夢精によって汚れた体を清め、風呂を出てから少し時間が経ち、時計が指す時刻は午後3時。日嗣は今、遅い昼餉を終えて胎場を設置してある部屋におり、やはり薄暗い中で本体の掃除をしていた。
今日この日になるまでのおよそ3ヶ月もの間、全く見向きもしていなかったため、部屋中そこかしこにたまった埃を少し被っている。それを水で濡らした布巾で丁寧に拭きながら、つい数時間前の出来事を思い出す。
「…………みんな、元気そうでよかった」
ギルドホームにして自分の城である《磯城心安明津大殿宮》。その場所はその存在を奪われることも失うこともなく、未だに完璧な形で健在していた。
そしてギルド《やまとまほろば》のメンバーたち。形だけの仲間として薄っぺらい名簿に名を列ねる50名全員が、ただの一人として欠けることなくあの場で自分を信じて帰りを待ってくれていた。
今胸中に広がるのは、疑いようのない純粋な嬉しさである。実に喜ばしいこと果てしなく、実に幸いなること限りない、至福の感情が心中の一切を満たし尽くし、日嗣の心中を明々と照らしている。
(特にカヤメ…………違う、茅芽ちゃんには改めて感謝しなくちゃ……)
感謝と言うのは何も童貞卒業の相手という意味ではなく、現実で自分が生きていたことを認知し、それを周知してくれたこと。EVSON-THWOEのプレイヤーの中に現実世界で面識のある人物など一人としておらず、外見をほとんど変えていないとはいえ一目見ただけでは同一人物だと気付けないほどに、ゲームの眞穹と現実の日嗣とでは纏っている雰囲気が全く違う。
今ここで棺のような形をしたゲーム機を掃除している日嗣は、顔から腰にかけての上半身に多くの痣と傷痕が残る幸の薄い印象で、平均的な身長である割には細すぎる体型である。
更に中性的という言葉すら無関係な女顔に、目元の隈や血色の悪く弱々しい陰鬱な表情も重なり、完全にDVの被害者そのものな容姿をしている。
ゲーム中ではアバターのキャラメイク機能で容姿を設定できるため、外観をそのままに顔回りの肌色を変え、全身の傷・痣を消して一応は健康な見た目にしているため、現実・ゲームの両者が上半身裸で並んで立てば当然違いはすぐに分かる。
「よし……次は部屋全体の掃除っと」
手を上に上げて背中を伸ばし、凝った体が少し軟らかくなるのを確かめると、埃まみれの布巾を水入りのバケツに放りこんだ。
ぽちゃん、という音が部屋に広がると、日嗣の目の力が弱まり、項垂れてその場に座り込む。
(…………寂しい……)
隣に置かれている胎場の蓋を軽く撫でながら、寂しさ、哀しさを背負ったような目付きで少し欠伸をし、再び立ち上がる。
(やっぱり、あの世界は……)
汚れきった水が湛えられたバケツを片手で持ち、肩と腕を震わせてよろけながら部屋の扉を開く。日当たりのいい南側の窓から入る暖かな日光が照らす廊下は、むき出しの床板をきらきらと輝かせて眩しくも感じる。
(ESOは……なくさないで欲しいな……)
しかし、日光の温もりに身を包まれてなおその表情には悲哀が宿っている。それこそ光あるところに影あり、己こそ不幸なる者と言わんばかりの暗い目で、埃で濁りきったバケツの水を見下ろしている。
思い出、憩い、自由、冒険、友情など、少なくとも日嗣という男が現実の世界で得られないものの多くは、EVSON-THWOEというゲームを通じて手に入れていた。
元を辿れば「周囲の人間がもたらす理不尽から逃れ、安全に過ごせる場所が欲しい」という安直な理由から始めたが、すぐゲームの素晴らしさに感化されて暇さえあれば没頭するようになって行き、現在に至る。
このゲームが永久に失われることを惜しみ恐れているのも、ただの逃げ場、ストレスの捌け口とするつもりであったのが、ゲームの楽しさに心を奪われたから。そして14年にもなる長い時間で得たものが、かけがえのない宝であることに気付いたからだ。
(……僕もまだまだ子供だな)
顔を横に振って意識を向ける方角を変えると、床に下ろしていたバケツの持ち手を握りなおし、階段を下りて風呂場へと向かった。
時間が経過し、すっかり日が沈み、弓形の細い朔月が南の空の頂に昇る頃。夕食と入浴を終えてパジャマに着替えた日嗣は、昨日書き損ねた小説に文章を書き綴っている。
素人なりに推敲を重ね、手元にある辞書にも頼りつつ、ひたすら文章を創作している様は、試験に向けて必死にノートに向かう学生とはまた違う印象だ。
そして、推敲の結果できた最後の一文が以下のものである。
“八千代八千歳の悠かなる刻、其の千万の御霊安んずるべし。然れば御主の御力の原成りて、此れ御神の御意に候うぞ”。
「……ダメだ……やっぱり古文は難しいや」
誰が読んでも文章として成立していないと分かる出来であるが、もう修正や添削をする気力は残っていない。溜め息を一つ、大きく長く諦めたように息を吐き、タブレット端末の画面を操作する。
「最終話投稿完了っと……」
画面の表示を確認し、端末の電源を切って机に置き、寝室出入口にある電灯のスイッチを切り、一階の全ての部屋の電灯が明かりを灯していないことを確かめると、階段を上がって胎場を置いている部屋へと足を進める。
今朝とは違い、ついさっきまでの落胆した様子とは違い、その足取りは軽い。当たり前だ。仲間たちと会えた。仲間が皆己のわがままを赦してくれた。誰一人として己を見限らずにあの《殿宮》で帰りを待っていてくれた。
彼らとまた会えるのが、会って話をすることができるのが嬉しいのだ。もう、ただの一つとして不安などない。
(待ってて。すぐに会いに行くから)
日嗣は少し勢いをつけ、部屋の扉を開く。仮想の世界ではあるが、自分の人生の支えであったゲームの、その最後の瞬間を、最後の時間を、永遠の決別を、仲間たちと共有するために。
深呼吸とともに、開けた扉を閉める。バタンという音だけが、遮るものない月明かりが照らす廊下へ響く。