人には見てはならないものがある──それこそは死に纏わる内容だ。
もしそれを目にしてしまったら、その事実を受け入れてしまったら……心は破壊され、生涯その心の不具を抱えたまま不均衡に生きていかねばならぬ。
幼いニエであってもその危機を本能で察し、そして心と体はその両方を以てニエに目の前の事実の確認を拒絶させた。
それでもしかし、ニエの視線は目の前に積み上げられた死体の山へと吸い込まれていく。
そこに、在ってはならないものを発見したからだ。
「ああ……あああ………」
重ねられた死体の一角に──
「ッあああああああああ」
ニエは己が母の姿を見つけた。
青褪めた肌と苦悶に歪められたまま瞳を閉じる面相の母はしかし、斯様にして絶望に打ちひしがれる我が子を前にしてももはや、それを慰めてくれることは無かった。
既に『母』であった物はただその他大勢の死体の一角となっては、残酷なまでの現実をニエへと見せつけるばかりであった。
震える足で幾度も転びながらニエは母の死体の元へと歩み寄る。
そして恐ろしいほどに硬く冷たくなった母の頬に両手を触れた瞬間──ニエは壊れた。
母の死体に縋り、ただ震えることしか出来なくなった。
悲しみ、ひいては泣くという反応は人間性が維持されてこそ可能な行動である。
今のニエには到底それらを機能させる精神や肉体の働きは停止されてしまっている。
そうして母の遺骸に縋りついたまま震え続けるばかりのニエへと、ふいに何者かの体温が触れた。
それこそはここまでニエを運んできてくれたラプラスだった。
傍に寄り添っては、抱き揉むようにその長い首根をニエの頭に絡めるもしかし……ニエは彼女の存在に気付けない。精神は復調の兆しを見せはしない。
それでもしかし、斯様なニエへと次いで何者かの体温がまた触れた。
今度は傍らにいた大人のラプラスが鎌首を下げてはその額をニエの背中に押し付けたのだ。
そしてそれを皮切りに──場にいたラプラス達は次々とニエの周囲に集まるや自分の体の一部を押し付けては、己の体温とそして言葉にならぬ哀悼や憐憫の情をニエへと集めてくれた。
そうして小さな体温が寄り集まると、ニエは見失っていた自身の心をラプラス達の集合意識の中にて再確認した。
肉体の温もりに気付き、そしていつしか我に返った時──ニエは泣いていた。
気付けば傍らの幼いラプラスを抱きしめては、心から母の死を嘆き悲しんでは声の限りに泣いている自分がいた。
それこそはラプラス達の心と体温がニエの心身をよみがえらせた瞬間であった。
それからの三日三晩をニエは泣いて過ごす。
その間も傍らにはあのラプラスがいてくれて、彼に抱かれることで体を温め、時には口移しに食料や水を提供してはニエを生き永らえさせてくれた。
そうしてようやくに全ての事実を受け入れ、母と……そしておそらくは父も含めた両親の死を受け止めた時、
「………ありがとう……いつもそばにいてくれて……」
死の酩酊からようやくニエは覚醒を果たした。
毎度の、ラプラスが口嚙みをして与えてくれる流動食を飲み込んだニエは、初めてあのラプラスに感謝の言葉と想いとを伝える。
そんなニエの反応にラプラスは目を丸くしては驚愕し、そして食事などそっちのけで頭を押し付けるや、横たわるニエを激しく愛撫した。
辛うじて身を起こし、島内の散策へ出ようとするニエを抱き支えると、ラプラスは再び自分の背へと乗せて、ヤシの木陰の寝床から歩み出る。
まだ体力の回復し切っていないニエはラプラスの首にもたれているのも精一杯であったが、それでもあの日見たラプラス達の行動の理由を知っておきたかったのだ。
「ねぇ……あの砂浜に、行ける? 僕の……お母さんが、いたところ……」
まだ発声も上手くいかず、辛うじてラプラスの耳元でささやくと、ラプラスは暫しの逡巡の後──やがてはニエの望む場所へと歩み出した。
かくしてあの海岸に辿り着くと、そこに母を含めた死体の山は無くなっていた。
代わりに前の者達とはまた別であろう新たな死体が数体、浜に並べられているのが窺えた。
そしてその周りにはやはりラプラス達が集まっては、そんな死体に黙祷を捧げるかのよう首をうなだれては悲痛に瞼を閉じているのだった。
この段に至り、ようやくニエはラプラス達の行動の意味を理解した。
彼らは救助活動をしていたのだ。
あの難破船の乗客達の死体を海から見つけてきてはこの海岸に揚げ、そしてその死を確認してはそれを弔ってくれていたのだった。
ニエの船が難破したあの夜──あそこに集まってきていた無数のラプラス達は、皆あの船の救助に駆け付けてくれたのだとニエもようやくに理解する。
そして海に沈むニエへと迫ってきたのは──
「あれ……君だったんだね………ありがと」
今この身を預けている幼きラプラスであったこともまた知ると、ニエは力なくその首筋に感謝のキスをした。
それを受け、ラプラスは悲しみに暮れるニエを気遣いつつも、内部に生じた強い喜びへ胸焦がさんばかりに高揚する。
そしてはそれを示すよう長い首を振り向かせると、ラプラスもまたニエの唇を奪った。
柔らかいラプラスの唇が何度も愛おし気にニエの上唇をついばむ。
そんな愛撫を受けながら、いつしかニエは眠りに落ちるような心地で意識を失った。
そうして完全に暗転するその瞬間までニエはラプラスとのキスを続け……
彼女の体温がそうやって口づけ越しに肉体へと伝わるごとに──ニエは人として再生していくような心地がした。