兎としての本能か本人の気質なのかも分からない呉藍の情欲の暴走を、眞穹ときりたんぽの二人が何とか抑えた後、気を取り直して中之島の東屋へと向かう。
対して情事が中途半端に終わった上、眞穹が自分の誘いに乗らなかったことが不服なのか、微かに怒気を纏う呉藍が、橋を渡る途中で意地悪げに問うて来る。
「眞穹君、現実で好い娘はできた?」
耳元へと口を近付け、聞くだけで溺れてしまいそうな程の艶かしさを込めた声で囁けば、眞穹の顔は火が点いたように赤く染まった。羞恥で硬直した体に鞭打ち、助け船を求めて振り返る。
が、頼みの綱であるきりたんぽは全く興味がなさそうな表情をし、あさっての方向を向いて口笛を吹いている。
「えっと……恋人は……まだいません……」
赤面したまま素直に答えれば、人差し指てつんつんと頬をつつきながら笑いかけてくる。
「あら、そうなの……」
この間にも東屋の扉へは近付いており、取っ手に手をかけたその時、呉藍が衝撃的な一言を囁いた。
「(なら……私の情夫になる気はないかしら)」
淫蕩極まるその言葉は、鼓膜から神経を通して脳へと至る。そして、その言葉の意味を理解すると同時に、後ろに立つ彼女に振り返り、
「変な事聞かないでよっ!」
眞穹は顔を耳まで真っ赤に染め、羞恥と怒気を込めて叫んだ。急に何を言い出すのかと思えば、それは自分の愛人になれという理解不能かつ猥褻極まる非常識な内容。根の部分は人並み以上に真面目で、倫理道徳もまともな部類の眞穹だからこそ、この態度を取る呉藍に怒鳴り返さずにはいられない。
付け加えるように性欲に忠実な姿勢や誰に対しても色目を見せることを躊躇しない態度を非難するが、当の呉藍はどこ吹く風とばかりに余裕のある態度を崩さない。
むしろ眞穹の方があることないことを喚き散らす、幼い子供の癇癪そのものな様子を見せているとさえ言える。呉藍にもまた彼の成人男子らしからぬ女顔を真っ赤に染め、中途半端な変わり具合の声で喚く様は滑稽に見えているらしく、やはりにこにこと余裕に満ちた笑顔のまま。
よく見ればあたかも母親のような眼差しで見つめているのも分かる。
「何をにやにやしてっ……!?」
一向に笑い顔を変える様子を見せない彼女に違和感を感じ取ったその時、再び呉藍の囁きが耳を襲った。
「(養子に貰っちゃいましょう、なんて言ったら貴方はどうするの?)」
言い聞かせるような発言に反してあまりにもめちゃくちゃな内容に、最早何も返せない。見かねたきりたんぽが眞穹の肩に手を置き、慰めにもならない一言を告げる。
「ギルマス、聞こえたろ?もう諦めろ」
アクシデントがあったものの、今度こそ三人が会議室に入ると、席に着いて静かに待っている者、そわそわと歩き回っている者、気の合う者と遊んだり昼寝をしている者など、メンバー各々が違う形で自分たちのリーダーの帰還を待っている。
だが当の眞穹がログインしていることを自分でメンバーたちに連絡していないことに加え、そもそも外の様子を気にしてすらもいないようで、扉が開けられる音にも三人が入室する足音にも誰一人として気付いていない。
(みんな……本当にごめん)
この人望の無さも自分の責任だと肩を落としながら心の中で謝罪し、背後に立つ二人に見送られるようにゆっくりと足を踏み出す。足音は、しない。
「ん?」
しかし、有り余る気配に最初に気付いて振り向いたのは、金と銀の装飾が目立つ藍色の軍服を着込んで聖書を読んでいた金髪の男。ステータス画面の名前欄には【ユングヴィ】と書かれている。眉ひとつ動かさず会議室の奥の方へ進む眞穹の姿、そして部屋の扉を挟むように佇むきりたんぽと呉藍を見て、ユングヴィはふっと笑い聖書に栞を挟む。
ギルドマスターの帰還に気付かないまま喧騒が続く中、閉じた聖書をテーブルに置いて椅子に座り、足を組む。
「……ずっと待ってた」
わざとらしく呟き、軍帽を脱いで再び立ち上がる。彼の視線の先には、賭けを止めてすぐ愛善が挑発し、厄止と睨み合って言い争うのを諌めるアグオスが立っている。
そして、争う二人の頭を押さえつけて止めようとしていたアグオスも、ユングヴィが手旗信号の要領で帽子を振るのを目にしてやっと気付いた。歓喜のあまり居ても立ってもいられず、思わず力いっぱい両腕を伸ばして愛善と厄止の顔を押し潰す勢いでテーブルに叩きつけ、大声をあげる。
「皆静かに!静粛に!日嗣が……」
その口から飛び出した“日嗣”の名前に、六人を除く場の全員が動きを止めてアグオスを注視した。
ヴラグツェンに視線を向けなかった六人は、扉の両脇に立つきりたんぽと呉藍、眞穹の存在に気付いてアグオスに伝えたユングヴィ、アグオスの掌とテーブルに顔を押し潰され、鼻の軟骨と前歯が折られて呼吸が儘ならない状態でもがき続ける愛善と厄止、そしてテーブルに足を投げ出し背もたれに全身を預けて眠りこけている秋冬である。
その時と場をわきまえもしない暢気な態度に舌打ちをしつつ、二人の頭に置く腕と手に更に力を込めて体重をかけながら、かなり興奮した様子で叫ぶ。
「たった今、日嗣さんが帰って来た!」
愛善と厄止の顔から吹き出した血でテーブルが汚れるのも構わず、会議室が揺れそうな程の力を喉に込めて声を響かせた。待ち望んだ人物が帰って来た、という宣言に部屋はしんと静まりかえり、46人の視線は部屋の奥に据え付けられている一際大きな椅子へと移される。
見れば白髪混じりの黒髪を綺麗に整え、白を基調として銀色と紫色の刺繍が施されているゆったりと余裕のある衣袋を纏う男が、緊張した面持ちで椅子の前に立っている。
彼はまず自分の発言を待つメンバーたちを無視し、アグオスの方に注意を向けて申し訳なさそうな声色で告げる。
「……あの、アグオスさん……手を退けてあげて。二人ともゲームオーバーになっちゃうから」
はっとした顔で手元へと視線を落とせば、何とか自分の手から逃れようとテーブルに手を着き、頭を持ち上げようともがき続ける愛善と厄止の血が飛び散っている。
それを目の当たりにしたギルドメンバーの引きつった表情を他所に、アグオスは呆れたように溜め息を吐く。そして両手の力を緩めて二人を解放すれば、可哀想なことに二人の顔は鼻先から醜悪に潰れ、前歯も折れている上に頬と額、そして顎に青痣までできていた。
「……ひっとくふるはほおほっは……」
愛善は鼻から血をぼたぼたと滴しながら涙目で呟く。厄止は意識が朦朧としているらしく、何も言わない。
二人のステータス画面には[状態異常:負傷\出血・流血・骨折・打撲]と表示され、HPの数値も減少しており、痛々しい状態の顔面と相まって更に恐ろしげに見える。
「……えっ……と……」
だがメンバーたちの視線はぼろぼろになった二人から外され、会議室の奥に立つ眞穹へと向け直される。その場の47人に再び注視されて手に汗を握りながらも、何とか緊張を解して心《こころ》を落ち着けようと、深呼吸を繰り返して意識を集中する。
不安が蘇る。非難、拒絶、侮蔑、罵詈、否定、嘲笑、迫害、暴行、目の前のプレイヤーたちがあらゆる最悪を纏い自分を襲う未来を幻視し、拳を握る力がより強くなる。
「…………スゥー…………」
だからこそ、これから発する言葉が第一歩となる。かつて仲間だった者たちと、残り十と三、四時間というとても短い時間ながら、もう一度仲間の輪の中に立つための要。
「…………長い間、留守を押し付けてごめんなさい。今、帰りました」
それは頭を深々と下げての謝罪だった。二言という短い言葉だが、これ以上の謝罪を思い付かなかったが故である。
眞穹の謝罪には誰も答えない。眞穹も顔を上げようとしない。一同が沈黙したまま、静寂な時間だけが過ぎ去る。
「……眞穹」
やがて、ユングヴィが帽子を被り直し、軽く頭を下げる。それを合図に、遂にメンバー48人が声を出した。
ただ一言、「おかえりなさい」と。