※この作品はR-18です。

(仮題)サ終から始まる人間関係   作:御代川辰

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No.00-2.1B 11月25日

  時刻は午前7時40分。珍しく出勤時刻が一般的な企業の始業時刻と同程度の時間帯になった今日(きょう)も、数百人の社員たちがストレスでやつれきった、それこそ化粧こそが不健康のもとになりそうなほどに疲(つか)れきった顔を、微塵(みじん)たりとも隠(かく)すことなく重い足取りで出勤して来る。

 

 彼ら彼女らが進む先のビルのエントランスでは、入り口近くの社員証読み取り機の近くに立ち、これまた疲労困憊(ひろうこんぱい)とした表情(かお)でぼんやりと立つ髭面(ひげづら)の男の前に、日嗣(ひつぎ)はその姿を現(あらわ)した。

 

「おはようございます、佐藤(さとう)さん」

 

 微笑(ほほえ)みながら短(みじか)く挨拶をして読み取り機に社員証をかざし、親(した)しげに手を振って注意を煽(あお)る。朝っぱらから煙草(たばこ)を蒸(ふ)かして現実逃避をしていた佐藤は、俯(うつむ)く自分にかけられた声の主(ぬし)を視界に捉(とら)えた途端、驚愕に染まった面持(おもも)ちで一歩後退(あとずさ)る。

 

「ごほっ!お、おう、げほっ!ふぅ……磐櫻(いわざくら)か……」

 

 開(ひら)いた口から落ちそうになる煙草(たばこ)を慌(あわ)てて指で支(ささ)え、口と肺に残(のこ)ったままの煙(けむり)を咳(せ)き込みながら吐(は)き出すと、手に持った煙草(たばこ)をもう一度口に咥(くわ)えて挨拶に答(こた)える。

 

 日嗣(ひつぎ)もまだ眠気(ねむけ)が取れきっていない目を擦(こす)りつつ、指先に付いた目脂(めやに)をハンカチで落としながらもう一度挨拶を返(かえ)す。佐藤は咳(せき)も落ち着き、気を取り直して煙草(たばこ)を吸いながら、目の前の男へと問(と)いかける。

 

「どうだった、昨日(きのう)の休みは。しっかり休めたか?」

 

 このような質問をする理由は純粋で、ここ3ヶ月間一日たりとも休暇がなかった日嗣(ひつぎ)がやっと取った有給休暇を、きちんと休息に使えたのかを知りたいがためで特別な他意はない。

 

 むしろ佐藤としてはそもそも他人のすることに興味がない。この質問も全(まった)くの気まぐれで、なんとなく話題に振ってみただけである。周囲の他の社員は早足で自分の属する部署がある階を目指し、エレベーターへと急(いそ)いでいる。

 

 だと言うのに、今(いま)は煙草(たばこ)を口に業務とは全(まった)く関(かかわ)りのない、赤の他人の休暇という話題で雑談をしようとしているように見える。そう、しようとしているように見えるだけで、実際は全(まった)く違うことをしようとしている。

 

 目の前で見せつけるような笑顔を浮かべる男女(おとこおんな)を何とか遠(とお)ざけようと、何かしら話題を振ろうとした結果こうなっているのだ。

 

(ったく……昨日(きのう)一日で何があったってんだ?)

 

 不自然にもほどがある、と佐藤は頭を掻いて溜め息を吐(つ)き、煙(けむり)を靡(なび)かせて歩き出すが、日嗣(ひつぎ)からの答(こた)えはまだない。

 

 ふと後ろを振り替えれば、先ほどまでの満面の笑みが嘘(うそ)のように興味のなさそうな無表情に変わっており、自分を追い抜いて足早に階段へと向(む)かって行く。

 

 心底(しんそこ)呆(あき)れてもう一度大きく、わざとらしく息を吐(は)くと、煙草(たばこ)の火を消して携帯灰皿につっこみ、エレベーターへと足を進めた。

 

(今回の企画通すの、お前の部署だろうが)

 

 

 

 

 

 

 時間は進み、午後14時。午前7時ちょうどから勤務を始めて5時間が経過し、日にわずか20分というごく短い昼休憩の時間を迎(むか)えた社屋ビルの狭(せま)い一室に、実に200人にも届く数のスーツ姿の男女が芋を洗うように犇(ひし)めいていた。

 

 その喧騒ぶりたるや常軌を逸しているの一言。部屋全体の構造がおかしいため、社員の声や足音が余りにもうるさく響(ひび)く所以(せい)で、目の前で人が叫ぶ声すらかき消され、何を言っているのか全(まった)く分からないほどである。

 

 その中でノートパソコンを遠ざけて両耳のイヤホンを外(はず)した日嗣(ひつぎ)は、自分の席の隣(となり)に座り苛立ちと興奮の狭間(はざま)に精神を漂(ただよ)わせながら携帯電話をいじる同僚の目の前に、薄いファイルに納めたプリント用紙30枚もの文書を力(ちから)を込めて置く。

 

 ファイルの表紙には《次回作品初期資料》と書かれている。

 

「はい、岡田(おかだ)さん。忘れる前に……」

 

 目の隈(くま)は今朝(けさ)より一段と黒くなってはいるものの、声は普段より元気で大きく、自信に満ち溢(あふ)れているかのようでもある。周囲の同僚たちも、妙に明るく振る舞う日嗣(ひつぎ)の様子に驚(おどろ)きを隠(かく)せず、ひそひそと噂話をする者もちらほらと見える。

 

 だが、自分に集まる視線を全(まった)く気にする素振(そぶ)りを見せず、むしろ自分の心身の状態を見せつけるように体の動きは大きい。心(こころ)なしか、その女顔(おんながお)から作り出される笑顔は、岡田と呼ばれた男が思わず見惚(みほ)れてしまうほどの妖艶(ようえん)さをも醸(かも)し出している。

 

(一体なんだ?急に人が変わったみたいになって……)

 

 パソコンを閉(と)じないまま席を立ち、人でごった返(がえ)す部屋の通路を流れるように進めば、彼の姿はあれよあれよと言う間(ま)に入り口に立っており、その入り口を開(あ)けるとすぐに外(そと)の廊下へと出て行く。

 

 そもそも今朝(けさ)から様子がおかしい、と岡田が気付いたのがこの時である。もともと必要以上の厚着(あつぎ)をしていたのが、急に周囲の人間と変わらない服装で出勤してきたり、おどおどと人目を避(さ)けるように隅(すみ)や端(はじ)を猫背で歩いていたのが一昨日(おととい)までの磐櫻(いわざくら)日嗣(ひつぎ)という人物。

 

 だが今日(きょう)は先日までの彼からは想像もできないほどに堂々とした立ち振舞(ふるま)いをし、目に付いた社員らに積極的に声をかけ、愛想笑いさえもなくなっている。

 

 変化がないと言えるのは、敬語口調と顔の痣(あざ)、そして黒い髪に交じっている白髪(しらが)ぐらいのものだろう。

 余りにも気になってしまい、岡田は何が彼を、何が日嗣(ひつぎ)をここまで変えたのかの考察(こうさつ)を始めた。

 

(一体全体どうしたってんだ……相当なことがないとあれほど変わらないぞ……)

 

 休憩時間の期限が刻一刻と迫(せま)る中、裸体をさらけ出す少女の口から罵語が発せられる……という成年漫画の一場面が表示されている携帯電話を片手に、わりかし真面目(まじめ)に悩み続けること数分。

 

(まさか彼女(オンナ)ができたのか?あんな女っ気(け)のないあいつに彼女(オンナ)が!?)

 

 この考(かんが)えに至(いた)って目を見開(みひら)くと同時に、携帯電話の画面が消える。そして、噂(うわさ)をすれば影。不意に肩を叩かれて体が固まり、立て付けの悪(わる)い扉(とびら)のようにぎこちなく首を動かせば、そこには危惧した通り日嗣(ひつぎ)が帰って来ていた。

 

「お待たせしました。明日のプレゼンの資料原稿です」

 

 手に持つ資料を隣(となり)の席のファイルの上に置き、また席に戻ってイヤホンを耳に着け、短(みじか)い休憩時間の楽しみである音楽鑑賞の続きを始める。岡田はその様子を見つめながら、未(いま)だに信じられないという表情のままで思考を巡(めぐ)らせる。

 

(いやいやいやいや!あり得ねぇ!)

 

 千極(せんごく)を母数としても、その子数も千極(せんごく)にもなる零の一番最後に一(いち)が一(ひと)つ、しめて一千極(いっせんごく)分のまた一千極一(いっせんごくいち)分の一(いち)になるほどにあり得ないと確信している。

 

 この岡田という男、日嗣(ひつぎ)が情婦を手に入れるのは天文学的などという次元ではない極極(ごくごく)超低確率である。このように手前勝手に思い込んでいたようで、またどういう訳か彼が本当に恋人を手に入れたことを、振る舞いだけで勘づいたようだ。

 

 と、ここまで岡田という単発即席の登場人物を長々(ながなが)と紹介したが、つくづく才覚の扱(あつか)い方がおかしい人物である。

 

(畜生(ちくしょう)分からねぇ!彼女(オンナ)ができたことは解(わか)るのにこれ以外が全っ然見当(けんとう)つかねぇ!)

 

 人目も憚(はばか)らず一人頭を抱えるが部屋の時計を見るとあっさりと諦(あきら)め、残(のこ)り3分となった極(きわ)めて短(みじか)い休憩時間を使い成年漫画の続きを読むべく携帯電話の画面を点(つ)ける。

 

 日嗣(ひつぎ)はその様子に全(まった)く興味を示(しめ)すことなく、音楽を聴(き)きながらノートパソコンのキーボードに手を伸ばした。

 

 

 

 

 

『現時刻9時50分、退勤完了しました。約束の駅で待っていてください』

 

 その後、日嗣(ひつぎ)は普段通りの業務を普段以上のモチベーションを源(もと)とする非常に高いペースでこなし、気付けば期限が三日(みっか)も先の業務を二(ふた)つ、期限六日(むいか)先の業務を一つ終わらせてしまい、珍しく10時手前の時刻で退勤することができた。

 

 先日の望(のぞ)みは今日(きょう)の約束とばかりに、茅芽(かやめ)ただ一人を想(おも)って張り切った末(すえ)に結(むす)んだ実(み)であるから当然ではある。

 

 ビルの外(そと)に出れば、既(すで)に日は沈んで空には繊月(せんげつ)が見えており、目の前の街を見れば帰宅ラッシュを過ぎて人通りが疎(まば)らになっているのがよく分かる。

 

 と、景色に見とれていると、鞄(かばん)の中の携帯電話が振動する。先ほどのメールに返信が来たようで、この事実だけで日嗣(ひつぎ)の心拍数が少し上昇した。

 

(……間(ま)に合わなくなる)

 

 コートの前ボタンをしっかりと閉(し)め、早足で歩きながら鞄(かばん)を漁(あさ)り、携帯電話を取り出してメールアプリを開(ひら)く。返信の内容は『須平(すびら)駅にいます。急いでくださいね』という短(みじか)いものだが、自分を待ちわびていることがよく分かる。

 

 携帯電話をもう一度鞄(かばん)に納めると、しっかりと手に持ち小走りで駅へと向(む)かう。視点を上に上げれば、限りなく澄(す)んだ雲ひとつない夜空に浮かぶ月が、街と人とを仄(ほの)かに照らしながら見下ろしていた。

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