0時路の完成が数日後に迫っていることを知って以来──ニエは海を眺めて過ごすことが多くなった。
頭の中には実に様々な考えが巡っていた。
それは当然の如く0時路を辿ってこの海峡から脱出する思惑であり、それに伴う強い望郷の念だ。
しかし同時に……このままこの島に残り続け、ラプラス達と暮らしていきたいという未練もまたニエを悩ませ続けていた。
今も隣に寄り添って体を預けているラプラスを手持無沙汰の撫でてやると、彼女は切なげにか細い声を上げてはニエに甘える。
思えばあの大海嘯の中から自分を救い出してくれたのも彼女なら、この島での生き方や様々なことを教えてくれたのもこのラプラスであった。
0時路をラプラスに乗って突破したとして、その後ラプラスはどうなるのか?
利用するだけ利用して、後は帰れと追い返すつもりか……その場面を想像した時、ニエは自己嫌悪で胸が潰れる思いがした。
斯様なことが頭の中で堂々巡りをするうちに10日間は瞬く間に過ぎていった。
そして西暦339年10月20日──もはや0時路の50年周期を今日に迎え、それでも消沈したまま悩み続けるニエの前に……いつものラプラスとは別の個体が姿を現した。
その大柄な体躯と数種の海貝を甲羅に纏わせた姿からも相当の高齢と見受けられたそれは、ニエの隣に着けて共に海を眺めた。
しばしして……
「ッ? な、なぁに……?」
鎌首をうなだれては、大蛇が得物を選りすぐるかのようその顔を覗き込んでくるラプラス。
そんな突然の接触に驚くニエをしばし見据えた後、突如として彼女はその襟首を咥えて持ち上げると……そのままニエを自分の背中へと乗せてしまう。
そして何を告げるでもなく海へと入っていき、そのまま沖へと泳ぎ出すラプラスに
「え、ええ? どこに行くの? あ、あの……島が……」
ただただニエはうろたえるばかりであった。
思えば、いつもならニエの側にいて離れないあの子ラプラスが今日に限っては朝から姿を見せなかった。そして今の大ラプラスに突如連れ去られての入水である。
ただ戸惑い続けるままのニエを乗せ、そこからラプラスは数時間を泳いで沖を越えた。
すでに背後にはすっかり水平線が盛り上がり、ラプラスの島も見えなくなってしまっている。
そしてこの段に至り、ようやくニエはこのラプラスが自分をどこへ連れていこうとしているのかを理解した。
それに気付くと同時、海上を進んでいたラプラスの動きが止まった。
そこから確認するように顔を上げたニエは、目の前に広がるその光景に思わず息を飲む──。
見上げる空は、
「うそ……空が、割れてる?」
海上から遥か天空に至るまで、その左右には黒々とした雷雨暗雲の空が絶壁さながらに立ち上がっていた。
そしてその中央を切り取られたかのよう晴れ渡った空が──天国への階段よろしくに陽光を射しては、穏やかな一本の航路をニエの前に広げていた。
『0時路………』
その光景にニエは思わず呟く。
そして同時に、ニエはここまで自分を乗せてきてくれたラプラスの正体もまた知ったような気がした。
彼女こそはかの50年前──ガレンを背に乗せてこの航路を辿ったラプラスであったのだ。
あの日もそうであったように彼女は今再び、迷える子羊を現世と異界の境界へと導いてきたのであった。
しかしそんな0時路を前にしたまま、ラプラスは微動だにしなかった。
それこそはニエの返事を──彼の最終決断を待っているに他ならない。
その選択の岐路に立たされニエは激しく自問し、そして逡巡した。
このまま帰れたのならば、今日に至るまでのすべては夢として終わる。
嵐の恐怖……父母の死……そしてラプラスとの出会い──いつしか時の流れに慰められては、それらだって思い出すことすらなくなるだろう。
今日この瞬間にまでいたる全ての苦楽が忘却の彼方へと消え失せるのだ。
そう考えた瞬間、ニエの心は決まった。
ラプラスのうなじにもたれて進むべき路(みち)を彼女へ指し示すと後は──我が家への帰路をニエは辿るばかりだった。
その日の朝、いつものようにニエの元へ向かおうとするラプラスを他の仲間達が制した。
何故を問う暇も与えられずに隔離され、やがては一族の中でも最年長のラプラスの前へと連れていかれる。
そこにてようやくラプラスは、今日がニエとの別れの日であることを告げられた。
狼狽えるばかりのラプラスは、ならば最後に一目でも、一言でも想いを交わさせてほしいと懇願するも──それも無下に却下された。
一連の仕打ちはけっしてこのラプラスを虐げる為に行っているものではなかった。
むしろそれは温情に依るところであり、これ以上の触れ合いを許せば惜別の情はさらに募り、後にも長く彼女が苦しみ続けるであろうことを危惧しての処置であったのだ。
それから数時間の軟禁を解かれた後、彼女は島中を隈なく巡った。
島外へ出て行かれた可能性も考えたが、海に出られたとあってはもはや探しようもない。
自分一人で捜索が行える場所を考えた時、それはもう島の中しか残されてはいなかった。……もう既に、この場所にニエが居ないことなどは百も承知でありながら、ラプラスの幼く脆い心は悲しみの現実逃避を島の探索へと向けたのだった。
そこから数時間を掛けて島中を探索し、いつしか疲れ果てたラプラスが辿り着いた先は──ニエと過ごしたあの丸太小屋であった。
部屋の中頃まで進むと、精魂尽き果てては長い首をうなだらせる。
ここへ来れば、ここへ逃げ込めばこの悲しみも癒されようと考えての行動ではあったがしかし……この場所にて今ラプラスが感じているものは、より強い孤独と喪失感の再認であった。
此処にはあまりにも強くニエの思い出が残っていた。そしてそんな場所はラプラスを慰めるどころか、一層にニエの喪失を思い起こさせては彼女を涙に暮れさせるのだった。
そんな折──出入り口の蝶番が小さくきしむ音がした。
すっかり泣き疲れたその顔を上げてそこを望むと、そこには前屈みになって大きく両肩を上下させる何者かの影が見えた。
出入り口からの逆光でその顔こそは見えないがしがし──その匂い、その息遣い、そしてその声はラプラスに十分すぎるくらいの確信と感動を以て、その人物が何者であるのかを伝えていた。
「……ただいま、ラプラス」
一語一語を噛みしめるよう発してラプラスへと歩み寄ってくるのは──
「帰って来たよ」
誰でもないニエその人だった。
その瞬間、今までの疲労や悲しみなど嘘のようラプラスは床を蹴り弾いてニエと抱き着く。
そうして万感の想いを込めては泣き続けるラプラスに組み敷かれながら、ニエもまた彼女を抱きしめた。
ニエはこの島へと帰って来た。
0時路を辿ることなく元来た道を引き返すと──ニエは最愛の人の待つこの島への家路についたのである。