第1話・災いに寄り添う者
背から重力が消えた瞬間、俺は死を直感した。
今までの人生においてこれ以上も無いほどリアルに、そして決定的にそれを確信したというのにその瞬間は妙に冷静であったのが我ながらに滑稽だった。
その山は国境を跨ぐ山塊の4000m蜂で、過去には数多のクライマー達を飲み込んできた魔性の地としても知られていた。
かく言う俺もまた、そこでの登攀の最中この悲劇に見舞われたのである。
雪庇に気付くことなく氷の庇を踏み抜いてしまった俺は、そのまま氷塊のクレバスへと直下した。
時間にすれば数秒程度であったろうその中において、妙に冷静に現状を分析していた俺は実に様々な事へ思いを馳せた。
自身のヘマを悔い責めるのは元より、失態を冷静に分析する諦観や、果ては今朝食べた食事内容の反芻とさらには今日の夕食(ゆうげ)に気を回す場違さに至るまで、実に雑多な情報や感情が一度に去来しては流れ去っていった。
そんな走馬灯とも取れる情報の中に最後、一人の女性の顔が思い浮かぶ。
その目鼻立ちを思い出せたことに場違いにも心が和んだ次の瞬間──激しい衝撃を背に受けて俺の意識は暗転した。
しばしして覚醒を果たした時、俺は仰向けに遥か上空で小さく切り取られた空の一部を見上げていた。
しばし困惑もしたが、それでも起き上がろうと体に力を込めた瞬間、背に走る激しい痛みで俺は呻きを上げる。
痛みも然ることながら全身が痺れて動けない。
依然として見上げる氷の渓谷にはその所々に、出っ張り(テラス)が点在しているのが見受けられた。
どうやら、あの箇所箇所に体をぶつけながら俺は落下してきたらしい。
それにより勢いが相殺され、さらに背からの着地に際しては背負っていたザックがクッションとなって一命をとりとめたようだが……この状況で九死に一生を得たことはむしろ、これ以上に無い残酷な未来を突きつけられたにも他ならなかった。
まだ興奮冷めやらぬ肉体は激痛に苛まれつつも痛みの発生源が曖昧で、今この肉体に負った正確な傷を判断するのが難しかった。
各部の骨折は免れぬであろうが、それが一体どの範囲まで及んでいるものか判断がつかない。
いずれにせよクレバスの谷底にいる状況とあって、仮に利き腕や足のいずれかの骨折が判明した時点で俺の死は確定する。
それらの支え無しに、この谷底からの脱出などは不可能だからだ。
今はただ、全身を覆う曖昧な痛みと痺れとが取れるまで寝ているしかない状況に、俺は幾度となくため息を湿らせた。
落ちた瞬間よりも、むしろ生を意識している今の方が恐怖を強く感じしてまう。
同時に、将来に対する不安に苛まれるのは山も街も変わらないのだと気付くと、思わず俺は自嘲して白い吐息を不規則に乱してしまうのだった。
そんな折り──音が聞こえた。
渓谷の下、一切の物音が遮断されたそこには鐘の余韻さながらの空気の張り詰める感覚が鼓膜に満ちていたが、その中へ明らかに異質となる『砂利を踏みしめる足音』が聞き取れたのだ。
幻聴の類であることを願うもしかし、一定の間隔で響き渡るそれが、俺以外の第三者の物であろうことは疑いようも無かった。
静寂の渓谷に響き渡るそれへ得も言えぬ恐怖を憶えつつ俺は、唯一可動可能な首を振り回しては忙しなく周囲へと視野を展開させる。
自身の恐怖が作り出す幻影であってくれと、もはや神頼みにすがる俺の視界はしかし……無情にも望まざる『第三者』の姿をそこに捕えてしまう。
堅い氷の足元に硬質の爪を打ち鳴らしながらゆっくりと進んでくるそれは──一匹のアブソルだった
白を基調とした毛並みの中、その尾と側頭部からは鋭利な刃物然とした突起物が群青の鈍い光を反射(かえ)している。
青みがかったその面は動物にしては鼻頭が低く、加えて丸みを帯びた頬の輪郭と相成っては、人間の顔の様な印象をそこに憶えて不気味にも感じた。
ポケモンに関しては興味の薄さから皆目種別の見当もつかない俺ではあったが、この『アブソル』に関しては別である。
俺達『山屋』には、このポケモンに関する数々の良からぬゴシップが存在するのだ。
曰くそれは雪崩の直前に現れるや、登攀者が事故に遭う場所はその大抵がアブソルの通り道であるなど、言わば災いの先触れとして語られるのがこのポケモンなのである。
それが今この時、そしてこの場所に現れたことに……ついには俺も自身の終焉をここに確信する。
やがてはそんな俺の元まで辿り着くと、アブソルはその表情を変えることなく鼻先を立てては幾度となく俺の全身を嗅いで回った。
警戒心が無いのはけっして野生動物特有の人ズレの無さからではなく、コイツは俺が動けないことを完全に把握しているからに他ならない。
おそらくは俺がここへと落下してきた瞬間から、物陰より一連の様子を観察していたのだろう。
そうして負傷を負った俺が満足に身動きとれぬことを確信しては、いよいよ近づいてきたという訳だ。
そしてそれを行動に移す理由それこそは……
「俺を……食おうっていうのか………」
エサの選定──氷に閉ざされたこの世界において、70㎏分の肉が身動きも取れずに転がっている状況など、このアブソルにとっては僥倖以外の何物でもない。
俺からの語り掛けに驚いたのか、目を見開いて正面から俺を見つめてくるアブソルにはこの時初めて感情らしいものが見て取れた。
それと同時──俺はそんなアブソルの顔の中に思わぬ人物の面影を憶えては息を飲む。
しかしそんな感傷を俺はすぐに振り切った。
死に直面していよいよ困惑の度合いが増してきたことを実感しては再び自嘲する。
今この段に至っては、全てが詮無いことだ……どうせ食われて終わるのだから。
もはや喉を反らせては天を仰ぐと、俺は両眼を閉じて一切の抵抗を止めた。
そもそもが身動きとれぬ状況ではあるのだが、それでも完全に生の放棄を決め込んだ俺は捨扶持にアブソルへ身を晒したのである。
願わくば苦しまないように仕留めてほしいなどと考えていると、案の定にアブソルは俺の体へと牙を立て始めた。
しかしながらそれはザックの肩紐を噛み締めているらしく、音を立ててはそれを食い破るとアブソルは俺からザックを分離させる。
次には足元へと回り込んで防寒着の裾を噛みしめるや、その小柄な体躯からは信じられぬ力強さで俺を引きずり出しては地へと水平に寝かせた。
そして再び頭の元へと戻ってくると──アブソルは互い違いになる様に俺の顔を覗き込んだ。
しばし物珍し気に観察してくるそれと視線を交わした後、アブソルは俺の襟首を噛みしめそのまま引きずり出しては移動を始める。
一連のコイツの行動をいぶかしんではいたがなんて事はない……どうやら落ち着いた場所で俺の吟味をしたいのだ。
巣にでも連れて行くかれるものか、いよいよもって絶望が心を占めると俺は瞳を閉じ──
後はただ、成り行きに身を任せるばかりだった。