サケブシッポがその体調を危惧した数日後──アメリはにわかに発熱した。
その後も咳が止まらない状態が続き、さらに二日が経過する頃には自力での歩行すら難しい状態へと陥っていた。
今も荒い呼吸のまま眠れずにすらいるアメリを、傍らでサケブシッポはただ見守るばかりである。
「アネキぃ……苦しいよぉ……そこに居るの? 手を握ってぇ………」
力なく小さな右掌が空を握ろうと指の節々を曲げる様子に、サケブシッポは自身の前足を握らせてやるとさらにその手の甲もまた残る前足で包み込む。
息苦しく紅潮する頬元に加え、大量に発汗している様子から熱もまた上がってきたようだ。
その後もサケブシッポは水に濡らしたイチジクの葉を頭部へ張り付けたり、はたまた口移しに水など飲ませては看病を続けたが……遂にはアメリの症状が自分の手に負えないことを察し、一つの決断を余儀なくされた。
背越しに巣穴の入り口を一瞥する。
夜の闇が満ちては星すらも見えない今宵はまさに今の自分達の行く末を表しているような夜であった。
そしてアメリはこの一夜を越えることは叶うまい……。
しばし苦しむアメリを見下ろし続けていたサケブシッポではあったがついにその決断を下す。
酷とは思いながら眠っているとも、はたまた熱によって意識が朦朧としているとも取れないアメリを抱き起すと、サケブシッポは液体のように脱力したアメリを頭の上に担いだ。
傍目から見たその姿たるや、アメリを帽子や上着のように頭上に這わせた格好である。
そうしてアメリが落ちないよう自身の尻尾もまたその体に巻き付けて固定してやると、サケブシッポはゆっくりとした足取りで巣穴から出ていくのであった。
そのまま暗い夜道を二人は行く。
常日頃においても、頭上にアメリを乗せてこの道を行くことは二人の何気ない日常風景ではあったが、今宵のこの道はまったく知らない光景のよう熱に浮かされたアメリの目には映っていた。
「アネキぃ……どこに、いくのぉ………」
そのことが不安になって息も絶え絶えにそれを尋ねれば、サケブシッポはそれに応えたのかはたまた気まぐれか、歌うように声を上げた。
吼えるようなこの甲高いサケブシッポの声がアメリは好きだった。
平素怒っているような表情と仕草から発せられるこの声もしかし、実はそこに込められている彼女の優しさと思いやりをアメリはちゃんと汲み取っている。
この荒々しい歌を聞いている時だけは、全ての苦しみから解放されるようだった。
しばししてその歌が止み、そして歩みもまた止まると──再び胸の奥底から込み上がってくる悪寒に苛まれてはアメリも意識を取り戻す。
顔を上げて周囲を見渡せばそこは、何処か小高い丘陵の頂点にいることが分かった。
そこから見渡す地平線のかなたには、既に夜明けも近いのか光の帯によって藍の空と黒い大地とが二分されている様子が窺えた。
そして見下ろす丘陵のその下には──小さなログハウスが見て取れた。
建物の中に光は見受けられなかったが、その傍らにジープと思しき車両が停められていることからも中には誰かしら人がいるであろうことも伺える。
しかしながらアメリにはまだ、自分がここへと連れて来られた意味が分からない。
ただその頭にしがみ付いてはそれを見下ろし続けていると──突如としてサケブシッポは咆哮を上げた。
高く響き渡るそれは今までにアメリでさえ聞いたことも無いような大音響で、その勢いたるや宵闇ですら打ち払われそうな勢いで奏でられた。
長く一声を発し終えると、しばしして見下ろす建物の中に明かりが灯る。
距離がある故に鮮明ではないが、建物の窓の向こうに幾人かの人影が行き交う様子が見て取れた。
しばしして出入りの為のドアと思しき壁の一面が扇に開くや、建物の中から人間の大人が出てきては周囲を窺う様子が見てとれた。どうやら女性らしい。
その一連の光景を荒い呼吸のまま見守り続けていたアメリではあったが、腹の下に敷かれていた尻尾がふいに浮き上がるや、それに持ち上げられるようにしてアメリは地上へと降ろされた。
前傾に身を倒し、辛うじて立ち尽くすアメリはこれから事態ががどう展開していくのかの予想がまったくつかない。
ただサケブシッポのことを呼んでは不安げに彼女を見上げたアメリは──そこに思わぬものを発見しては息を飲んだ。
そこに居たサケブシッポの顔は、一変していた。
瞳孔から発せられる黄金の輝きによって眼球そのものが発光していた。
目の表情が消えることでサケブシッポの顔面には、得も言えぬ禍々しさが満ちている。
そしてその様子を不安に思い身を震わせるアメリに対し、サケブシッポは再び声を発した。
身の奥底から絞り出されるようなその声は、明らかな威嚇を込めたものだった。
もはや攻撃然として立て続けに浴びせかけられるそれに、困惑しきりのアメリは幾度となく目の前のサケブシッポへと語り掛ける。
「どうしたのぉ……なんで、そんなことするの? ……アネキぃ、やめてよぉ……」
しかしながらそんなアメリの悲痛な訴えにもサケブシッポは動じない。
それどころか牙すらもむき出して更なる勢いを増すその声を前に、遂には本能的にもアメリは一歩後退った。
今サケブシッポより掛けられものは、完全に敵対者へと向けられる声そのものだったのだ。
「やめてぇ……ごめんなさい、ごめんなさいアネキぃ……あやまるから許してぇ……」
病により身が弱っていることも手伝い、アメリは深い悲しみの中でなおもサケブシッポへと縋ろうとする。
短い時間ではあったが、自分達は間違いなく心を通わせた家族であったのだ──そのサケブシッポからの仕打ちに対し、ただアメリは絶望に打ちひしがれては必死にすがりつこうとした。
それでもしかしサケブシッポはそれを受け入れない。
一息吸い込んで身を脹らませるや、再び怒号と共に吐き出したそれをか弱いアメリへと浴びせかけていく。
もはや話し合いが通じないことを悟ったアメリは声を上げて泣き出した。
悲痛にただ泣くだけしか出来ない非力な子供に対し、それでもサケブシッポは威嚇を止めない。
遂にはそんな怒号の圧に弾き出されるような形でアメリは一歩を踏み出すとサケブシッポから離れ、丘陵の下のログハウスへと歩み始める。
見れば建物からも、先の住民と思しき女性が異様なサケブシッポの声と、そしてそれに晒されているアメリを発見してはこちらへと近づいてきているのが確認できた。
アメリが再びこちらへと戻ってこぬよう、サケブシッポはなおも去りゆくアメリの背へと声を出し続ける。
一声を発するたびに、サケブシッポの脳裏にアメリと過ごした日々が思い出された。
あの炎の夜に彼女を連れ帰った時の葛藤や、その後を共に過ごした日々の発見や煌めき──……そんな溢れ出る想いを乗せて絞り出されるサケブシッポの声はいつしか威嚇の怒号ではない、懇願の悲鳴へと変わっていた。
『いかないで』『戻ってきて』『一緒にいて』『さよならなんてしたくない』──ありとあらゆる感情を吐き出すサケブシッポの声は、もはや原型すらとどめずに大きく震えては悲し気に歪んだ。
やがて遠い視線の先ではその声に背を押されて重い体を引きずっていたアメリが、出迎えた人間の女性によって抱き留められるのだが確認できた。
そんな二人の姿を見届けるや──サケブシッポは再び強く悲痛に、最後の別れを吼え猛るのだった。
『いったい何事だいジェリーッ?』
『人間よ、ヒトの女の子。あの声のポケモンの元から逃げ来たみたいなの』
腕の中のアメリを覗き込んでくる夫・マーカス・コーウェンに対し、サバンナ保安官でもあるジェリー・コーウェンもまた戸惑いを隠せない様子で頷いた。」
つい先刻、異様なポケモンの叫び声に睡眠から起こされた二人は、なおも響き続けるその声に異常を察知しては着の身着のまま外に飛び出してきたのである。
そうしてジェリーの目に映った光景は……──かの少女・アメリが何者かポケモンに威嚇されては力なくこちらへと歩んでくる光景であった。
急ぎその元へ駆けつけアメリを抱き留めるや、一際大きく悲痛な叫び声を最後に……そのポケモンの声はピタリとなり止んだ。
遅れてそれがいたであろう場所を見上げるジェリーではあったが、小高い丘陵にはその盛り上がった地平線に朝陽の陽光が逆光に照らし付けるばかりで、そこに何者の姿も発見できなかった。
『それよりもマーク、大変よ。この子、すごい熱だわ』
『分かった、すぐに麓の病院まで車を出そう。それにしても……いったいどういう夜なんだこれは?』
腕の中に彼女を抱き直してはジェリーが立ち上がると、その振動に反応したのか腕の中のアメリが小さなうめき声を上げた。
『あなた、大丈夫? もう心配しなくていいわ、すぐにお医者さんの所へ連れて行ってあげるからね』
「はぁはぁ……キ…‥‥ア……ネキぃ………」
もはや自身への呼びかけに反応しているものやら、うわ言のよう何かを繰り返すアメリの口元へとジェリーは耳を寄せる。
「ごめんなさい……アネキ………すぐに戻るから………ゆるして……ごめんねアネキ………」
辛うじて単語らしきものをいくつか聞き取れはしたものの、そこに込められた意味をジェリーが察するにはあまりにも情報が足りなかった。
そうこうするうちにマーカスがジープを駆っては二人の元へと辿り着き、そのまま一行はサバンナを後にした。
陽炎のよう、暁に地平が燃えるサバンナにはもう──誰の姿も残されてはいなかった。