「ミネルヴァ、セクメト、ダフネ、カーミラ……皆、行ってしまった」
誰もいない野原に一人、日傘と小テーブルと共に佇む美女がいた。
「皆、変わってゆく。この世界は所詮諸行無常、そうだったね。フリューゲル」
過去の大賢者は言った。
世界とは得てしてままならないものであると、人がいる限り、生き物がいる限り、戦争も飢餓もなくならない。
だって、それをするのが人であるのだから。
争いの運命に終わりはなく、運命とは神や目に見えぬ何かが作り出すものではなく、己自身、ひいては人間自体が生みだすものであると。
「『故に、世界に大いなる流れはあれど、運命などという仕組みはない』……その言葉がボクにとってどれほどの希望だったか、君は知らないのだろうね……。君と、君たちと一緒に世界の破滅に抗った日々は、ボクにとって何物にも代えがたい思い出だ。辛い決断があった。選びようのない選択があった。望まぬ結末があった。けれど、ボクはこうして生きている。なら、──まだ終わってはいないんだ」
手のひらを堅く握り締め、眉を寄せ、表情を苦渋に染めて、彼女は語る。己に言い聞かせるように。
「終わっていいはずがない。彼女が狂い、君が消え、龍が衰え、天剣が亡くなろうと、ボクがいる限り終わりになんてさせない。ボクが生きている限り、君の異世界生活は終わらない……そうだろう? だから、ボクは……」
「──よお、辛気くせぇ面してんな。どうしたよ」
「……また君か。招待もなく、魔女の茶会にのこのこ現れるとは礼儀がなっていないようだね、強欲の半獣」
「俺は狐じゃなくて狼だけどな。ちょっと邪魔したくらいでそうカッカすんなよ。可愛い顔が台無しだぜ?」
「本当に口が減らないね、君は。そんなところばかりは彼にそっくりだ」
「だぁから、そいつは誰のことなんだよ。顔も知らねぇ誰かと俺を重ねて勝手に俺を嫌ってんじゃねぇ」
「誰が彼と君なんかを……単に私が君を嫌いなだけさ、当然だろ?」
「嫌われたもんだねぇ……ま、気の強い女は嫌いじゃねぇぜ」
「──出ていけ」
強欲の魔女がこちらへ手を翳す。
すると、クピドを不可視の力が襲う。
「うおっ、あぶねぇな!」
「ここは君の踏み入れていい場所じゃないんだ」
「嫌だね! 俺は俺のしたいようにする! いつでも! どこでも! 誰とでもな! ──『暴食』」
「──! 分身体か……一人増えたところで、この場所で私に勝てるはずがない」
「「さぁて、それはどうかな? ──『強欲』」」
「今度は何を……! これは……っ! ぐっ」
「──『強欲のグレイプニル』、俺を縛る呪いの具現化だ。そうそう逃げられねぇぜ」
「……運命の鎖か。こんな状況でなければ興味が湧くが、今はそんな場合ではないようだから、ねっ」
詠唱も予備動作もなく、魔女は鎖を粉々に砕いて脱出した。
「言っただろう。──何度来ようと、君の思い通りには絶対にならない。ここは私の、私だけの聖域。招かれざる客はご退場願おう」
「……はぁ、仕方ねぇな。あんまりこの手は使いたくなかったんだが……『やれ』」
「な、ni、ヲ……あ、ぎあ? gぁぎゅrあ──ッ」
「………」
クピドは何もしていないはずなのに、強欲の魔女──エキドナの身体が、壊れたホログラムのように乱れ、言語すら解せなくなる。
クピドは何もしていない。クピドはただ『念話』で命令しただけだ。
──
「──墓所を外から壊せば、お前の聖域は崩れ落ちる」
バリンッ! と、激しい音を立てて世界が割れた。
クピドと歪んだエキドナを空虚な闇が包み込む。
「今度は互いに本当の姿で会おうぜ」
「────」
エキドナは言葉を発さず、されど、その顔が歪んだように見えた。いいや、
◆◇◆
「────ッ」
「よお、起きたかよ」
「こ、こは……げほっ」
見渡せば、自分は透明なガラスの中。
声のする方を向けば、壁に腰かけてこちらを見るクピドの姿があった。
ああ、喉が痛む。身体が重い。
「状態は維持されてたとはいえ、碌に動かしてなかったんだ。そりゃ筋肉も衰えるってもんだ。ほら、手伝ってやるよ」
「……いらないよ。それから、あまり私の魔法を舐めないで貰えるかな。肉体の状態は昔のままだよ」
「あ? じゃあ、元からそんだけひ弱だってのか? 貧弱なんてもんじゃねぇぞ」
「悪かったね。だけど、魔法を使えばこんなもの……あれ?」
「ああ、悪いけど魔法は封印させてもらってる」
「魔法を、封印? ……君の権能か」
「ああ、俺の力も封じる聖鎖だ。魔法の封印くらい造作もない。悪いが、お前が生身である以上、抵抗されたら殺しちまいかねないからな」
「私を生かしたまま利用しようとでも言うのかい。悪趣味ここに極まれりだね」
「んなけったいなことしねぇよ、お前を連れ出したのは──」
「──あたしらさね」
「セクメト……皆まで……どうして」
「わ、わたしは、関係ない、よ。ぜんぶ、みんながやったこと、だから。だから、そんな目で、みないで……」
「ダフネはぁ、別にどっちでもよかったんですけどぉ、テュフォンちゃんがぁ、どうしてもぉって言ったのでぇ」
「──ドナ!」
「テュフォン……君が何故、私の邪魔をするんだい」
「ドナっ、ドナ、怒ってるかー……?」
「……」
「ドナ、あのなっ、テュフォンなっ、また、みんなで楽しくしたいん、だー」
「……」
「そのっ、ピドーは、すっごく悪いやつだけど、すこーしだけ良いやつでなっ」
「おい」
「黙って聞いてるさね」
「……それで?」
「だから、また、みんなで一緒に、過ごしたいんだ……テュフォンと、ははと、フネとミラと……ドナも一緒に」
「……変わったね。私より先に、君の方が大人になったみたいだ」
「? 怒ってないのかー……?」
「怒られると思ったなら、どうして私をあそこから連れ出そうとしたんだい? それは、君にとって『悪』そのものじゃないか。……どうして、君は私を連れ出そうと?」
「……うー、その、だって…………ドナだけ一人ぼっちは、寂しいもんなー」
「──そう、か。本当に……成長したね、テュフォン」
「自慢の娘さね」
「自慢の娘だな」
「あんたが言うなさね」
「……セクメトも、君が自分から動くなんておかしな話だ」
「娘の為さね」
「違うね。君は優しく聡明だ。私の自惚れじゃなければ、君は正しく私の望みを知っていたはずだ。例えテュフォンの頼みであろうとも私の悲願を優先してくれるだろう。なのに、君はここに来た。何故かと、聞いてもいいかい?」
「……あたしは、もう疲れたさね」
「いつもと変わらないじゃねぇか──ふげっ」
話を遮ったノンデリな男を見えざる手でぶっ叩いて黙らせてセクメトは続けた。
「権能だの、魔女だの、運命だの……そういうのとやりあうより、ここでただの人として平穏に暮らした方が安息を得られる……はぁ、あんたにも、もう宿命だの悲願だのは忘れて……ここで暮らした方がいいと、そう思っただけさね……娘の頼みでもあるしね」
それはまさしく母なる慈愛と友人としての心配だった。
しかし、
「──そんな、そんなことができるものか!?」
エキドナは認められない。認めることなどできない。彼も、約束も、何もかも忘れて、平穏無事に生きるなど、──できるはずがない。
「私はっ、──ボクはッ、彼と約束したんだ! 必ずまた会うと約束した! 待っていると約束した! 今、彼を覚えていてあげられるのはボクしかいないんだッ! ボルカニカも! レイドも! サテラも! みんな壊れてしまった! 魂だけしか残らなかった君たちもそうだ! ボクしかいないんだよ! ボクしか! 彼を迎え入れてあげられない! ボクがっ、ボクが待っててあげないと……そうでないと、また……泣き虫な彼が、また、泣いてしまう……そんなの……可哀そうじゃないか……」
「……」
「……」
「……」
セクメト除く魔女たちは一言も発さない。何故なら彼女らは知らないのだから。
──その『彼』なんていう存在を。
いったい、その『彼』というのは、誰なんだろうね?
誰も知らない。覚えているのは彼女と、『彼女』に飲まれることなく大瀑布に落ちて死んだもう一人だけ。『彼女』に飲み込まれた魔女も、世界も、龍さえも、彼の犠牲を知りはしない。
すべては、災厄と成った『彼女』がその『嫉妬』ゆえに奪ってしまったのだから。
「かならず……また会えるっ、はずなんだっ……だって、約束した……約束したんだから……」
無機質な墓所に、生ける死者の涙が零れ落ちた。
「──エキドナ」
「……?」
「俺じゃダメか?」
「…………なにを」
泣き喚く少女の涙を拭い、声をかけたのはクピドだった。
「俺がお前の言う『彼』にはなれないのか?」
「…………バカを言うな。彼は、彼は……君みたいに節操なしじゃない」
「わかった。直すよ。ちゃんと一人ひとり向き合うし、誠意をみせる。俺が全員幸せにする」
「か、彼は……君みたいに強くない」
「強いに越したことはねぇだろ?」
「彼は、世界の救済が最優先でっ、ボクのことなんて、見てなかったっ!」
「──俺が見てる。君を見てる。だから、な? 一緒に行こう。二人だけじゃなく、皆で。そしたらきっと、君の世界はもっと良くなる」
「────」
「エキドナ」
「あ」
「お前が好きだ。お前はどうだ?」
「……──ボクは」
◆◇◆
※セクメト、彼の話してたじゃーんってね。ちょっとニュアンスが難しいので適当に誤魔化しておきます。
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