この島で生涯を終えることを決意したニエはその日──あの0時路へと導いてくれた老ラプラスに誘(いざな)われ、島の中央部を訪れていた。
密林然とした森を抜けると途端に視界が開け、目の前には今までの木森が嘘のような草原が広がる。
周囲を森に囲まれて、この場所ただ一点が穏やかな平地となっている様は、さながらにラプラス海峡とこの島の縮図のようだとニエは感じた。
その草原の中をしばし進んだ後、老ラプラスは歩みを止める。
俯き加減に足元へと視線を落としている老ラプラスに釣られてニエもそこを見ると……足元には50センチ四方程度の石板が、足の低い草々の中から頭を覗かせていた。
やがてその石の表面へ老ラプラスが咥えてきた花を一輪供えるのを見ると、ニエはこれが『墓石』であることを悟る。
そして同時にこの墓がこの島の先住者であったガレン・ビザールの物であることもまた無言の内に理解したのであった。
それを前にしてニエもまた黙祷を捧げる。
彼の残してくれた手記や建物がどれだけ今のニエを助けてくれているか知れない。
顔も知らなければ面識などももちろん無いガレンではあったが、なぜかニエはそんな彼に家族にも等しい親近感と感謝を覚えてしまうのだった。
しばしそうして祈りを捧げていると、ふいに老ラプラスはニエを促しては墓の前にひざまずくように促す。
訳もわからず言われるがままに墓石の前へ屈みこんだニエは、一枚岩だと思っていたそれが上下に分離する箱と蓋の作りであることに気づいた。
振り返りそのことを尋ねるように視線を送ると老ラプラスもまたゆっくりと頷く。
改めて墓石と対峙したニエは、その縁に手を掛けて力の限りにそれを引き起こした。
墓石の蓋は縁に芝や土を張り付けたまま分離をする──そうしてニエの目の前に露となったものは、石棺の中に納められた一冊のノートだった。
震える手でそれを取り出して、その1ページ目をめくる。
西暦289年の10月21日から始まるそれは──間違いなくガレンが0時路を訪れた後の手記であった。
西暦289年 10月21日・記──
眼前に0時路を確認して持論を立証した瞬間──私の人生の大半は此処に終わりを告げた。
私は0時路へ入ること無く、ラプラス島への帰路を辿った。
この島へ漂着してから34年……それこそ最初の頃は強い望郷の念にかられて脱出の努力を重ねてきた。
あの頃は共に流れ着いたポケモン達や、友好的なこの島のラプラス達も数多くいて、私も若かったことも手伝い、この海峡から脱出することも不可能ではないと思っていた。
しかしながらあの海峡のことを知れば知るほどに私の自信は揺らいでいった。
ようやくに唯一の突破口となる0時路の発見にはこぎ着けたものの、それが実現されるためには更なる時の経過が必要と知り、私は酷く絶望した。
その間にも私は多くの仲間達を看取った。
一人また一人と見送る度に私は彼らの無念を思って心を重くさせたが、振り返るに今際の際の彼らはその誰もが微笑み、そして私や仲間への感謝と励ましを口に旅立っていった。
当初私はそれを、残される仲間達への気遣いなのだと思い、なおさらに使命感を強くしたものだったが今この段に至り、いよいよ以て自分の人生の先と言うものが見えてくると、そんな彼らの辞世は本心からのものだったと確信するに至った。
確かに私達はこの海峡からの脱出を共通の目標としてきたが、既に彼らにとってはこの島こそが新しい人生のステージであり、そしてその場所で目標を持って生を全うできたことは、たとえそれが叶わずとも甲斐の有る人生であったのだろう。
彼らはもう外部から来た異邦人なのではなく、この島の住人だったのだ。
そしてそれは斯く言う私とて変わりはしない。
私にはティアがいる。
思えば彼女はこの島に流れ着いた時からずっと私へ献身的に尽くしてくれた。
0時路の調査の為、嵐の海へ漕ぎ出す時もいつも彼女が私を背に乗せてくれたし、プライベートにおいても大いに私を励まし、そして慰めてくれた。
いつしか私にとっての0時路における調査はもう初期の目的から外れ、彼女と共に完成させるべき人生のライフワークになっていった。
だからこそ、あの0時路の存在を立証できた時の感動を私は忘れられない。
あの日、私と彼女の人生はここに一つの完成を見たのだった。
それだけでもう、私は十分だった。
もはや元の世界に戻ろうだなんて思わない。
私の帰るべき場所はあの島なのだ。
仲間達が眠り、そして最愛のティアが居るあの島こそがもはや私の故郷だ。
もし、この手記を後に読む者がいた時、私の感傷に感化されてその者が誤った判断をせぬよう、手記は島で暮らす為の知識や0時路に関する研究をまとめたものと、そしてこの手記とに分けて保管することにする。
願わくば、この島を訪れる者が運命に悲観して絶望せぬことを祈る。
そして願わくば、愛する者とこの地で永久(とわ)に安寧と過ごせることを神に祈ろう。
この美しき世界の中心で、私がそうであったように。
その後のガレンの手記は、脱出の義務感と研究に没頭していた頃の険しさが落ち、打って変わっては日々の何気ない変化を見つけては楽しむような内容が主となった。
その中にはティアなるあの老ラプラスもまた幾度となく登場しては、時に読んでいるニエが恥ずかしくなるような仲睦まじさをガレンは楽しむように記していた。
そんな手記も年代が進むとその執筆間隔が長く空くようになり、そしてガレン82歳の春に、風邪に掛かったことを報告する内容を最後にそこで途切れた。……おそらくはその後に亡くなったのだろう。
元よりこの小屋にあった手記と併せ、斯様なガレンの生涯を通読したニエは、ふとそこに自分自身を顧みてみた。
ガレンに比べ自分の方がずっと歳も若ければ、彼以上にここでの生活は長くなることだろう。
はたして先日、0時路を通らずにこの島に残ったことは本当に正解だったのだろうか?
しかしそんな考えに囚われると必ず……
「……ん? あぁ、ラプラス。もう寝るのかい?」
ニエの隣にはあのラプラスが寄り添ってくれてはニエの心を慰めてくれた。
そんな時、ニエは決まって心に思い描く未来像がある。
彼女と今日を過ごし、明日を迎え、そしていつかは過ぎ去った日々をたくさんの思い出と共に振り返る──そんな日にニエは思いを馳せるのだ。
「先にベッドで休んでて、もうちょっと作業したら僕もすぐに行くから」
愛おし気に口づけをしてベッドへと歩んでいくラプラスを見送って再びニエは机の手記へと意識を戻す。
ふと──思い付き程度にニエはペンを取った。
そしてガレンの手記が終わった次のページへとペン先を置いてしばし考える。
ニエもまた、この島における自身の生涯をここへ綴ろうと思ったのだ。
目を閉じて何から書いたものか考える──あの嵐の夜の恐怖と両親との死別、そしてラプラスとの出会いと0時路を間近に控えた時の葛藤……思いは溢れ出流とも、不思議とペンは重くニエにそれを綴らせようとはしなかった。
斯様にして自身を振り返った時──自然と込み上がった涙が一滴、頬を伝った。
そうして小さく息を吸い込んで瞼を開くと、ニエはまっさらな白紙へと自身の出自から書き残すこととした。
万感の想いを込めてそこへ、ニエは全ての始まりとなる一文を記す。
西暦339年・9月9日 少年が一人、この島に流れ着いた────
【 ラプラス海峡漂流記・完 】