目覚めた時──その全ての『真実』にエンジは愕然とした。
今までのネッコアラとの日々はすべて……
「…………夢?」
その事実を受け入れるに混乱し、そして困惑しきりのエンジはしばしベッドから起き上がることが叶わなかった。
しかしながらどんな内容であったとしても夢の常として、徐々に脳が覚醒して来るにつれてはエンジも冷静さを取り戻していった。
そうしてすっかり覚醒を果たしてベッドから降りる頃には、
「はぁ……ひどい夢だったなあ」
小さくため息もひとつ──ネッコアラとのあの、嵐のような数日間は既に夢幻の出来事と脳内で処理されては、すっかりエンジも平常へと戻っていた。
同時に今日、妹の為にネッコアラがこの家にやってくることも思い出す。
それについて昨晩、両親に妹にポケモンの世話はまだ早いと進言したばかりであった。
だからネッコアラの夢なんて見たのかと、照れ隠しに苦笑いもしてみせるエンジではあったが……すぐにその笑いは消え、頭の中にはネッコアラと過ごした日々が湯水のように湧き上がってくるのだった。
彼女の匂い、体温、毛並みの手触りやそして膣や唾液の味に至るまで……それらを思い出した時、新たに胸へ去来したものは言いようのない喪失感だった。
それでもしかしエンジは頭を振り払って、それから目を背けようとする。こんなことをいつまで考えていても詮無いからだ。
実際の別れであったならまだしも、それらネッコアラの記憶は全ては夢であり、いうなればエンジの妄想に等しい。
そんな有りもしないものに心を囚われていることは我ながらに馬鹿馬鹿しかった。
「コーヒーでも飲もう……」
とりあえず気持ちを切り替えようと、エンジはパジャマ姿のまま部屋から出た。
リビングとを隔てているカウンター向こうのキッチンでは母が甲斐甲斐しく動いていて、リビングのソファには珍しくパジャマからすでに着替えた妹が座っては、なにやら真剣な様子で本を読んでいた。
「なに読んでるんだ?」
「ポケモンのほーんー」
別段として会話を脹らませるつもりなく、ただのあいさつ程度に声を掛けては妹の後ろを歩くエンジは、彼女が熱心に見つめているその雑誌を背後から一瞥した。
今日ネッコアラを迎え入れようというのに、既に妹はといえばそこで躍動的に体を伸ばすピカチュウのグラビアに鼻息を荒くしている。
これは現実世界でもネッコアラの命運は尽きたなと呆れるエンジではあったが……とあることに気付いて足を止めた。
──もしかして……未来は変えられるんじゃないか?
ふとそんなことを思った。
あの夢の中において、ネッコアラは妹から飽きられてエンジがその世話を焼く羽目となった。その結果としてあんな過ちを犯してしまったわけで、もし妹があのままネッコアラと親密な関係を構築できていたならば──エンジが過ちを犯す未来(ルート)もまた回避できるのではないだろうか?
あの一連の夢は、それを叶えさせるための掲示だったのだとエンジにはまんざらでもなく思えた。
そう確信すると体は無意識に──
「ピカチュウなんて見てるな! 今日はネッコアラがやってくるんだろッ?」
エンジは妹から雑誌を取り上げる。
突然の兄の暴挙に驚いては頬を脹らませる妹の隣に腰かけながら、エンジは雑誌のページをめくってネッコアラをそこに探す。
そしておあつらえ向きにその特集が組まれているページを見つけるや、
「見ろ。ピカチュウなんかよりもずっと可愛い」
妹の肩を包み込むようにして腕を回すと、その眼前に大判グラビアのネッコアラを広げてみせる。
「ピカチュウなんてみんな持ってるから、そんな奴と一緒にいたって目立てないぞ?」
「でも可愛いし……」
「こんなの見た目だけだって。ネッコアラなんて誰も持ってないんだから、もしミチが連れてたら注目の的、間違いないな。それにほら……幼稚園のユート君だっけ? アイツもきっと青いネッコアラのこと気に入ってくれるぞ」
「ユートくんがッ!?」
思わぬ名前の登場に俄然、妹の目が爛々と輝く。
かのユート君は妹が密かに思いを寄せる園の男子だ。出任せにその名を口にしたエンジはしかし、その効果絶大の様子にこれこそが妹攻略の一手だと知る。
「間違いないね。だってネッコアラは4歳男の子の中でも超人気のポケモンだからな。そんなネッコアラをお前が幼稚園に連れていったらどうなると思う? ユート君だけじゃなくて、男子の注目はみんなお前の物だぞ?」
「ユートくんだけじゃなくて? タクトくんも、レイシーくんも、アーキくんも、ツォルくんも!?」
「あ、あぁ……たぶんね」
4歳児とはいえ立派な『女』であることを妹の中に感じ取っては気圧されるエンジではあったが、作戦は見事に成功を収めた。
もはや妹は件の雑誌からネッコアラのページを破り取ってはそれを胸に小躍りまでする始末だ。
とはいえしかし、エンジの企みは功を奏した。
後は彼女が飽きてしまわぬように今後のサポートを影ながら徹底してやればいい。ある程度の情が移れば、以降は無下に突き放すことも無いだろう。
斯様にして未来を変えられたという確信を胸に安堵する一方、一抹の寂しさもそこに覚えないでもなかった。
これにて自分とネッコアラの縁は、完全にこの世界線からは消滅したのである。
それでもしかし……
──あの夢だけで十分だ……
あの燃えるような数日間の記憶を胸に、改めてエンジはネッコアラとの関係を自身の中で決着せしめたのであった。
そんな折、玄関先から帰宅を知らせる父の声が響いた。
その声にリビングの一同は顔を上げ、真っ先に妹が走り出していく。
次いでそれを母が追い、エンジも気は進まぬもとりあえず妹の動向をフォローしようとそこへと赴く。
一足遅れて辿り着いた玄関では、何かを胸元に抱かえて身を屈める父と、そこへ両腕を伸ばしては幾度となく飛びつこうとしてはそれをせがむ妹の後姿が窺えた。
そしてエンジもまた改めて父の腕の中のそれを視界に入れ──思わず固まった。
そこには確かにあのネッコアラが居た。
例の枕木を抱きしめては身を丸める姿は、あの夢の中で情を交わした彼女に間違いなかった。
その瞬間、強く鼓動が脈打ちエンジはなおも続く不整脈に呼吸を乱した。
──落ちつけ……落ち着くんだ。あのネッコアラは違う。まだ僕とは何の関係もないポケモンだ……!
そう思いつつも無意識に足は動いてあのネッコアラへと近づいていく。
そうして妹の背後に着き、父の腕の中のネッコアラを見下ろした時──不意にネッコアラもまた顔を上げた。
刹那……本当に僅かなその瞬間、二人の視線が交わされるや互いは互いの存在を確認し合った。
眠るネッコアラの目が僅かに開かれる様子に妹が声を上げたが、その視線はエンジに向けられている。
そしてネッコアラは自ら父の手を離れると、そこから身を躍らせた。
それを前に自分の胸の中へと飛び込んできたのかと喜色満面に眼を輝かせた妹であったが──無情にもネッコアラはその頭を踏み台にした。
さらにそのつむじを踏みしてめて跳躍するや、ネッコアラはエンジの胸の中へと飛び込んだ。
エンジもまた受けとめるようネッコアラを抱きしめた瞬間──二人の夢と現実世界は繋がってしまった。
見上げてくるネッコアラと改めて視線を交わすと、エンジもまた涙腺が無意識に緩むのを感じる。
ようやく会えた──そう思った。
そしてそれはネッコアラもまた同じ気持であったとも確信する。
二人が想いを交わしたあの世界は確かに『夢』であったのかもしれないが、その夢を共に共有していたことは紛れもない事実であった。
ネッコアラもまた、いつか出会うであろうエンジとの夢を見続けてくれていたのである。
「おかえり……ネッコアラ!」
そんなネッコアラと改めて視線を交わすと──二人は家族監視の中もお構いなしにキスをした。
そうしてネッコアラとのキスを交わしながらエンジは今度こそこれが夢ではないことを神に祈る。
──否、もし夢であったのだとしても、目覚めたその時にはまた彼女に会えることを祈った。
二人の夢物語は今、ここに収束したのだった。
【 眠る玩具のネッコアラ・完 】