現在こそ全体の児童数は減少しているが、この校舎も過去には1000人近い生徒を有した歴史ある建物である。
その内部構造は広大で、今リン達がいる一角は日常の学校生活では日頃訪れることも無い、いわば教職員達によるバックヤード的な棟であった。
それ故に見慣れぬそこは異界の如き気配と違和感とが感じられ、張り詰める緊張感からリンも生唾を固く飲み下してはドアノブの握り玉に手を掛ける。
子供には大きい大人用のそれを不器用に回すと、内部のラッチが外れドアは錆びた蝶番による虫の鳴き声のような音を立てて開く。
夕刻とあり、傾いた陽の差し込む室内は明と暗によって上下を隔てていた。
足元は差し込む陽によって明瞭とされているのに、それが頭にまで登ると途端に視界は切り取られたかのよう鋭角な闇に包まれてしまう。
そんな部屋の中、土間から靴を脱いで上がり込む四畳半の中央には足の低い円形の座卓が一基行かれていた。
そしてその先に──
[……居たぞ]
パオジアンの警告を受け、その座卓の正面に座る人物を確認してはリンも緊張に身を強張らせる。
目の前のそこ──座卓を挟む正面には影法師が一人、向かい合うリン達を見上げるようにして座していた。
サッシ窓を背に夕陽の逆光を負ったそれは、その全体に色濃く影が落ちては人型であること以外の一切の判別を出来なくさせていた。
それが大人や子供、ひいては男女であるのかの区別すらも判断出来ぬ状況で、少しでも視覚による情報を得られやしないかと目の前のそれに注視していると……
『何を緊張している。座り給え』
影法師が声を発した。
高く澄んだ高音のそれ──しかしながら声の質は同時に深く落ち着いてもいて、男女の判別を明瞭とさせないその響きになおさらリンは困惑を覚えた。
そして依然として目の前にそれを見据えたまま注意深くリンもまた腰を下ろすと──ようやくに二人は同じ目線での対面を果たす。
燃えるような色合いの室内の中、斜陽を背に受けた影法師と、それを正面から受けては全身を緋色に染め上げるリンとの対比は今回の事件の性質を象徴するかのような対極さを此処に表している。
追う者と追われる者、裁く者と裁かれる者、現世と異界、明と暗──その場にいるだけでリンは眩暈に似た感覚に襲われる。
ありとあらゆる思考や事象が溶け合い交じり合いをして、やがては自身を見失うかの如く感覚は最大限の恐怖であると同時、どこか蠱惑的でもあってふと──リンは、このままそれに身を委ねてみるのも悪くはないかという思考へと陥る
そんな幼い精神を引き戻したのは、
[リン……意識を保て。既に奴の手中ぞ]
内面に響くパオジアンの声へ過敏に反応しては我に返る。居眠りを窘められた生徒さながらの反応で背を伸ばすと、リンは改めて影法師を正面に見据えては大きく止めていた息を吐いた。
そうしておそらくは目の前のそれと視線が絡むや、
『なるほど……どうやら君の中に『それ』はいるようだね。隠れ蓑として潜り込んだものか、それとも意図せずに飲み込まれてしまったものか……』
「あ、あなたの目的は何ッ? レノ君やシオン先生を操って何がしたいの!?」
もはや会話のやりとりなどは考えず、リンは率直に疑問をぶつける。
相手の会話に乗っていてはまた、どのような術中に陥れられるかも分からない。相手の力や能力は未知数ながらも、場のイニシアチブは自分に維持しておきたかった。
『私の目的はもう、半分は達成されているよ。パオジアン……私は貴方に会いに来た』
一方で影法師もまた応える。
同時にそれからの語り掛けにパオジアンもまた反応した。
[リンよ……しばし肉体を妾に貸せ。コイツと話がしたい]
密かに内面にて語り掛けてくるパオジアンのいつになく神妙な様子にリンも戸惑う。その様子は常日頃の享楽的で皮肉屋な語り口とは一変していた。
逡巡の末、リンはパオジアンの提案を聞き入れることとする。
主人格を彼女へと明け渡すとリンは──否、その肉体を手に入れたパオジアンは途端に顎先を上げては見定めるよう、そして見下すように正面のそれへと視線を投げかける。
「……何者ぞ、お前は?」
『ふふふ、やあパオジアン。やはり貴方だったね。他愛もない挨拶さ。こうして現世へと解き放たれた貴方へのね』
「お前が四災の何柱であるかは知らぬが無礼であるぞ。此処は妾の縄張りじゃ」
『──……全盛期の力を取り戻す方法があるとしたら?』
唐突な先方の語り出しに対し、僅かにパオジアンの目尻が引くつく。
一件噛み合わぬように思える会話はその実、同じ悩みを抱えるであろう二匹の間にはそれなりの意味と情報の共有を得ていた。
おそらくは目の前の四災もまたパオジアン同様に本来の力を失って現世への復活を果たした、いわば『成れの果て』であるのだ。
奇しくもパオジアンもまた、自身の中にあった神性を失ってしまっては人間であるリンの中において借り暮らしを余儀なくされている身である。
もし目の前の影法師が言う『力を取り戻す方法』があるのだとすれば、それは是が非でも聞きだしておかなければならない情報であった。
そしてその答えこそは、目の前のそれがパオジアンの前へ現れた理由と同じものであった。
『吸収するのさ……同格の者を。他の、四災を』
その瞬間──告げられる言葉が言い終えるやの刹那、パオジアンの右掌が影法師へと繰り出されていた。
掌そこには黒の刃紋を宿した刀身が現れており、斯様な右手は激しく座卓と、そして影法師のいた畳の座面をえぐり取ってはその砕片を宙へと舞わせた。
同時、金属音にも似た甲高い破裂音が幾重にも重なっては、斜陽の差し込む空間を星空の如くに輝かせる。
パオジアンの右掌が閃かされた瞬間──件の怪人は背後へと飛び退り、凶刃の一撃を避けると同時に窓のガラスを打ち破っては外部への脱出を図ったのである。
それを見定めては吸い上げるよう不快な響きで鳴らされるパオジアンの舌打ちが端整なリンの面を禍々しく歪ませる。
すぐさまパオジアンもまた床を蹴り上げ、今しがた影法師の脱した窓より外へ出ると──そこにてついに、一連の主犯であるそれの姿を明瞭に捉えるのであった。
[ッ──!? うそ……嘘、でしょ?]
その人物を確認し、内なるリンは驚愕のうちに嘆息する。
目の前にはその顔面を包帯で幾重にも包み込んでは、解れたその端を風になびかせる全事件の元凶である少年レノと──
『さあ、始めましょうか……ツェン・リンさん?』
そしてその背後において、さながらポケモンを使役するトレーナよろしくに腕組みした教師シオンが佇んでいた。