第1話・奇禍の封抜
近年に無い猛暑に苛まれたその夏──ツェン家の一子であるリンと、その眷属(パートナー)であるヒスイガーディは同家の地下深くに在った。
古来より此処には『凍裂』なる厄災が封じられているとの伝承が在り、リンのツェン家はその監視役となって封印の守人を務めてきたという由来を持つ。
一族にとってこの場所は禁忌の地であると同時にしかし、季節の折り目には多種多様の儀式も執り行われる聖地的な役割もまた果たしてきた場所であった。
当然のことながら斯様な場所へ軽々しく足を運ぶなどは、厳格に禁じられてきたことではあったがこの日──あまりの暑さに耐えかねたリンは、ガーディを伴わせては密かに此処を訪れていた。
「はわ~……ほらねー? やっぱりここ涼しいんだー♪」
地下三階、そしてここへ至るまで三重の扉を経て隔離された此処は常に冬の如き冷気を満たしていた。
隙間なく敷き詰められた石畳と同じくに石積みで作られた正方形の石室は、入り口から突き当りまでの到達に大人の足でも数分を要する広さであり、その天井にあっても懐中電灯の光が広く拡散されてしまうほどの高さを誇っていた。
さながら屋内運動施設といった趣すらある此処は、この夏の酷暑の中にあっても厳冬の如き静謐さをそこに保っている。
この場所における稀有な室温のことを知るリンは浅はかにも避暑の目的で此処を訪れていたが、それに随行したガーディは気忙しげに周囲へ視線を巡らせては幾度となく主人へと帰還を促していた。
ポケモン特有の鋭敏な感知能力は、一目にしてこの部屋の持つ異常性を察知していた。
その気配は既にこの地下への石段を下り始めていた頃から感じていたものであり、此処へ至るまでの扉と石室を通過するごとに深まっていった斯様な違和感は、この部屋においてついに確信へと変わった。
何者かが──此処には居る。
そもそも代々に受け継がれてきた『封印の守人』なる役割は、けっして前時代的な儀礼などではない。
古来より受け継がれてきた数々の儀式はその全てに意味があり、そしてそれを折り目正しく執り行う理由こそは、文字通りにここに封印された『何者か』を慰める為の物であったのだ。
そのことを本能的に察したガーディは、斯様な場所からの退去を再度主人へと進言するも……一方のリンはといえば、一人臆することなく部屋の中を進んでいってしまう。
やがては突き当りまで辿り着き、そこにて壁面に描かれたそれを目の当たりにし、小さなリンはそれを見上げた。
中央に眼球のような二重螺旋を置き、そして上下左右に対称となる直線を幾何学模様に配したそれは、その周囲が丸く縁どられた意匠からもリンには巨大なモンスターボールの様に見受けられた。
強い警告を意味するかのよう発色鮮やかな黄金で描かれたそれは、さながら紋様自身が発光しているかのような錯覚に陥る。
そんな紋章めいた壁画を前にして、
「なんだろうねコレ……すごくキレイ……」
さながら宵闇を彷徨っていた羽虫が電光へ惹きつけられるかのよう、リンは茫然自失とそこへ近づいていく。
一方でそれを目の当たりにしたガーディはそんなリンのワンピースの裾を噛んでは必死に引き留めようとする。
ガーディにとって眼前の紋様は、凶事の先触れ以外の何物でもなかった。
この紋様と対峙する時に覚える恐怖は、さながらに雪崩を目の前にしたかの如き圧倒的な絶望感を以てガーディの心臓ワシ掴んでいた。
ついには後ろ足だけで立ち上がると、その前足でリンの背中を抱いては引き止めようとも試みるも──リンは子供とは思えぬ力強さで其処へと歩み続ける。
やがては紋様の前に立ち尽くすリンへ新たな変化が現れた。
其れはもとより其処へ在ったものか、あるいはリンを招き入れた何者かが用意したものか──彼女の目の前にはその胸元ほどの高さの『杭』が一本、同じくに黄金の輝きを放っては屹立していた。
その先端に傘を思わせる角度なだらかな三角錐の設けられたそれは、その頂点にまるで手を掛けることを誘うかのような円環が置かれていた。
そしてリンはその思惑を辿るかのよう、そこへ両手を被せる。
その行動にガーディは一際大きな声を上げた。
もはや威嚇とも取れる剣幕で無礼に吠え立てるも、今やそれらガーディの声すらもリンには遠い。
猫のよう胸の前で水平に両手を揃えては円環を握りしめるや次の瞬間──リンは難なくそれを石畳の足元から抜き取ってしまうのだった。
年月を思わせるその黒く重厚な杭はしかし、重量や摩擦といった一切の物理法則にとらわれぬ動きを見せてはスムーズに抜き去られ、土中に埋もれていた筒身を外気に晒すやたちどころに灰塵と化しては消え失せる。
そしてそれと時を同じくして、眼前の紋様にも変化が現れた。
足元を鳴動させつつそこへ光を帯びると共に、平面であったはずの壁面は紋様を湾曲させながら立体的にその身を盛り上がらせ始める。
見る間にそれは半球状にせり出してきてはやがて、その淵を一際強く発光させるや次の瞬間──浮き上がるかのよう壁から剥がれ落ち、その内部に秘めていたものを一同の前へと晒した。
もはやこの段に至ってはガーディもまた、袖手傍観して変わらずにその光景を見守り続けるしか出来ない。
斯様にして露とされたそこには……洞が一つ、穿たれていた。
この暗がりの地下よりも更に闇深いその中より、この深淵を包み込む冷気よりも更に悍ましい気配が溢れ出流る。
そこに封印されていたものが今、この世に放たれてしまったことをガーディは確信した。
此処に何が封じられているのかなど見当はつかなくとも、それがけっしてこの世に在ってはならない存在のモノであることは、古来より引き継がれてきた本能が知識以上の確実さを以てガーディに教えるのだ。
現世へと漏れ出した気配はやがて、そのモノの鳴き声とも瘴気の渦巻く風の音(ね)ともつかぬ音を周囲へと響かせる。
それは呪詛だった──。
曰くある言語においては切断を意味し、またある言語においては慈悲無き殺戮を意味するその言霊……それらにまつわる凶事は、全てこのモノの声に由来しているのだ。
瞬く間にその気配は石室を覆いつくす。
さながらに陽が雲に陰るかのよう急速に、そして液体のよう侵食しては石室内を包み込みやがて──それは誰でもないリンへと収束を始めた。
「あ、あ、あああ………」
既にあの杭を引き抜いた時から心ここにあらずであったリンの表情は、一層に色を失くし、ただ無表情にそれが幼き肉体と心の器を満たす感覚にうわごとを上げる。
その時になって初めてガーディは我に返った。
場に満ちる邪悪の根源はいま、リンの全てを喰らいつくそうとしている。
出遅れてしまったことの後悔を噛みしめながら、それでも彼女を少しでもこの場から遠ざけようと再びリンの背後へと駆け寄ったその瞬間──閃光の如き速力を以て身を翻したリンの右掌が、裏拳を以てして激しくガーディの鼻先を打ち弾いた。
突然の一撃に打ち払われては、激しく地に身を擦り付けてもんどりうつガーディ。
そうしてうつ伏せに身を横たえたまま、しばしガーディは身動きとることも叶わなかった。
誰でもないリンに暴力を振るわれたことへショックからそうなっているのではない──ガーディを行動不能にまで陥らせてしまった理由こそは、単純に彼の需要量を越えるダメージの大きさに所以する。
あの細身の少女から放たれたものとは思えぬ破壊力の直撃を受け、ガーディは一撃の元にノックダウンを余儀なくされたのだ。
それでも震える頭を辛うじて持ち上げては、揺れ続ける視界の中にリンを捉える。
ガーディを打ち払った姿勢のまま振り切った右手を宙空に留めた姿勢で、リンは依然そこに立ち尽くしていた。
完全に拳は握らず、指々の第二関節までを曲げて掌は解放させたその形は、さながらに猫科獣の蹠(あしうら)を思わせるような形に握られていた。
やがてはゆらりと頭が持ち上がり、その重さにバランスを崩しながらリンは振り返る。
切りそろえた前髪の隙間から覗く眼球は従来の白目が暗青色に反転し、その中央に切り込まれた白き瞳孔を以てガーディを捉える。
『あれから……幾星霜を、数えた事か……』
発せられる声は明らかにリンの物ではない。
それはまだ自由の利かない体を油の切れた機械のよう途切れ途切れに動かしてはガーディへと向き直る。
『西領では……あの女狐と青二才に……まんまとしてやられた……そして惨めにも封じられ……妾は今此処に居(お)る………』
己が境遇を語り聞かせるとも独り言つともつかない口調で呟きながら、リンは前傾に背を沈め、両肘を腰に付けた。
そして僅かばかりに肘から先の両腕を左右へ展開させると、その掌は再び蹠の形へと象られる。
『西領より引き離されはしたが……未だ妾の膂力は健在よ………その証明を、この者の一族の血と引き換えに証てみせようぞ……』
元の端正であどけなかった面影など微塵も感じさせぬ面相で眉間に険を込めると次の瞬間──天に向けた左右の掌より、それぞれに黒き刀身が皮膚を突き破っては出現した。
その切っ先に氷刃を宿し、稲光を思わせる刃紋を纏わせた漆黒の刀身……それを宙空にて擦り合わせ、不快な金属音を奏でては左右へと振り払うと……──
その名乗りと共に厄災パオジアンは、改めてガーディを見据える。
『まずはこの身の慣らしと……そして幾星霜にも渡る封印の憂さを、お前の血肉で贖ってもらおうか!』
その口上が終えるともつかぬうちにパオジアンは──猛々しくも飢えた獣の如くにガーディへと打懸るのだった。