第1話・森で遭う者
当初の些細な見誤りはやがて、抜き差しならない状況へと変わった。
とうに陽も落ち、やがては一寸先すら見渡せなくなるであろう秋口の黄昏を控え、この時初めてピークは己の認識の甘さを悔やんだ。
ピークはこの森の狩りで生計を立てる猟師だ。
両親は共におらず、気付けばいつしかこの仕事についていたという、まだ十代も初めの少年である。
それゆえに猟場であるこの森を知り尽くしていたピークは、その日思わぬ転倒で利き足を捻挫した時も、特に事態を深刻には捉えなかった。
今にすれば、軽くとも怪我を負った時点で引き上げるべきであったのだ。
しかしながらその時のピークはそれでも幾ばくかの猟果を求め、せめて罠の設置だけでもと森を進んだ結果……遂には遭難の憂き目に遭い、今へと至るのである。
それでもしかし、この程度の深層までは幾度となく足を運んだこともあったことからも、なおさらピークは今の状況に戸惑わずにはいられなかった。
人は得意分野でこそ大きな失敗をするというが、正になまじ見知った場所や狩りでのミスであるが故に、そこに覚える動揺は幼いピークを強く煽っては、冷静な判断を出来なくさせていたのである。
「あぁ……またここかぁ」
今もピークは森の中を堂々巡りしてた。
そのつど歩む方向は変えているというのに、この日のピークは幾度となく、この一際大きいブナの木の元へと戻ってきてしまうのだった。
遂には周囲も一切の視界が利かぬ闇に閉ざされると、ピークはその日の脱出を諦めて、件のブナの根元へと座り込んだ。
一息ついて手持無沙汰に負傷した右足首へ手を添えれば、瞬間に頭へと突き抜ける激痛に眉をしかめた。
骨折ほど深刻な状況ではなさそうだったが、無理を通して歩き回ったせいで患部はすっかりと腫れ上がってしまっている様子だった。
加えて手元には火を起こす道具すらも無く、ただ一張の弓矢と小さなナイフがあるだけという自分は、今この暗闇においては誰よりもひ弱な存在に感じられた。
もし猫科獣や野犬の類のポケモンに襲われれば、視界の利かぬこの森の中ではひとたまりもないことだろう。
今夜はこのブナを背にしながら、寝ずの一夜を明かす覚悟で重くため息をついたその時であった。
『……──もしかして、お困りですか?』
不意なその声に驚いてピークは両肩を跳ね上がらせる。
その声自体には優しく暖かい響きがこもっていた。
女性の、しかもまだ響きに重みの無い少女の物と思しき軽やかさが感じられる声だった。
だがそんな声にもしかし、ピークの不整脈は今の暗がりと相成ってはこれ以上に無いほど不規則かつ強いものとなっていた。
正直言って、ピークはこうした展開が苦手だ。
常々ピークが感じる森の恐ろしさには二種類あって、一つは弱肉強食の生存競争下において強い緊張を伴う『外的』なもの。
そしてもうひとつは霊的現象とも言われる、オカルティックな展開……有体に言うのならば、ピークはオバケが怖いのだ。
だからこそ、こんな一人きりの闇の森に聞こえてくる少女の声などは、これ以上に無くピークを委縮させた。
しかしながら斯様にピークを刺激したのもあの声ならば、彼を慰めてはリラックスさせたのもその声であった。
『あ……ごめんなさい。突然話しかけたりして怖がらせちゃいましたか?』
気遣わしげなその、物腰柔らかい声にピークの恐怖は途端に霧散する。
声のトーンも然ることながら、おおよそ人間同士と思われる会話のニュアンスに立ちどころにピークの中の『内的』な恐怖は払しょくされたのだった。
そうなるとまさにこの声の出現は地獄に仏だ。
「あの……実は足を挫いちゃって」
ここに至るまでの心労もあってか、我が身の窮状を訴えるピークの声は涙声と疑わんばかりに上ずった。
それを聞いて、依然闇の向こうにいるであろう声の主もまた緊張に息を飲む気配が窺えた。
『大変! 歩けますか? 私の家ならすぐそこなので、そこまで歩ければ宿もお貸しできますけど……』
「本当? もしよければぜひ……──」
渡りに船とばかり、声の少女の親切にあやかろうと立ち上がったピークはしかし──右足に感じる激痛に息を飲んでは身をよろけさせた。
そのままあわや転倒と思われたその瞬間──
『危ない!』
再び少女の声と共に、おそらくは飛び出してきたであろう彼女の手がピークを支えた。
被服越しに胸元へ生じる暖かい掌の感触と、そしておそらくは自分の胸元において肩を貸しては支えてくれているだろうその体温と彼女の香りに多感なピークは瞬間、痛みも忘れては斯様な『女の気配』に忘我してしまう。
──いい匂い……女の子だぁ……
久しく忘れていた第三者の、しかも女性との触れ合いによもや今回の遭難を僥倖とすら思い掛けたピークではあったが、その誤った認識はすぐに現実へと戻されることとなる。
否……あるいはこの時、ピークは『異界』へと足を踏み入れてしまったのかもしれない。
自分よりも僅かばかりに背の低い彼女を目下に、何も知らないピークのときめきはさらに大きくなる。
大振りな鳥の羽飾りをあしらった新緑の頭巾をかぶり込んだ件の少女……しかしながらその下に纏うコートと思しき羽毛のそれは、外套というには不可思議すぎるほどその表面を波打たせていた。
もはや風に揺れるなどという素振りではなくそれは、さながらにその柄の羽毛を持つ巨大な鳥の呼吸を体現しているかのような自然でなだらかな動きである。
この時になり再び、ピークの不整脈は不安に依って湿った鼓動を打ち鳴らす。
完全に硬直し、ただ眼球だけをその眼窩から零れ落としそうなほど下に向けては凝視するピークの視線の先で、件の少女もまたその顔を上げた。
『お怪我はないですか?』
そうして優し気に語り掛けてきては、おそらく微笑みと思しき表情を浮かべたのであろうが──それにピークが応えることは無かった。
次の瞬間には身を仰け反らせるとピークの意識は恐怖によって暗転する。
遠くで慌てふためく彼女の高く澄んだ声が聞こえていた……。
あの瞬間、自分の胸元に居た者は『人間』などではなかった──それはピークと等身大の、人語を話すポケモン(ジュナイパー)であった。