ひゅんっと、木々の合間を劈くような風の音が走り抜けた
遠くに聞こえる獣の悲鳴、それが倒れる音に耳を済ませた後
少年は、宝石のような翠色の瞳を開き、ゆっくりと息を吐き出した
「ふぅ…。まぁ、こんなもの、かな」
日焼けを知らない白い肌、木漏れ日を透かせた様な金糸の髪
それと良く似た少女の面影を重ねたアカネは、その後姿に揚々と声を掛けた
「やっほー、フーリア、えっちしよーぜ」
「…しないって、いつも言ってるじゃないか」
盛大なため息と一緒に、フーリアの頬が少しばかり羞恥に染まる
正直に言えば、アカネの事が少し苦手だった
悪い人じゃないのは分かる。綺麗な赤い髪と一緒に輝くキラキラの笑顔に、目を惹かれることだって少なくはない
困っていれば手伝ってくれるし。危ない所を助けられたことだって一度や二度でもなかった。ホントなら、もう少し気を許したって良いんだけど
ただ一点。明け透けとエッチなことを要求してくる一点が、すべてを台無しにしている、そんな人だった
「まぁまぁ、アピールはしとくもんでしょ? 私はやれる女ですって」
「そんな事ばっかり言って。そのうち、酷い目にあっても知らないんだからな」
「心配してくれるんだ?」
「分かってるよ。余計なお世話だって言うんでしょ?」
「言わないよ? 心配してくれてありがとね?」
てっきり、強がりをからかわれるものだとばかり思っていた
だけど、返ってきた笑顔は、子供の背伸びを笑うものではなく、ただただ自分を気にかけてくれた事への好意が、素直に映し出されていた
ドキッとした
それはズルいと思う
ただのエッチなお姉さんで居てくれれば、いくらかあしらいやすいのに
急に真面目になられると、身近な異性として変に意識をしてしまいそうになる
「お、赤くなった。可愛いっ、ね、ちゅーしよちゅー♪ ちょっとでいいから」
「しーなーいーかーらー」
やめろ、さわるな、近づくな、離れろって
抱きついて来るアカネを無理矢理にも引き剥がそうとするけれど、彼女の力は思ったよりも強い。なんとか押し止める事までは出来るけど、それ以上が上手くいかない
まだ子供だと言われても、ボクだって異性が気になる年頃だった
触れる肌の繊細さ、絡まる指はしなやかで、押し返そうと力を込めれば柔らかな感触が返ってくる。ボクよりも少し温かい体温。赤い髪が目の前で揺れるたび、陽だまりみたいな香りに鼻をくすぐられ、呼吸一つ上手く出来なくなっていく
「だめだって、さわって…当たってるから、ほんと、離れてって…」
「当ててんのよ? いわせんな恥ずかしい」
「だったら少しは恥ずかしそうにしてよっ」
「一つ教えてあげる。恥ずかしく無くすには、相手を自分より辱めればいいの」
「そうやって、自分を基準にするのを止めなってばっ」
「知らんな。所詮人は、己の知ることしか知らないもんよ」
そうやって、すぐ開き直るんだ
我が儘と言えばそうなんだけど、それに何度も振り回されてはいるんだけど
不思議とそれがイヤでもなかった。怖いもの見たさか、そういう話が好きな人の気持ちにも似ている気がした。近くにいれば、何かと困らされてはいるけれど、終わってみれば、なんのかんのと楽しかったって気にはなる
こんな人と、エッチができれば楽しいのだろうな
考えないはずがない。そして、考えるよりも、それは気持ちが良いことだと既に知ってしまってもいる
だから余計にダメなんだ
それを考える度に、妹の顔が頭を過ってしょうがない
いっそ、忘れられるんならと期待はしてみたものの、それは余計に感情を育ててしまっただけだった
「もうっ、良いでしょっ。いい加減に…怒るよ、ボクだってっ」
「あははっ、ゴメンゴメン」
少し語気を強めて力を込めると、最初にあった抵抗とは裏腹に、あっさりとアカネは身体を離してくれた
「いい。だけど、好きな人がいるんだ…しょうがないだろう」
そうだね。もしそうじゃなかったら、アカネとしたかった…と思う
だけど、この感情に折り合いの付かない間は、アカネにも悪い気がして腰が引けてしまっていた
「そりゃ、フーリエの事は私も好きさ」
「また、悪戯したんじゃないよね?」
「なにも? フーリアにした以上にはね。ただのスキンシップだって」
「いちいち過剰なんだよ、アカネのはさ…」
例えばそれでフーリエが泣いたりしたなら、ボクだって怒っただろうけど
最近、曇りがちだった妹の表情が、少しだけ楽になっているのを見ると、あんまり強くは言えなくなっていた
それより問題だったのは
もしかしたらアカネに盗られるんじゃないかって
そんな、かっこの悪い、子供みたいな嫉妬心が芽生えてしまう事の方がイヤだった
「でも、ボクの方が先に好きだったのにってのは言い訳よ?」
「分かってる。だけど、もう少しだけ好きでいたっていいでしょ…」
仲のいい兄妹、仲の良すぎる兄妹。年を重ねるに連れて、周囲の視線は厳しくなっていく。追求こそされはしないでも、やんわりと引き離されることが多くなり、最近のボクはもっぱら森へと追いやられていた
それももうすぐか…
次の誕生日には別の村に出されると、周りに周った噂話はボクの耳にも聞こえてくる
フーリエを連れて逃げ出すことも考えた。だけど村から逃げて、子供二人で森を彷徨うのも危険が過ぎたし。かと言って、なんの後ろ盾もなく人の街に潜り込むのも大概無謀でしかなかった
森の中で擦り切れるか、人の街で奴隷商にも捕まるか
どれを取っても最悪な展開を振り払えないのなら、まだ、フーリエが無事で居てくれる方が良いと、自分を納得させるしかなかった
「ボクが大人だったら、フーリエを守ってやれたのかな…」
ふいに出てしまった弱音は、風に乗って流されて、アカネの耳にも届いていた事だろう
いっそ笑ってくれれば良い。そうすれば、自分の弱さを少しは飲み込めそうだ
「そうね、そうすれば堂々とエッチが出来るわね」
「…アカネってさ、悩みがなくて良いよね」
「失礼な。人をアホの子みたいに」
「別に。ただ、生きやすそうで羨ましいってだけ」
肩から力が抜けてしまう
ボクの悩みは、アカネにとってはエッチな話のネタ程度にしかならなかった
それが悔しいような、羨ましいような
でも、そんなアカネを見ていると、ボクももう少しだけ生きやすくなって見てもいいかなって思えてはくる
「そんなに大人になりたい? あれで面倒なもんよ、いろいろと」
「ボク、アカネみたいなのが大人だって思いたくないんだけど」
「あははははっ、そりゃそうだ。けど、子供でいるってこういうことよ?」
「…」
屈託のない笑顔は、一見すれば自由に過ぎた
だけど、その自由を突き通すための苦労は、その笑顔の裏側に完全に隠れていて、ボクにはまだ、それが眩しいものにしか見えなかった
「良いじゃない、子供でいられる内はさ。ラブレターでも貰って、はしゃいでられる内が一番楽しいんだから」
「ラブレターって、今度はなんの悪戯?」
差し出された一枚の便箋
丁寧な封を切った中から出てきた紙には一言「教会で待っています」と、見慣れた妹の文字が綴られていた