時刻は午前7時40分。珍しく出勤時刻が一般的な企業の始業時刻と同程度の時間帯になった今日も、数百人の社員たちがストレスでやつれきった、それこそ化粧こそが不健康のもとになりそうなほどに疲れきった顔を、微塵たりとも隠すことなく重い足取りで出勤して来る。
彼ら彼女らが進む先のビルのエントランスでは、入り口近くの社員証読み取り機の近くに立ち、これまた疲労困憊とした表情でぼんやりと立つ髭面の男の前に、日嗣はその姿を現した。
「おはようございます、佐藤さん」
微笑みながら短く挨拶をして読み取り機に社員証をかざし、親しげに手を振って注意を煽る。朝っぱらから煙草を蒸かして現実逃避をしていた佐藤は、俯く自分にかけられた声の主を視界に捉えた途端、驚愕に染まった面持ちで一歩後退る。
「ごほっ!お、おう、げほっ!ふぅ……磐櫻か……」
開いた口から落ちそうになる煙草を慌てて指で支え、口と肺に残ったままの煙を咳き込みながら吐き出すと、手に持った煙草をもう一度口に咥えて挨拶に答える。
日嗣もまだ眠気が取れきっていない目を擦りつつ、指先に付いた目脂をハンカチで落としながらもう一度挨拶を返す。佐藤は咳も落ち着き、気を取り直して煙草を吸いながら、目の前の男へと問いかける。
「どうだった、昨日の休みは。しっかり休めたか?」
このような質問をする理由は純粋で、ここ3ヶ月間一日たりとも休暇がなかった日嗣がやっと取った有給休暇を、きちんと休息に使えたのかを知りたいがためで特別な他意はない。
むしろ佐藤としてはそもそも他人のすることに興味がない。この質問も全くの気まぐれで、なんとなく話題に振ってみただけである。周囲の他の社員は早足で自分の属する部署がある階を目指し、エレベーターへと急いでいる。
だと言うのに、今は煙草を口に業務とは全く関りのない、赤の他人の休暇という話題で雑談をしようとしているように見える。そう、しようとしているように見えるだけで、実際は全く違うことをしようとしている。
目の前で見せつけるような笑顔を浮かべる男女を何とか遠ざけようと、何かしら話題を振ろうとした結果こうなっているのだ。
(ったく……昨日一日で何があったってんだ?)
不自然にもほどがある、と佐藤は頭を掻いて溜め息を吐き、煙を靡かせて歩き出すが、日嗣からの答えはまだない。
ふと後ろを振り替えれば、先ほどまでの満面の笑みが嘘のように興味のなさそうな無表情に変わっており、自分を追い抜いて足早に階段へと向かって行く。
心底呆れてもう一度大きく、わざとらしく息を吐くと、煙草の火を消して携帯灰皿につっこみ、エレベーターへと足を進めた。
(今回の企画通すの、お前の部署だろうが)
時間は進み、午後14時。午前7時ちょうどから勤務を始めて5時間が経過し、日にわずか20分というごく短い昼休憩の時間を迎えた社屋ビルの狭い一室に、実に200人にも届く数のスーツ姿の男女が芋を洗うように犇めいていた。
その喧騒ぶりたるや常軌を逸しているの一言。部屋全体の構造がおかしいため、社員の声や足音が余りにもうるさく響く所以で、目の前で人が叫ぶ声すらかき消され、何を言っているのか全く分からないほどである。
その中でノートパソコンを遠ざけて両耳のイヤホンを外した日嗣は、自分の席の隣に座り苛立ちと興奮の狭間に精神を漂わせながら携帯電話をいじる同僚の目の前に、薄いファイルに納めたプリント用紙30枚もの文書を力を込めて置く。
ファイルの表紙には《次回作品初期資料》と書かれている。
「はい、岡田さん。忘れる前に……」
目の隈は今朝より一段と黒くなってはいるものの、声は普段より元気で大きく、自信に満ち溢れているかのようでもある。周囲の同僚たちも、妙に明るく振る舞う日嗣の様子に驚きを隠せず、ひそひそと噂話をする者もちらほらと見える。
だが、自分に集まる視線を全く気にする素振りを見せず、むしろ自分の心身の状態を見せつけるように体の動きは大きい。心なしか、その女顔から作り出される笑顔は、岡田と呼ばれた男が思わず見惚れてしまうほどの妖艶さをも醸し出している。
(一体なんだ?急に人が変わったみたいになって……)
パソコンを閉じないまま席を立ち、人でごった返す部屋の通路を流れるように進めば、彼の姿はあれよあれよと言う間に入り口に立っており、その入り口を開けるとすぐに外の廊下へと出て行く。
そもそも今朝から様子がおかしい、と岡田が気付いたのがこの時である。もともと必要以上の厚着をしていたのが、急に周囲の人間と変わらない服装で出勤してきたり、おどおどと人目を避けるように隅や端を猫背で歩いていたのが一昨日までの磐櫻日嗣という人物。
だが今日は先日までの彼からは想像もできないほどに堂々とした立ち振舞いをし、目に付いた社員らに積極的に声をかけ、愛想笑いさえもなくなっている。
変化がないと言えるのは、敬語口調と顔の痣、そして黒い髪に交じっている白髪ぐらいのものだろう。
余りにも気になってしまい、岡田は何が彼を、何が日嗣をここまで変えたのかの考察を始めた。
(一体全体どうしたってんだ……相当なことがないとあれほど変わらないぞ……)
休憩時間の期限が刻一刻と迫る中、裸体をさらけ出す少女の口から罵語が発せられる……という成年漫画の一場面が表示されている携帯電話を片手に、わりかし真面目に悩み続けること数分。
(まさか彼女ができたのか?あんな女っ気のないあいつに彼女が!?)
この考えに至って目を見開くと同時に、携帯電話の画面が消える。そして、噂をすれば影。不意に肩を叩かれて体が固まり、立て付けの悪い扉のようにぎこちなく首を動かせば、そこには危惧した通り日嗣が帰って来ていた。
「お待たせしました。明日のプレゼンの資料原稿です」
手に持つ資料を隣の席のファイルの上に置き、また席に戻ってイヤホンを耳に着け、短い休憩時間の楽しみである音楽鑑賞の続きを始める。岡田はその様子を見つめながら、未だに信じられないという表情のままで思考を巡らせる。
(いやいやいやいや!あり得ねぇ!)
千極を母数としても、その子数も千極にもなる零の一番最後に一が一つ、しめて一千極分のまた一千極一分の一になるほどにあり得ないと確信している。
この岡田という男、日嗣が情婦を手に入れるのは天文学的などという次元ではない極極超低確率である。このように手前勝手に思い込んでいたようで、またどういう訳か彼が本当に恋人を手に入れたことを、振る舞いだけで勘づいたようだ。
と、ここまで岡田という単発即席の登場人物を長々と紹介したが、つくづく才覚の扱い方がおかしい人物である。
(畜生分からねぇ!彼女ができたことは解るのにこれ以外が全っ然見当つかねぇ!)
人目も憚らず一人頭を抱えるが部屋の時計を見るとあっさりと諦め、残り3分となった極めて短い休憩時間を使い成年漫画の続きを読むべく携帯電話の画面を点ける。
日嗣はその様子に全く興味を示すことなく、音楽を聴きながらノートパソコンのキーボードに手を伸ばした。
『現時刻9時50分、退勤完了しました。約束の駅で待っていてください』
その後、日嗣は普段通りの業務を普段以上のモチベーションを源とする非常に高いペースでこなし、気付けば期限が三日も先の業務を二つ、期限六日先の業務を一つ終わらせてしまい、珍しく10時手前の時刻で退勤することができた。
先日の望みは今日の約束とばかりに、茅芽ただ一人を想って張り切った末に結んだ実であるから当然ではある。
ビルの外に出れば、既に日は沈んで空には繊月が見えており、目の前の街を見れば帰宅ラッシュを過ぎて人通りが疎らになっているのがよく分かる。
と、景色に見とれていると、鞄の中の携帯電話が振動する。先ほどのメールに返信が来たようで、この事実だけで日嗣の心拍数が少し上昇した。
(……間に合わなくなる)
コートの前ボタンをしっかりと閉め、早足で歩きながら鞄を漁り、携帯電話を取り出してメールアプリを開く。返信の内容は『須平駅にいます。急いでくださいね』という短いものだが、自分を待ちわびていることがよく分かる。
携帯電話をもう一度鞄に納めると、しっかりと手に持ち小走りで駅へと向かう。視点を上に上げれば、限りなく澄んだ雲ひとつない夜空に浮かぶ月が、街と人とを仄かに照らしながら見下ろしていた。