僕は男の人を見下ろしていた。
仰向けにされたその人は今にも事切れそうなか細い呼吸を繰り返していて、その全身は所々が傷や血糊で汚れていた。
胸元を広範囲に変色させた皮膚と創傷や咬傷を思わせる傷口は荒々しく噛み破られ、その下から骨の断面を覗かせたそれらからは今も緩やかに出血が続いている。
表面上でこれほどの状態というのだから、おそらくはその内部である骨や内臓にも深刻なダメージがあることは、今の容態と併せて見ても間違いないだろう。
ともあれ、もはやこの人が死んでしまうのも時間の問題に思えた。
そんな彼に必死に呼びかけては元気づけようとする声が聞こえる。
悲壮な中にも聞き覚えのある澄んだ響きの声はそう……オーガポンのものだ。
同時にその時の彼女の心情もまた僕は察することが出来た。
いま目の前で死に逝かんとしている人は、とある騒動に巻き込まれたことを切っ掛けに好からぬ輩(ポケモン)達からの襲撃を受けたのだ。
そしてそのことを知ったオーガポンは、激情に駆られるがあまりこの人の治療よりも先に復讐を優先させてしまった。
果たして報復は遂げたものの、いざ我に返り状況を冷静に確認した時……既に大切なこの人は救うこと叶わない状態に陥ってしまっていたのだった。
そんな目の前の彼に縋りながら何度も自分の馬鹿さ加減を悔いては謝り続けるオーガポンに、彼も小さくかぶりを振る。
『悪いのはあのポケモン達であって、お前は何も悪くないよ』──そんな優しい言葉もまた掛けてくれるのだがしかし、その変わらぬ優しさが今は何よりもオーガポンを苦しめてしまうのだった。
彼女を激しく責め立てている理由のひとつには、オーガポンにはこの人の傷を癒せる手段があったということだった。
それにも拘らず自分は復讐を優先させてしまった──あんなくだらない連中に意識を向けてしまったが故に、結果として最愛の人を失う羽目となってしまった……その事が彼女を、自分で自分を赦せない状況へと追い込んでいた。
やがては夜明けを待つこともなくその人を看取り、オーガポンは絶望の淵へと落とされる。
過ぎ去りし日に『もし』などは無い。
今日をどんなに悔いたところで過去を変えられる術などはこの世のどんな存在とて持ちわせてはいないのだ。
絶望の日々を涙に暮れながら、だからこそオーガポンは決意した。
もし再びに大切な人が目の前で傷ついていたら、その時は全力を尽くしてその者を癒してやろう──と。
こんなことは二度と繰り返してはならないのだ……そう誓いながらもその実、誰よりも身近な自分自身の心の傷を癒せずに涙するオーガポンを、僕はとても可哀そうに思った。
今すぐにでも駆け寄って抱きしめてやりたいと思った。
気休めでもいいから「君のせいじゃない」と声を掛けてあげたかった。
それでもしかし傍観するばかりの夢の中ではそれも叶わず、やがてすべての情景は白く霞んでフェードアウトしていく。
遠ざかるオーガポンの小さな背中を見送りながら、僕はたまらなく彼女への慕情が募るのだった……──
目が覚めた時、僕達は昨日の姿のままだった。
仰向けに寝る僕の上には、胸板に横顔を付けたオーガポンが寝息を立ててはヨダレの染みを室内着の上に作っている。
そんな彼女を確認した瞬間、愛しさが募っては抱き締めるべくに折れた右腕を僕は上げようとした。
骨折に加え全身打撲の重傷も負っているとあってはその行為ですら苦痛ではあるのだが、それでも僕はお構いなしに体を動かす。
それら痛みを押してもなお、彼女を愛撫してやりたくなったのだ。
だけどしかし……
「……あれ? 痛くない、ぞ?」
一切の痛みも無く、それどころか羽根のように軽く持ち上がる自分の右腕に僕は違和感を覚えた。
加えて左腕もまた動かしてみれば、これもまた難なく持ち上がってはオーガポンの背の上で右手と組み合っては彼女の背を抱けた。
体の異変はそれだけではない。……っていうか、この場合は『正常』というべきなんだろうか?
ともあれ、昨日まで僕を苛み続けていた体の痛み──ひいては体中の怪我は、小さい痣から重症のものでは骨折に至るまで、この体の傷はその全てが回復していた。
そして同時に気付く──。
昨日までに至る一連のオーガポンの奇行は、その全てが治療の為の行為であったことに。
昨晩の夢において彼女の記憶にシンクロしたことで、僕にはオーガポンの能力とその思惑が全て理解出来ていた。
僕の体の上を歩き回っていた行為は傷のクールジングやホットパックの目的以外にも、傷の度合いや種類を確認する為のものだった。
数回のそれで僕の症状を把握するや、そこから彼女はこれを癒すべくに僕の代謝を上げる為の謂わば『薬』を体内で調合しだす。
そうして与えられた物こそが──あの芳醇な果実味溢れるオーガポンのオシッコだったという訳だ。
後になって知ったことだけれど、昔話の中にも自分の排泄物を薬や滋養の有る食料として提供する内容の話がたくさんあって、それらはおそらくこのオーガポンが施してくれたものと同じ種類のものなのだろう。
さらには僕の体の中に溜まる毒気や疲労もまたオーガポンは取り除いていた。
それこそが彼女の蹠のマッサージにて体外へと放出されていた射精であったのだ。
彼女を介して行われていたあの行為は単なる放精に限らず、肉体内に滞留していた物的霊的を問わぬ全ての不純物を抜き取る効果もあった。
毎回射精のたびに感じていた虚脱と脱力は、それらが大量に抜き取られることで感じる喪失感であったのだ。
そしてその治療の締め括りとして──オーガポンは性的なまぐわいを僕と果たした。
この行為で彼女は自分の生命力を直に僕の肉体へと注ぎ込み……その結果、僕は今日の奇跡的な回復を得るに至ったのだ。
しかしこの時の僕の心にはそんな自分の快気以上に強い気持ちが溢れていた。
それこそは──
「あぁ……オーガポン!」
遂に僕は彼女を抱き締める。
『んがッ? んん……ぽによ?』
背を締め付けるこの感触に覚醒してオーガポンもまた寝ぼけ眼を上げる。
今の僕の胸に満ちていた想いは彼女を愛しく思う気持ちとそして、たった一晩の別れではあったけど、今こうして再び出会えたことの喜びだった。
「ありがとう……僕のそばに居てくれて。また戻ってきてくれて、本当にありがとう……ッ」
恥かしいくらいに感極まっては、いつか僕はあふれる涙を抑えることが出来なかった。
おそらくはあの夢の中で見た男の人と感情がごっちゃになってしまってるのだろう。
それでもしかし構わない。
なぜならいま彼女に対して抱いているこの気持ちは間違いなく本物であり、そして誰でもない僕の想いなのだ。
そんな僕からの抱擁に応えるよう、
『ぽにおー………』
オーガポンもまた全身で抱き返してくれた。
その瞬間、開けたままになっていた窓から吹き込んだ風が大きくカーテンを孕ませた。
長い旅路の果てに今ようやく、僕は彼女と巡り会えたような心地がした。
【 鬼娘の蹠・完 】