第1話・漂流少年
西暦339年・9月9日 少年が一人、この島に流れ着いた────
その前日となる8日未明、件の少年ニエ・ラティスが家族と乗るプリンス・マーチェ号は航路上にて遭遇した暴風雨と大海嘯により、難破寸前の憂き目とあっていた。
事の始まりは同号の船長が出航の遅延を取り戻すべく、本来ならば迂回すべき海路を直進横断するよう舵を切ってしまったことに始まる。
件の海域は『ラプラス海峡』とも呼ばれる危険海域で、年間500を超える海上竜巻の発生する危険地帯であった。
当時船長を務めた人物は、就労の僅か3ヶ月前に入社したばかりの素人であり、各種の航海や船舶に関する免許や知識はもとより、航海経験ですら長期の就労はこれが初めてと言う体たらくだった。
加えて他の乗組員も皆、経験の浅い者や畑違いの人間が集められた寄せ集めの集団であり、当然のことながら現状の災害に対処できるような経験も知識も持ち合わせる者はいなかった。
そうして起こるべくにプリンス・マーチェ号は難破し、海の藻屑となる。
船の転覆に伴い、外へと頬り出された幼き少年・ニエは雷鳴轟き山脈の如くに波々の連なる嵐の海において、その暗き水平線に無数に煌めきを見る。
時折り照らす稲光に晒されて場が明瞭になると、ニエはそこに煌めく輝きの正体を知ることとなる。
それこそは無数のラプラス達であった。
10や20では済まないそれこそ大量のそれらが水平線を埋め尽くし、嵐のこの海峡へ……難破したプリンス・マーチェ号へと集結してきているのだ。
この時の恐怖たるや、自身を襲う嵐以上の衝撃を以てニエはそれらを見つめた。
それもしかし、すぐにニエの中から搔き消えた──。
荒ぶる波に飲み込まれ、その意識は強制的に断たれたからだ。
海中に沈みこむと、海上とは一変した静寂と穏やかな無重力に揺蕩う感覚に場違いな安堵すら覚える。
そうして意識を失う瞬間、暗闇の海中から自分へと迫る二つの輝きをニエは見た。
それは己へと一直線に迫りくる一匹のラプラス──それを前に僅かな恐怖を覚えた次の瞬間には、ニエは全ての意識を失った。
落下の悪夢を見た時のよう──突如としてニエは覚醒した。
針で刺されたかのよう身を痙攣させると、その反動で跳ね起きる。
そうして自身の周囲を見渡し……しばしニエは唖然とした。
降り注ぐ太陽と白亜の砂浜、そして自分へと木陰を作っている巨大なヤシの木の光景はさながら南国バカンスのそれである。
あまりにも穏やかなそれを確認すると同時、ならばあの嵐の記憶は夢であったのかともすがる様に思い込もうとしたニエではあったが……そんな自分がよそ行きの正装に身を包んでは砂だらけになっている姿に気付き心を重くさせた。
全ては現実だった──……。
あの嵐の夜も、そして自分達を乗せた客船が転覆した事実も……ならば行動を共にしていた両親は何処へ行ったものだろう? そう考えた時、最悪の未来を思い描いてニエは激しく頭を振った。
あの嵐の海に放り出された人間が無事でいられるはずがない。
現に無傷で生還を果たした自分ではあるものの、あの嵐の大海嘯を経験した者ならば──そう、あれを経験したからこそ万が一つにも助からないことは明確に実感できるのだった。
こみ上げる悲しさと無力感に打ちひしがれては、膝を抱いて頭をうなだれるニエ……そんな彼の上に、ヤシの木陰とは違う新たな影が差した。
加えて砂を踏み分けるようなその気配に、ニエは敏感過ぎるほどの反応で顔を上げる。
それこそは生物の気配であったからだ。
自分以外の生存者が居ることの驚きと、そして期待に胸を高鳴らせたニエの目の前には──人ではない一匹のラプラスがいた。
しばし現状が理解できずにニエはそのラプラスを見つめてしまう。
ニエと変わらぬ身の丈とそして艶やかな甲羅の様子から、まだ幼体のラプラスであることが確認できた。
それでもしかし、生のそれを目の前にしてしまったニエの衝撃は大きい。
「あ……わああああッッ!?」
思わず叫んでは後ずさり、背後のヤシへしたたかに頭をぶつけた。
それでもなお、その痛みすら意に介さずに眼前のラプラスを見つめ続けるニエの胸中には激しい恐怖が渦巻いていた。
それこそはあの嵐の中の記憶だ──暗き海の水平線に揺蕩う無数の首長竜と、爛々に煌めいていた瞳。
さらには海中へと落ち込み、意識の暗転する直前にも迫り来ていたラプラスの姿を思い出した時……瞬時にしてニエの恐怖は最高潮へと達し、その幼い心を痛みに焼き貫いたのだった。
一方のラプラスはといえば、小首をかしげ困惑した様子であった。
このラプラスにニエを襲う意図はない。むしろ彼と友好的に接したいと思い近づいたにも拘らず、当のニエはといえば怯えるばかりで意思疎通など不可能な状態だ。
一体どうすればこの緊張をほぐしてやれるかと思った時、ラプラスはその場に身を横たえると、へそを天に向けては無防備な腹部をニエに晒した。
そうして無抵抗に寝そべる様子にようやくニエの恐怖も和らぐも、それでも警戒した気配はまだ解かれていない。
ならばもう一押しとばかり、ラプラスは依然として仰向けに寝そべったまま、大きく身をよじりニエへの接近を試みた。
その動きに一瞬身を縮こまらせたもののニエは逃げることなくラプラスを迎え入れた。
そうして触れ合わんばかりの距離にいても危害が加えられないことを知ったニエもまた……ラプラスへの接触を試みる。
反対方向へ身を遠ざけるよう顔を背けながら、ニエは震える手をラプラスへと伸ばし──恐る恐るに手の平をその腹部へと置いた。
途端に掌へと伝わってくるラプラスの体温に、まるで氷が溶かされるようニエの緊張は解かれていく。
人の肌にも似た柔らかい手触りが心地良く、同時に他者の体温は一人打ちひしがれていたニエの心を慰めてもくれた。
ついには両手をその上に預けてしばし撫でまわした後、ニエはそこへと顔埋めさめざめと泣いた。
ここに来てから始めて感情を外部へと発露させるそんなニエを、ラプラスもまた身を翻すと添い寝さながらに抱き包んでやっては、しばし慰撫の瞬間を共に過ごすのだった。
「君は、だれ?」
一頻り感情を発露させた後、ようやくに平静を取り戻したニエはそんな詮も無いことを聞いた。
そもそもがこのラプラスからして野生のポケモンで、自身を証明する術などは根本から持ち合わせていない存在なのである。
しかしながらニエの言っている言葉の意味は理解できるようで、しばしラプラスなりに考えた後、ふいに背を向けては砂浜を進みだした。
そうして1メートルも進むと首だけ振り返らせては短く鳴き声を上げる。そのニュアンスや仕草から想像するに、『後をついてこい』とでも言っているかのようだ。
それを察してニエもまた立ち上がろうとするが──膝を伸ばそうとしたところで腰砕けて盛大にもんどりうった。
つい先ほどまで気絶していたこと、地獄のような嵐に晒された疲労や空腹など、ありとあらゆる不調がニエの小さな背中にのしかかっては、彼をまともに立つことすら出来なくさせている。
しばしその場で起きつ転びつしていると、数度目に転倒しかけたニエを何かが受け止めた。
見れば先のラプラスが自分の元に戻ってきては寄り添ってくれている。
さらには震える足でようやく立ち上がったニエに対し、ラプラスは笛のような鳴き声を上げては自身の背の甲羅をしならせた首で指し示した。
「の……乗っても、いいの?」
思わぬ申し出に身勝手な願望を述べているのではないかと不安になるニエに対し、ラプラスはその通りと言わんばかりに大きく頷いては笑顔を咲かせる。……どうやら言葉が通じるというのは確定のようだ。
重荷にならないか不安に思いつつもその背にまたがるニエであったが、一方のラプラスはといえば、そんな子供の一人ごとき体重など意にも介さぬ様子で砂浜を進みだした。
そこからしばし、手持無沙汰にニエは海岸とそこからの水平線を望む──。
突き抜けるような青空と、さらには丸みを帯びて見えるほどに広大で穏やかな海の様子はまるでこの島が楽園であるかのような印象をニエに抱かせた。
──意外とここは天国で、僕はもう死んじゃってるのかもしれない……
まんざらでもなくそう思った時、ラプラスは目的の場所へと到着をした。
この瞬間、つい先ほどまで抱いていたニエの考えは一変させられることとなる……。
『天国』などと思ってやまなかったこの場所が、紛う方なく『地獄』であることをニエは思い知らされるのだ。
辿り着いた別の海岸には大小のラプラス達がいた。
そしてその足元や周囲には、無数の人間の死体が──ラプラス達の取り囲むそこに山と積まれているのだった。