烏の行水同然に風呂からあがり、パジャマに着替え終わる頃には部屋の時計の針は1時20分を示しており、日嗣の眠気も限界を迎え、あくびを堪えられなくなっている。
更に欲望を抑えきれず、風呂場で自慰までしてしまったのだ。これにより業務の疲労感と自慰の倦怠感が同時に全身を襲い、ゆっくり湯に浸かることができないまま入浴を終えることになる。
「休み休みって言ってるけど……休みっていつぶりだっけ……」
酔っぱらいのようにふらつく足で体を支えながら、危なっかしい手つきでクローゼットから布団を出すのが精一杯な有り様。寝落ちそうになりつつも何とか布団を敷き終わるが、この頃には意識が完全に朦朧としていて、視界も朧気ではっきりしない。
大きく口を開いてあくびをしつつ、明るいままの部屋の電灯を保安球に変え、そのまま布団に潜り込み静かに寝息を立て始める。
(明日は……ゆっくり……)
静かな夢の世界へと意識が遠退く中、日嗣が最後に視界に捉えたのは、淡い夕日色の輝きを放つ電灯だけだった。
(……そう言えばあの子……何で初見で僕のことお兄さんって呼んだんだろう……)
一夜が明け、時刻は午前9時。磐櫻家の食卓には、まだ眠そうな様子であるものの昨夜よりはマシな顔になった日嗣の姿がある。更に食卓に並ぶ朝食の献立は豪勢で、日頃の鬱憤や圧からの解放を求めているようにも見える。
まず「いただきます」と合掌した後箸を手に取り、最初に口にするのは瑞々しい深緑色をしたきゅうりの浅漬けだ。
一度噛み締めれば、しゃきっという爽やかな音と共にあっさりとした塩味が口に広がり、更に咀嚼を続ければきゅうりに含まれる水分が口の中を満たし、ほんのりとした香りを放つ。
浅漬けを飲み込み、次に箸を伸ばすのは炊きたての温かい御飯である。箸の上に乗る御飯から立ち上る湯気は、言わずもがな温かい。炊きたてと述べた通り少々熱さを感じるが、口に放り込んだ後すぐに咀嚼を始めれば、瞬く間に熱さを忘れてしまう。
噛み潰す度に米特有の柔らかな甘味が口いっぱいに広がり、何度も咀嚼した後に飲み込む頃には、甘味と温もりが口の中に残る。
次、また次と箸を伸ばす先、つまり食卓に並ぶものは当然だが二品だけではない。例えば砂糖で甘く味付けされた卵焼き、秋刀魚の塩焼き、若布と豆腐と玉葱の味噌汁、ほうれん草のおひたし、さらには大根と人参の膾など、いかにも“和”を連想させる料理ばかりが皿に盛り付けられている。
約三ヶ月ぶりに超過業務から解放され、コンビニ弁当ではない自炊の料理に感涙しながら食事を続ける日嗣であった。
朝食を終えて食器の片付けをし、自室に戻った日嗣。埃避けのマットも広げずカーペットに寝転がり、ぼんやりと天井を見上げて考え事に耽っている。が、思い出されるのは昨日自分に振りかかって来た災難の記憶ばかり。
(……本当……嫌なヒトだったなぁ……)
トラブルが起きたと対応を押し付けられたのは、あることないことを躊躇なくくっ喋る苛立たしいことこの上ない相手だった。
こちらが何を言おうが平然と揚げ足を取り、丸め込まれそうになれば脅し付け、自分が不利になればそもそも全く関わりのないことを文句の引き合いに出す始末。
ただでさえ真っ黒なこの会社の被害者ならまだしも、悪質クレーマーそのものの迷惑な人間が相手ではまともに取り合う義理はない。
おまけに同僚たちは頼るに値しないという最悪の状況の中での応対は、文字通り身と骨を削っているかのような精神状態だったのだから、やつれるのも無理はない。せめて誰も自分に関わらないで欲しい、と思うのも至極当然である。
だが、先日は良い出会いが有ったこともまた事実。電車で雑談をしていた茅芽の笑顔を思い出すと、少しだけ鬱が晴れた気がした。
「……久しぶりに」
日嗣はゆっくりと起き上がり、両腕を高く上げて伸びをすると、立ち上がってクローゼットの方へと足を進める。取っ手を持って横開きの扉を開くと、なにやら白い箱を取り出した。
「現実逃避してもいいよね?」
埃を被った白い箱の取っ手を持ったかと思えば部屋の壁際の本棚へと進路を変え、その中ヘルメットとゴーグルを抱えて自室を出ると、自室の扉のすぐ近くにある階段から二階へと上がる。足を乗せる度に鈍い音で軋む階段を上りきり、その先の廊下に二つ見える扉のうち、向かって左側の壁に見える扉へと入る。
開けられた扉の中には、分厚いカーテンで日の光を遮られた薄暗い部屋があった。
「そっか……もう三ヶ月も使ってないんだ……」
ゆっくりと入った部屋の中心には、人一人が横になれる程度の大きさを持つ、棺を思わせる楕円と四角の機械がどんと置かれており、側面には何かしら文字が書かれているのが分かる。だがプラグはコンセントから外され、全体にも薄く埃を被っている。
日嗣は箱とヘルメット、そしてゴーグルを一度部屋の机の上に置き、機械の方へと近付いていく。そして服の袖を使って蓋の部分に積もった埃を拭き取り、手で払って床に落とす。また、電源プラグに溜まった埃にも息を吹き掛けて取り除き、少し乱暴な手つきでコンセントに繋ぐ。
「……電源入るかな?」
そのまま機械の下の部分、ちょうどプラグコードの根元の隣に取り付けられた梃子型の電源スイッチに手を触れる。しかしスイッチレバーが思いの外重く少し手惑うが、足に力を込めて強《つよ》引いてみると……
「お?……あ……あぁ、よかった。ちゃんと動いた……」
重苦しい作動音と共に、赤と白のランプに光が灯った。日嗣は問題なく機械が動いたことに安堵を覚え、緊張を解すように息を吐きながら蓋の部分を撫でた。
「放ったらかしにしててごめんね……終わったら、ちゃんと掃除するから」
この棺のような機械の正体は、巨大なゲーム機である。そして日嗣が蓋を開き、一度箱とヘルメットとゴーグルを回収するべくその場を離れた時、本体の側面に刻まれているこのゲーム機に与えられた名前が、廊下から入り込む光でうっすらと浮かび上がる。
その名は、〘胎場〙。“胎”という字が示す通り、赤子の肉体が宿る場所、つまり子宮を表す、仮想世界と現実世界を隔てる異世界への出入口。