第1話・ヒトの子供
サケブシッポはいつだって怒っている──
怒り以外の感情など知らぬ。喜びや安らぎなど以ての外だ。
しかしながら反面、この矜持を保つがゆえに今日まで生き伸びて来れたのだという自負もまたあった。
下手に出れば付け入れられ、情を掛ければ足元をすくわれるのが世の常だ。むしろこのサバンナエリアにおいては、それくらいの気概でなければ弱者は軒並み強者の餌であった。
故にその深夜──聞いたことも無いような轟音で睡眠を妨げられた時も、当然の如くにサケブシッポは怒りに我を忘れては巣穴を飛び出した。
安眠を妨害された事実は元より、これが敵意ある第三者による襲撃の可能性だってある。
いかなる場合にも抵抗が出来るよう、臨戦態勢を以てサケブシッポは住処の周囲を窺ったのだった。
かの轟音の発生源はすぐに分かった。
遠く視線の先において小さな炎が揺らめいているのが発見できたからだ。
あそこに敵がいることを確認したサケブシッポは、その短い手足をばたつかせては転がるようにしてそこへと駆けつけた。
近づくほどに炎は大きくなり、そして周囲には可燃性のガスを思わせる不快な臭気が漂っていた。
近づくにつれて燃えている物の輪郭が鮮明になると、サケブシッポは一連の騒動の原因をそれとなく察するのだった。
やがては見上げられるほどにまで近づくと──目の前で火柱を上げているそれは横倒しに横転した一台のジープであることが確認できた。
当然ながら野生ポケモンであるところのサケブシッポにジープや自動車などの概念や知識なども無かったが、時折りこれに類する乗り物が縄張りの近くを闊歩しているのは幾度か目撃していた。
その際にも地を掻く轟音と威嚇にも似たエンジン音にはその神経を逆なでられてきた。
いつか痛い目に遭わせてやろうと思っていた矢先の目の前の光景に、サケブシッポはまるで自分がこれを打ち取ったかのよう雄叫びを炎の前に上げては、精一杯に体を広げてみせるのだった。
そんな折り──思わぬものを発見する。
最初それは、か細い鳴き声を聞き分けたことから始まる。
力無く悲痛な、おおよそ何らかの幼体が発するものではあろうが、他の動物やポケモンの子供が奏でるようなトーン高さはそこには無く、低い音階をくぐもらせるような不思議な響きだった。
その発生源を突き止めようと件の火柱の周囲を探ると……炎を挟んだその対面に『それ』はいた。
『それ』は──人間(ヒト)であった。
しかもその姿形が自分の知る人間の個体よりも遥かに小さくて華奢である。
同時にサケブシッポは理解する──これは『子供』であるのだ、と。人の子供が一人泣いていたのだ。
そのあまりの物珍しさと聞き慣れぬ声にしばし我を忘れては見入っていると、やがてそんな自分の気配に気づいたのか、その『ヒトの子供』は泣き伏せていた顔を上げてはサケブシッポを見上げた。
涙に濡れた黒い瞳が傍らの炎を取り込んでは艶やかに瞬きをした瞬間、サケブシッポは己の不用意さを戒めた。
何らかの攻撃をされた──その実感を得たのだ。
でなければこんなに胸が苦しくなるはずがない……こんなにも目の前のこの子供をどこかへと連れ去りたい衝動に駆られるはずがない。
しかしながら当人はというと依然、困惑と恐怖から脱し切れていない様子で幾度となく嗚咽に喉をしゃくりあげると、
「パパとママはどこ? 大きい音がして気がついたら誰もいないの……体も、いたいのぉ……」
なにやらヒトの言葉で語り掛けてくるそれを前にサケブシッポもまた、踏ん切りがつかぬまでも肉体に力を充満させる。
今ならばまだ肉体の自由が利く──今のうちに眼の前のこれを仕留められれば、この全身を包み込む、高揚感にも似た体の疼きも治まるはずだ。
しかしながら反面、ひどく躊躇ってもいた。
そうして踏ん切りがつかぬままに見つめ合いながら、幾度目かの膂力を前足に込めたその瞬間──突如として、鬣然とした尻尾に感じた気配にサケブシッポは面を上げる。
背中にはひりつくような気配が中てられていた。
こちらは覚えの有り過ぎる感覚だ。
剥き出しの好奇心と食欲、それらを隠しようもない殺意に包み込んだそれは──グラエナの集団から発せられるものである。
その数も10ではきかない……おそらくは群れのグループが幾つか、この騒動を嗅ぎつけては集結しつつあるのだろう。
しかし幸いなことにはまだ、奴らはサケブシッポ達には気付いていないということであった。
その状況を前にしてしばし考える。
自分が手を下すまでもなく、この場からただ立ち去るだけでこの子供はグラエナ達の餌食になることだろう。
そもそもが直接の関わり合いがあるわけではない。早々にここを立ち去り寝直そうと決めたサケブシッポは最後に目の前の子供へと一瞥をくれた。
しかしながら、それこそが間違いであったのだ……。
「ひどりに゛しないでぇ……い゛っしょにいてぇぇ……ッ」
威嚇する獣のように顔面をしわくちゃに泣き崩してはそう懇願するヒトの子供を目の前にした瞬間──サケブシッポの全ての思考が飛んだ。
次に我へ返った時にはもう……サケブシッポは背中にあの子供を背負っては場を後にしていた。
自分は何をしているのか……──騒動の場から離脱をしながらもしかし、サケブシッポは自身へと激しく問いかけ続ける。
当然ながらその問いに答えてくれる者などは無い。
そんな今までに経験したことも無い思考の堂々巡りに強く苛立ちを覚えるサケブシッポではあったが………
背に感じるヒトの子供の重みと体温の心地良さに、そんな疑問もすぐに彼女の頭からは消え去ってしまうのだった。