次回からが本番パートです。前半とは雰囲気も味付けも全く異なりますが、お付き合いをしていただければと思います。
Before the Episode:『高級娼館のシスター』
「それじゃ、行ってくるからな。」
「うん、いってらっしゃい。」
「あ、今日は奈保美さんが掃除をしに来る日だから、学校から帰ってきた時にいたら挨拶するんだぞ。」
「ん……わかった。」
若干の眠たさを見せながらも、典也は出勤する私を見送ってくれていた。たった一人の家族、息子の見送りを受けて玄関の鍵を閉め、いつも通りの日常が始まるのであった。
◇
「うっす。」
「おう。」
見慣れたどころか、見飽きたともいえるオフィスの光景。変わり映えのしない顔と挨拶を交わし、私はすぐに仕事へと取り掛かる。
「なんだか、昨日も一昨日の会っているはずなのに、ずいぶんと久しぶりな気がするな。」
「ん?どういうことだ?」
「いや、まるで何回かのクリックかタップをしただけで、10年くらいの月日が流れたような……」
「ヘンなクスリでもキめたのか?」
朝から意味不明の言動の友人を適当にあしらい、先に出勤していた同僚として業務の進捗を訪ねる。
「そういえば昨日、若干の癖のある先方がいるって帰り間際に言ってたよな。」
「ああ。出来るだけ複数の人間と話をして、契約を結んでおきたいんだとか。」
「まぁ……営業担当が変わった場合のリスクを考えてのことだろうが。」
比較的大口の客でもあったため、下手に機嫌を損ねるわけにもいかず、ここは極力遜った姿勢で交渉に臨むのが適切であるというのが共通の認識であった。
「あまり人を値踏みするような相手は好きじゃないんだがな……」
「そうはいっても、もう先方と顔を会わせていないのはお前だけだぞ。」
「うっ……!」
もとより逃げる気はなかったものの、逃げ道が塞がれていたことに気が滅入る。多数のお膳立てといえば気が楽だが、それは裏を返せば絶対に失敗をするなという圧力だともいえた。
「わかったよ、行けばいいんだろ。」
「ああ、頼んだぞ。全てはお前の双肩に掛かっているのだ。」
無駄にプレッシャーを与えてくる腐れ縁。よくこんなやつと二桁の歳月を仕事の共にしていると思いながら、私は先方の待つ場所へと向かうのであった。
◇
仕事を終えて帰宅をすると、家事手伝いとして契約を結んでいた初老の女性、奈保美さんと鉢合わせとなった。
「あら俊也さん、お帰りなさい。今日は早かったんですね。」
「ええ、まぁ。あの……典也は?」
「典也くんも部屋でくつろいでいますよ。私は大丈夫って言っているのに、お手伝いまでしてくれて。」
「すいません……ご迷惑になっているようでしたら、言っておきますので。」
もっとも育児の手間が掛かる日々は過ぎた一方で、仕事と家事の両立はさらに困難を極めたため、結局はこうして妻の代わりとなる人間を金銭で雇うこととなってしまっていた。
「奈保美さんには何から何まで……本当に典也が迷惑になっていなければいいんですけど。」
「いいえ、全然そんなことありませんよ。典也くんはとっても物分かりがよくて良い子ですから。むしろあれくらいの年頃だったら、もう少しやんちゃをしてくれてもいいかなと思うくらいですもの。」
振り返ってみれば、典也に対して父親らしいことをしてやれたことなど数える程度な気がしてしまう。これでは『彼女』に顔向けも出来ないと思うほどであった。
「でも、差し出がましいことを承知で言わせてもらうのであれば、あの子には母親がまだ必要だと思いますよ。もちろん俊也さん、あなたにも。」
「………」
奈保美さんに対して、何も言い返すことが出来なかった。反論も、肯定も。ただ唯一感じたのは、かつてのしていた後悔を思い返すことであった。
「私が再婚してしまえば、奈保美さんの仕事がなくなっちゃいますから。」
「あら、私を理由にお嫁さん探しを怠るんですか?」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃ……」
オバサンと呼ばれる人種に該当するだけあって、その厚かましさは相応のものであった。だがそれすらも、信頼の上に成立した冗談として受け入れることが出来た。
「大丈夫ですよ。典也くんならきっと、どんな人とでも上手くいきますから。」
「は、はぁ……」
彼女は私をどんな方向へ向かわせたいのか。少なくとも私以上に私の現状に不満を持っている。それだけは確かだと思うのだった。
◇
奈保美さんによって作り上げられた、父子家庭とは思えぬほど快適な環境。だが、テーブルを挟んで食事をとる私と息子の間には、ほとんど会話というものは存在しなかった。
「最近、学校はどうだ?楽しいか?」
「うん、普通。」
会話が続かない。いや、世にいる父と子の会話などこの程度が当たり前なのかもしれない。だからといって静粛と沈黙で満たされた団欒にするつもりもなく、少なくとも私にとっては苦痛ともいえる時間が多くなるのであった。
「お父さんもお仕事はどうなの?」
「どうって……それはどんな意味で……」
「忙しいのかってこと。奈保美さんに全部丸投げしてるの、悪いって思ってるんでしょ。」
「うっ……!」
「だから、オレも自分で出来ることは自分でやるようにするから。」
こんなにしっかりした子に育てた覚えはないのに、自立の兆しさえも見せる息子。そして何よりも私の尻を叩くかのような物の言い方。まるで自分の息子ではない、他の誰かを見ているような気にさせられてくる。
「すまないな、典也。忙しいのをわかってくれて……」
「オレはいいよ。お父さんが大変なのは、なんとなくだけど分かるから。」
本当はもっと、母親に甘えたいような年頃であるはずだった。私の都合で我慢をさせているようなもの。それを理解していながら、私は大きな決断を下すことが出来ずにいた。
「ん?典也、それは……」
「え、これ?」
テーブルの上に置かれた皿へ盛り付けられた唐揚げ。典也はその一つを箸で取り皿へ移すと、何食わぬ顔でレモンを掛けるのであった。
「さっぱりしておいしいから……」
「………」
言い争いになっていたのだろう。しかし、その相手はもうここにはいない。目の前にいるのは、ただその面影を残した我が子だけだった。
「お父さん、どうしたの?わさびが辛かったの?」
「いや……そうだな。ちょっと付け過ぎたのかもしれないな。」
枯れたと思っていたものが、自然と目から溢れ出ていた。断ち切ったはずの未練、忘れていたはずの後悔が否応なく蘇ってくる。月日が流れれば流れるほど、それは日増しに強くなるのかと恐ろしくなるほどに。
「俺も少し、レモンを掛けて食べようかな。」
「うん。」
この子の成長を共に見守ることが出来ず、伝えることも出来ない。それが今の私にとっては何よりも辛かった。せめて、誰かと分かち合うこと出来れば。この時はまだ、そう思うだけに留まっていた。
「どう?おいしい?」
「……いや、やっぱり唐揚げにレモンは合わないな。」
この時間が、あとどれだけ続くのだろうか。趣味も感性もまるで異なる実の息子。そんな我が子を一人で見守る充実した日々を、私は心の何処かで終わらせようとしているのかもしれない。
◇
「いやぁ、橘さんと話が出来て本当によかったよ。」
「はい、お互いにより良い条件となったようで何よりです。」
契約交渉の仕上げが思った以上に上手くいき、先方は上機嫌となっていた。これくらいプライベートも上手くいけばいいのに、などと思っていても決して口に出してはいけない。
「おかげさまで痒いところに手が届いた気分だ。やっぱり、こうして最適な交渉相手に巡り合えるのは堪らないね。」
「いえ、他の者の努力があっての結果です。決して私ひとりの成果とはいえません。」
この癖の強い先方の性格。確かに私が出張ったのが正しいといえる相手ではあった。言い方は悪いかもしれないが、性格の悪い相手や掴み所のない相手に立ち回ることには慣れていたのだから。
「この後はもうご予定などはないのでしょ?それじゃあ、良い契約を結べたお祝いでも……」
「いいのでしょうか?私だけでまとめたものではないのですが。」
「気にしないでくださいな。こうして締めを担ってくれた橘さんだからこそ、こちらとしてももてなそうという気になるのですから。」
「そ、そうですか……それでは、お言葉に甘えて。」
あまり深入りをして、余計な事態に遭遇することは避けたかった。祝いや酒席といった場は、一つ間違えれば仕事の成果を無駄にする場となりかねないのだから。
「それでは、早速行くとしましょうか。」
「えっ!もうですか!?」
「もう予約もしてありますからね。橘さんが絶対に断らないと分かっていましたからな。」
「それは……恐れ入ります。」
油断ならない契約者であった。理詰めではなく感性で物事を進めるこのような人間に対して、私は決して気を抜くことはないのであった。
◇
先方と私を合わせて、複数名による会食が続いている。然程敷居が高くないものの、提供される料理と酒は逸品ともいえるフランス料理店。気を抜くことはないものの、常日頃の会食よりはリラックスをすること出来ていた。
「どうですここは?良いお店でしょう?」
「はい。料理も酒も、よく進んでしまいそうです。」
「はははっ!気に入っていただけて何よりですわ。」
宴席の主役ということもあり、安心して酔いが回っている様子の先方。私よりも一回りか、それ以上の齢を重ね、老いた狡猾さはアルコールによって薄まってもいた。
「ですが……それ以上に、何か気付きはしませんかな。この店の雰囲気に。」
「雰囲気……ですか?」
とぼけてみせたものの、それは入店した時から感じ取ること出来ていた。入店時から現在に至るまでの間、私は接客をする店内の従業員、ウェイトレスたちに目を惹かれ続けているのであった。
「目を見ていれば分かりますよ。目移りして当然というもの。」
「うっ……!も、申し訳ありません。」
「気にすることはありませんよ。橘さんも男なのですから。」
まるで『そういったサービス』を提供しているかのような美貌の持ち主を、意図して揃えているかのような顔ぶれ。しかし、それに反して接客に不自然なところは見られず、提供される料理もまた上質であり、私はある種の違和感を持ち続けていた。
「実は……この店には料理以外のサービスがありましてね。橘さんにも是非堪能してもらおうと思ってお誘いをしたんですわ。」
「私に……料理以外の?」
小さな声でそう語る先方。私の返した言葉に頷きつつ、また周囲の参加者もにやけた顔を浮かべているのであった。
「あなたには、この店で一番の人を予約しておきました。思う存分楽しんでくださいな。」
「っ……!?」
すぐに理解することが出来た。この店は表向き真っ当なフランス料理店を経営しているが、その裏では決して真っ当ではない、むしろ法に触れるか否かという線を弄ぶ商いをしている場所であると。
「いやっ……私はその……!今はそういったことには……」
「ええ、知っておりますとも。奥方とは結構前に別れていることもね。」
「しかも、家には息子が待っていて……」
「それも存じておるというもの。それでもどうです、偶にはハメを外してもよいのでは?」
どうやらこちらの子細は、私の同僚たちから十分に聞き出しているようであった。おそらく契約交渉自体には一切役に立たない情報だったはず。だが、こうして交渉外に活かされることに不快感さえも覚えるのであった。
「どうやら、お断り出来るような状況ではないようですね。」
「ははっ!そうです、まだまだお若いのですから。据え膳には手をつけるのがよろしいでしょう。」
同性に用意をされる据え膳とは何か。だからといって、ここは意地を張るような場所ではなかった。ただ唯一後ろめいたのは、他でも家に残している我が子の存在だけなのであった。
◇
契約先の顧客、さらには店の従業員に先導されて、私は店二階の個室へと案内をされていた。
「少し待っていてほしいと言われたが……どれくらい待てばいいのか。」
どのようなサービスが提供されるのかは察しがついていたものの、この店自体の仕様には不透明な部分が多かった。そもそも、私をこの部屋に押し込んだこと自体も、何か別の目的があってのことではないか。そう疑う程度には、未だ警戒心を持ち続けているのであった。
「はぁ……あれからずいぶん経ったというのに、人を信じることは出来ないものだ。」
信用、信頼などといった言葉と無縁になってどれだけの月日が流れたか。いい加減そんな自分にも嫌気が差してきた頃であったが、他人に自らを委ねるつもりはなかった。
「まだしばらくは……来なさそうだな。」
居心地の悪い部屋ではなかったものの、手持ち無沙汰なことに変わりはなかったため、私は時間つぶしも兼ねて室内のシャワールームへと向かうのであった。
◇
「ふぅぅぅ……さっぱりしたぁ。」
仕事の疲れが取れる程度には身体を清めることが出来てしまった。何なら、今日はもうこのまま帰ってしまおうとも思うくらいに。典也はきっと、もう先に眠ってしまっているだろうが。
「典也……すまないな。」
我が子に対する申し訳なさが、何よりも先に芽生えていた。これが私の数少ない父親らしさ、そう自嘲をしようとした矢先に、遂に部屋のドアがノックをされるのであった。
『失礼します。』
「はい、どうぞ。」
先方が言っていた『この店の一番』と呼ばれる女。果たしてどれほどのものかと、もはや物見遊山の気分で待ち構えていた。少なくとも、この部屋のドアを彼女が開くまでは。
「本日は当店をご利用していただき、まことにありがとうございます。」
女は部屋に入ってくると、来店の謝礼と共に恭しく頭を下げて挨拶をしてきた。だが、既にその時、私の目は彼女の姿に釘付けとなってしまっていた。
「ご指名ありがとうございます。本日、お客様へのサービスを担当させていただくマキと申します。どうぞよろしくお願いします。」
自己紹介をしながらもう一度深く頭を下げる女。その間も私は彼女に見惚れており、その言葉を聞いていないのであった。
「お客様?どうかされましたか?」
「えっ……!?あっ、いや……よ、よろしく。」
若さに溢れながらも美しく妖艶な顔立ち、黒のドレスに身を包んだその身体は布越しでも分かるほどに豊満であり、胸の谷間を惜しげもなく露わとしていた。
男を魅了することに心血を注いだかのような容姿。その物腰柔らかく、品性に溢れる佇まいに反して、肉感に溢れた身体は私を惹き付けて止まないのであった。
「もしかして、私がお部屋を間違えたでしょうか?今回はご指名したお客様と、ご利用するお客様が別だと聞いていましたから……」
「いやっ、ここで合ってます!たぶんだけど……合ってると思うから……!」
緊張のためか、いつもより早口となっている気がした。だがそれ以上に、彼女の姿を見ているだけで下半身へと大量の血液が行き届くのを全身で感じていた。
「ふふっ……!それでしたら安心です。間違えて他のお客様の部屋に入ってしまうと、大変なことになってしまいますから。」
どうやら彼女なりに私の緊張を解そうとしてくれているようだった。確かに言葉遣いよりは年相応の女であるようだった。だが、それで私の下半身が収まったかといえばそんなことはない。
「本日はお客様を大変満足出来るように努力させていただきます。まだまだ未熟者ではありますが、よろしくお願いしますね。」
彼女が近寄ってくるほど、空間を共にしているほどに、頭と身体が性欲に支配されるような感覚を得ていた。この女を、この身体を好きに出来るという男としての欲望。久しく忘れていた感情が、瞬く間に蘇っているのであった。