開けた視界を遮るものは何一つなく、容易に俺は対面の壁紙やカウンターキッチンの全貌までを見渡しては感嘆した。
──というかそもそもはこれが当たり前の光景ではあるのだろうが、つい数時間前までの積み重なる段ボールや無造作に床に投げ捨てられた衣類の山で埋め尽くされた『腐海』さながらの光景を知るだけに、今の眺めたるやさながら別天地へと瞬間移動させられたが如き心地だった。
入居以来久方ぶりに見る壁紙やフローリングの姿はもはや記憶に遠く、もはや他人の家に来訪したかのよう落ちつかなくリビングを進む俺を見つけ──カウンター越しに顔を上げたカイリューが声を掛けてきた。
そうしてそこから歩み出してはエプロンの裾で両手を拭きながら微笑んでくる彼女は、この成果を問い訊ねるように小首をかしげた。
そんなカイリューに対する俺の第一声は……
「すごいよコレ!」
礼でも感嘆でもない、そんな語彙に貧しい子供のような賛辞だった。
「本当に見違えた……っていうかもう、新しい家に引っ越したみたいな感じだよ。俺の家ってこんなに広かったんだなって実感するよ」
言いながら興奮も露わにリビング全体を見渡すよう身を翻しては舞う俺に、それを見守るカイリューも心底嬉しそうに笑顔をほころばせてはクスクスと笑う。
そんなあどけない彼女の笑顔にその一瞬、俺は得も言えぬときめきを感じては胸を詰まらせた。
思わぬ不整脈が胸の内を叩いては、目の前のカイリューを愛おしく、そして可憐に捉えてしまう。
そうしてすっかり片付けられたリビングを進みながら多幸感に満たされる俺であったが……ふとテーブルへと目を落とした俺は──そこに思わぬものを確認しては、途端に現実へと引き戻されることとなる。
ソファと対になるローテーブルもまたその表面が輝くほどに磨き抜かれていたが、その上に几帳面に積み上げられたものを確認して絶句する。
俺の目に真っ先に飛び込んできたものは──『絶頂! 豊満淑女 魅惑のパイズリ‼』のおどろおどろしい原色のタイトル。
そしてそのレタリングの下には、たわわな巨乳の下乳房を両手ですくい上げては谷間を凝縮させた美熟女の妖艶な笑み……言わずもがなそれはアダルトビデオのパッケージ群であった。
それを発見すると同時、俺は掃除前にここで過ごしていた自分の生活もまた思い出す。
リビングが生活の拠点になっていた俺は、当然の如くプライベートな時間もまたここで過ごしていた。
彼女もいない男やもめが己を慰める方法など一つしかない……そして本来なら客などけっして招き入れぬでろう油断がこのAVと、そして処理後の残滓が包まれたティッシュ屑満載のゴミ箱をすっかり俺に忘れさせていた。
そして今そのことに気付き傍らのテレビ台に目を走らせれば──そこには整然と整理されたティッシュ箱と、そしてすっかり中身が攫われたゴミ箱がこれまた整然とテレビ台の脇に置かれているのだった。
こうまで整理されてはこれらの存在など既にカイリューには周知のことであろうに、それでも俺は慌ててテーブル上のパッケージを取り上げるとそれを尻の下に敷いては隠す。
そんな俺の突飛な行動に気付いてか、覗き込むように小首をかしげてはこちらを見遣ってくるカイリューの視線を受けながら、俺は依然として尻の後ろにDVDパッケージの束を隠し持ったまま立ち上がった。
「せ……せっかくキレイになったし、お、俺も風呂に入ってこようかなーッ」
わざとらしくも上ずる声で説明調にそんなことを嘯いて、俺はカニの移動よろしくに彼女へ前面を見せたままリビングの壁沿いに入口へと急いだ。
「き、今日はありがとうッ! ここまでしてくれればもう十分だ。俺は風呂に入っちゃうけど、好きなタイミングで帰っちゃっていいからねー。……それじゃ!」
ようやくリビングの入り口まで辿り着くと、俺はカイリューへの労いもそこそこにその部屋を飛び出した。
廊下に出て、曇りガラスが格子状にはめ込まれたドア越しにカイリューの視線が途切れると、ようやくに俺も両肩を落としては大きくため息をついた。
……こうあからさまなまでに自身の見栄や外聞を気に取られる俺ではあっても、結局は掃除の時に全ては見られては入る訳なのだが。
とはいえ向こうもプロだ。
そこは職人としてクールに割り切ってくれたのだと信じたい。
おかしな汗もかいたせいか、俺の足は自然と風呂へと向かった。まんざらでもなく、このままひと汗流そうと思ったのだ。
それに俺がシャワーを浴びている間にカイリューも帰宅することだろうことを考えると、時間稼ぎにもちょうど良いと思えた。
替えの下着も持たずに浴室に入ると、そこでもその室内が一切のくすみや黒カビのひとつとして残らずに磨き上げられている様子を確認して息を飲んだ。
あの短時間でこうまで完璧に掃除をこなす彼女の有能ぶりはもはや、人間(ヒト)ですら太刀打ちできぬ才能だ。
それだけにこれで関係を終わらせてしまうことを惜しみつつも手にしていたAVパッケージを、これまた整然と整理されたラックのタオルの上に置くと、俺は服を脱いで浴室に入っていった。
シャワーがひとつに小振りな浴槽のついたユニットバスの室内で、俺は滝のように水流を強めたシャワーを顔面から浴びた。
こうまで綺麗な風呂だと爽快感も一入だ。
しばし湯に打たれていた俺ではあったが、激しい水流の中に居たこともあってかその時、俺は自分のすぐ身近で起きている新たなハプニングの種に気付けずにいた。
一頻り頭からシャワーを浴びた俺は、その水流を止め両手で顔面をぬぐう。
そうして激しく顔全体を両掌で拭っている俺へとすぐ脇から何かが差し出された。
おそらくはバスタオルと思しきそれを、
「お、サンキュー」
そのあまりにタイミングの良さから俺も微塵の疑いもなく受け取り、しばしそれで顔面をぬぐいながら……そのタオルに顔を埋めたまま硬直した。
──……これ、誰が出してくれたんだ?
そうして恐る恐る、ゆっくりとタオルから顔を上げた俺は──目の前の光景にまた度肝を抜かれることとなる。
その衝撃的な光景に、しゃっくりのような悲鳴を上げては浴室の壁面へと背をへばり着かせてしまう俺の目の前には……──
胸元に巻いたバスタオルから乳房の谷間を凝縮させたカイリューが、満面の笑顔を俺へと咲き綻ばせていたのだった。