すれば只事では済まない。
これ以上事を荒立てないためにも、諦めて投了するしか選択肢はなかった。
「ったく……分ぁーったよ!オレの敗けだ!」
あわや一触即発の状況は、愛善が素直に負けを認めたことで無事未遂に終わる。愛善、厄止、回、きりたんぽの四人以外のメンバーたちは議論や雑談に夢中な者も多く、どうやら眼中にすらなかったようである。
「最後の最後までガキのままかよ……」
きりたんぽも緊張が解れたようで、大きく欠伸をしながら今度こそ会議室の扉を開け、東屋の外の庭園へと移動した。
そして人工池の畔にある石造りの鳥居と、漆喰の壁に囲まれた六角形の東屋がある中之島を結ぐ波のような曲線を描く橋から少し上を見れば、《殿宮》の中心にどっしりと鎮座する近代建築が見える。
(しかしいつ見ても凄ぇ)
昔眞穹から直接聞いた話によれば、あの建造物の外観は七歳の頃に思い付いたものらしい。それをオフラインモードで定期的な整備と増改築を欠かすことなく管理し続け、6年目にしてようやく現在の形に整ったという。
建築様式が全く違う多くの建造物が建ち並ぶ中、オンラインモードでプレイするようになってからも管理を怠っていなかった眞穹の技量には、一線を退いてしまっている今もなお脱帽の念を抱いている。
「きりた君、戻りなさい。まだ会議は終わってないわ」
欄干に肘をついて暫しぼんやりとしていると、後を追うように会議室から出てきたメンバーの一人に声をかけられる。何者かと思って振り返れば、赤目の兎の頭に鹿の角を生やし、低音の女声を持つ留袖姿のアバターが、蛇の目傘を日傘代わりに橋に立っている。
その人物の傍らに浮かぶステータス画面の名前欄には、【兎鹿呉藍】と表示されている。
「まあ待てよ。NPCが騒ぎながら警備から離れてるんだ、気にならない方が変だろ?」
きりたんぽは呉藍の注意には耳を貸さず、あくまで己の意見を主張して眞穹の帰還を待つ魂胆のようだ。欄干から肘を退けると、警備を任せていたはずのNPCたちが一人残らずいなくなっている東屋と中之島へ指を差しながら、呉藍の方を向いて答える。
しかし当の相手は指差された方向には一瞥もせず、呆れを含んだ態度でやれやれと頭を振り、視線を合わせるようにして続ける。
「今はNPCの心配をしている場合ではないわ」
傘を閉じて、きりたんぽに近付く。兎特有の丸い形の頭、長く伸びる耳と黒ずみが目立つ角、深紅の目に白い毛並み。いずれをとっても美しく、そして神秘的な顔が、お世辞にも逞しいとは言えない猟犬の顔に、息がかかるほどの位置まで距離を縮める。
「わたしたちが待つべきは眞穹君ただ一人。今日ここに彼が現れなければ、《やまとまほろば》は終わりなのよ」
艶を宿す口調と色を孕んだ眼差しを浴びせられ、きりたんぽは奥歯を噛む。意識を刈り取られそうな色気にあてられまいと視線を逸らそうとするが、呉藍の赤い目からは逃れられない。
このように魔性そのものな視線を浴びれば、もう諦めて彼女に従うしかない。
「ギルマスが心配なら、こんなことしてる暇なんてないはずだがな……」
悔しさを込めた声で半ば自棄気味に負け惜しみを吐き捨て、感情のままに目の前のメスの唇を奪った。