ここは“無人駅”という言葉で表される通り、全くと言っていいほどに人の気配の感じられない駅。その待合室の壁際に佇む振り子時計は、現在の時刻である午後10時30分を示している。
駅の待合室の天井にあるのは、長年に渡って交換もされず使い古されたことでフィラメントが弱り、その劣化具合を表すように不規則に点滅する電灯。改札への出入口にあるのは、やはり手入れらしい手入れもなく、日に焼け、破られて、虫に食われた跡が目立つ本ばかりが無造作に並ぶ小さな棚。
そして何より、天井にも窓にも本棚にも軒下に至るまで、あらゆる場所にクモの巣が張り巡らされたこの待合室そのものが、この駅がいかに老朽化し、寂れているのかを見せつけている。
だがこの駅を利用する者がいない訳でもない。
「……はぁ……」
待合室の中心に置かれた背もたれのないベンチに、ちょうど昇降場と昇降場に停まる電車に背を向けて俯いた姿勢で座り、憂鬱と哀愁に満ちた心中を纏っているかのような態度のこの男が、今日最後にこの駅を利用する客だ。
彼……【磐櫻日嗣】は何かしらの思案に耽っているようだが、不意に痛みが走るこめかみを撫でるように抑え、待合室の床に向かって静かに呟く。
「……何もしたくない……」
先に述べた通り見るからに鬱に満ちた様子と言動から見てとれるのは、恐らく常人には耐え難いであろう精神的な圧が日嗣という男を襲っていることである。具体的に記してしまえば虐待と嫌がらせの二つに絞られるが、それらの内容は常軌を逸している。
彼の勤務先は所謂ブラック企業に分類される悪徳株式会社であり、しかも経営陣は極めて強欲かつ抑圧的な人間で占められている。そして従業員は言わずもがな、消費者に取引相手、果ては出資者からすら金を搾取することしか考えていない経営者が牛耳を執る以上、企業の経営状況は常に赤字ぎりぎりとなっている有り様。
その上逃げ場もなく溜まりに溜まった鬱憤は当然ながら組織の内側、それも身近にいる人間に向けられ、上述した嫌がらせやいじめに繋がり、その隙を見た経営陣らによる給与の中抜きや天引きが発生し、その責任の押し付け合いが起き……と完全な悪循環に陥って行く。
日嗣もまたブラック体質な企業とその構成員から受ける攻撃の被害者の一人であり、さらにネガティブな思考回路と内向的な性格、ある種の呪いにも似た不幸不運を寄せ付けやすい性質を併せ持っている。まさに最底辺と呼ばれる人間の特徴を背負う人物である。
「……っ痛……」
無論彼が普段被っている害は多く、それも一つや二つどころではない。今日のような超過勤務に始まり、残留業務、業務妨害、薄給、無休、虐待、脅迫、暴行などなど、例を挙げればその数にきりはない。
増して、幼い頃から理由もなく人に嫌われていたのだ。何をしても親は関心を示すことはなく、些細な切欠でも罵声を浴びせられ、暇さえあれば子供相手に暴行を繰り返す。そのような人間性の欠片もない両親と生活を送っていたこともあり、特に上半身と顔には今でも痣がそこかしこに残っている始末。
当然ながら同年代の子供からは痣や傷痕を気味悪がられ、いじめの対象として扱われるのは日常であったほどに酷い半生を生きて来たのだ。日嗣は過去二十数年分の記憶を思い出すほどに強さが増して行き、治まる様子のない痛みを和らげることを諦め、自らの頭から手を離す。
手か頭から離れると同時に、電車が揺れながら駅に近付く音が耳に入る。振り子時計が示す時刻は、ちょうど午後10時40分。
線路の方へ振り返れば、電車の蛍光灯が放つ光がガラス窓を挟んだ先の遠くに見える。
「終電か……急がなきゃ」
電車の車輪と線路が奏でる金属音に導かれるようにゆっくりと立ち上がり、ベンチに置いたまま忘れかけていた鞄を手に持って昇降場へと足を進めれば、数秒ほどで電車が到着した。自動扉が開くと、どこかの学校制服を着た少女が扉と向かい合うように座っていた。
「失礼します……」
日嗣が客車に入ったことで、乗客が二人に増える。それでもなお閑古鳥の鳴く声が聞こえそうな電車の、何となく出入口に近い座席に座ったその時、まるで何かを悟っているかのように見えたのは心なしか。星が瞬く空を窓から眺める日嗣は、深く暗い物憂げな微笑みを浮かべていた。
(……明日は休み……)
目を閉じて静かに溜め息を吐くと同時に、自動扉が閉まる音が聞こえる。腕時計の時刻を確認し、出発を知らせる車内音声を聞き流しながら、ごそごそと鞄をいじり中からタブレットを取り出す。
(……電車って……本当にやることないもんなぁ……)
心の中でぼやきながらタブレットに表示されているアプリの一つを開くと、多数の項目に別れた画面が現れる。
項目には短い文と番号が振られており、番号は上から下へ下がるに従って桁が増えているのが分かる。そして、それらの数字は軽く三桁に届いているようで、一番下の項目には“400”と書かれている。
(この小説も書き始めて8年か……)
電車に揺られながら記憶に耽りつつ“400”と書かれた項目に“OVER DOSE”と書き加え、次の画面を開いて編集を始めようとした時だった。
「ねえ、お兄さん」
正面から声をかけられ、画面から目を離して視線を上に上げて見れば、向かいの席に座っていたはずの女学生が日嗣の目の前に立ってこちらを見つめている。
早朝からこき使われ、今になって帰宅中のブラック企業勤めの冴えない会社員に用などあるものだろうかと首を傾げるが、女学生の目には妙な気迫と力がこめられており、とても無視できるような相手ではないことを感じ取れる。
もう一度溜め息を吐いてタブレットを手から放し、改めて顔を上げて女学生の目へと視線を合わせる。その時に襲って来た痛みに耐えるように歯を食い縛りつつ、日嗣は自身を見下ろす彼女に問いかけた。
「……僕に何か御用?」
問われた女学生は、迷いを含んだ表情で一言。
「…………少しだけ、話し相手になってくれませんか?」