第1話・試験管ベビー
その時期、遺伝子工学博士ハイマン・キューンは仕事に没頭していた。
この研究所における彼の役割は遺伝子操作によって新しい特性のポケモンを生み出すことにあり、その時期のハイマンはなおさらプロジェクトに対し精力的であった。
元より妥協を良しとしない職人気質であったことも然ることながら、その頃は家庭に複雑な問題を抱えていたことも手伝い、それへの逃避行動としてなおさらハイマンは仕事に没頭していたのだった。
そのプライベートな問題とは妻や幼い息子との別居であり、離婚調停も既に結ばれたハイマンの家庭崩壊はもはや免れられないものとなっていた。
その原因は夫が家庭を省みずに仕事へと没頭することへの妻の不満であり、結婚前より蓄積されていたそれがこの段階に至って遂に実を結んでしまった結果であった。
当然のことながらそれについての話し合いも幾度となくされたが……それでもハイマンが生活を改めることは無かった。
否、彼においては『出来なかった』と言う方が正しい。
それというのもその才能と技術ゆえ、如何なるプロジェクトの時も彼はその中心において指揮を取らざるを得ず、結果ハイマンは家庭を犠牲にせざるを得なかったのだ。
とはいえそれは妻を説得させられる理由にはならず、いたずらに時は過ぎ──ついには先日書類上の離婚が成立しては、妻は息子を連れて住居を後にした。
一連の話からもハイマンは家庭を顧みない冷血漢のように取られるかもしれないがしかし、彼は彼なりに妻と息子を慈しみ、そして自身の小さな家庭もまた愛してやまなかった。
それでもしかし生来の気真面目さと責任感ゆえに、自分無くしては成立しない仕事の放棄などハイマンには出来なかった。
皮肉ながらこの傑出した才能ゆえに、ハイマンは自身の家庭崩壊を受け入れざるを得なかったのである。
そしてそんな傷心を癒してくれるのもまた仕事であった。
これに従事している間は、身に纏わりつく全ての煩わしさから解放された……そして仕事の合間に訪れる僅かな空白時間に自身の人生を哀れむ時、彼はそれすらも忘れる為に寝食をおして仕事へと没頭し続けたのである。
今現在そんな彼が抱えるプロジェクトは、とある特性を持ったポケモンの遺伝子操作とそれの人工授精にあった。
そして研究は恙無く進行してはその成果を結びつつある段階へと来ている。
今も目の前の人工子宮となる巨大なシリンダー内には、羊水の無重力下において両膝を抱えては眠るガブリアスがその頭を下にして浮遊していた。
本来であるならば三段階進化のガブリアスはフカマル・ガバイトの過程を経て進化するポケモンではあったが、いま目の前にいる個体はその進化を飛び越しては端から最終進化系のガブリアスとして生成されていた。
肉体の生育も順調で、遺伝子の不具合による欠損や過剰な細胞の増殖も見られない。
もはやここ数日で目覚めても不思議ではない状態にもかかわらずしかし……ガブリアスは一向に動き出そうとはしなかった。
強制的に覚醒を促すことは容易いが、データの揃わぬ現状ではそれがどのようにガブリアスへ影響を与えるのかも分からない。
それゆえに今ハイマンに出来ることは、ごく初歩的な『胎教』による学習を進めるより他はなかった。
少なくとも肉体的・脳波的な不具合は見受けられないのだから、あとはこのガブリアスが……彼女が目覚める瞬間を待てば良いとハイマンを始めとするスタッフは誰もがそう思っていた。
しかしながら新たな生命の誕生や進化が起こる時、そこへ何らしかのイレギュラーが発生してしまうのは創生の常でもある。
かのガブリアスの誕生と、そしてそれに伴う不幸な事故は、ハイマンにしてもまったく予想だにつかなかった展開を以て引き起こされてしまうこととなる。
その日、件の研究施設には夜勤の若い研究員が一人残されている状況だった。
従来この研究所には最低三人の研究員が待機し、有事の際には能動的に対処出来るよう控えているはずであるのだが、その体制にも唯一『空白』となる瞬間が存在する。
それは二交代であるシフトの繋ぎ目となる午前1時から3時までの二時間ばかりで、この時はガブリアスを見守る職員もワンオペレーションで勤務をこなさなければならない。
とはいえ緊急時の連絡網もシステム化されていたし、覚醒間際のガブリアスもまた安定期に入っていたこともまた、部所の緊張感を弛緩させる要因となっていたのだろう。
昨日来ずっと繰り返してきた夜勤同様に、当番の研究員もまた給湯室から戻りながら今しがた淹れたばかりのコーヒーを啜ろうとマグカップを傾けた瞬間──目の前に広がる光景に驚愕しては手にしていたそれを足元へ落とした。
途端マグカップは砕け散り、中に満たされていた熱湯が足を焼いたが、その刺激にも意を介さず研究員は眼を皿にしては目の前の光景に見入るばかりだった。
眼前の──本来ガブリアスが納められているはずのシリンダーは、その正面をくり貫いたかのよう鋭利に四方を断ち切られては其処へ空洞となった姿を晒していたからである。
気付けば足元はその破壊の際に溢れた羊水にまみれ、そこから脱したであろうガブリアスの足跡が点々とシリンダーから離れていった様を物語っている。
それらを前にして研究員の思考はすっかりパニックへと熱し上げられる。
件のガブリアスが何処へ消えてしまったのかは元より、このシリンダー自体も何かしら異常が見られた時には警報が鳴るように設定されているはずであった。
しかしながらそんな二つの問いはすぐに解明されることとなる。
ふと床に残されたガブリアスのものと思しき足跡は、シリンダーの傍らにあるPCへと向かっていたからだ。
誘われるようそこへと向かいモニターを見下ろした研究員は、そこにてシリンダー異常の通報を解除するコマンドがエンターされている痕跡を発見する。
キーボードは元よりデスク中がずぶ濡れとされたその様子は、信じがたいことながら生まれ出たガブリアスが自らこれの解除をしたことを物語っていた。
常日頃、ガブリアスを納めていたシリンダーが僅かな水圧や水温の変化により警報を鳴らすことは日常的なことであった。
その解除にはこのPC上のデスクトップに表示されている管理アプリのエラー解除をワンクリックあるいはエンターすることで納めることが出来るわけだが──信じがたいことに、かのガブリアスはそれを理解した上で自ら警報の解除を行っていたのだ。
『ならば……アイツはいったい何処に……?』
縫い付けられてしまったかのようPCの前に立ち尽くしては混乱しきりの研究員はその時──不意につむじへと覚えた冷感で我に変える。
針で刺されたよう反射的に頭へ右手を被せれば、掌にはねばつく液体の感触が広がった。
それの正体を判じかねては、目の前で水かきの様に指々の間に扇状の膜を粘着させたそれを眺めていると、やがて研究員の視線はゆっくりとそれが垂れてきたであろう天井へと向けられる。
この時研究員には予感があったのだ……。
それはホラー映画ではさんざんに使い回されたチープな演出であり、物語の序盤において無情にも暴漢の魔の手にかかる第一被害者の存在を連想していたのである。
だからこそこの時の研究員はまるで自分がその役を演じるかのよう、そんなセオリーに従っては視線を天井へと向けたのだった。
そしてその予想は──裏切られることなく執行されることとなる。
見上げるそこには、這うかの様に天井へと貼り付いたガブリアスが……首だけを振り返らせては目下に捉えた研究員へと口角から垂れる涎を浴びせていたからである。
その発見に叫ぶ暇も無かった。
次の瞬間には天井から剥がれたガブリアスに覆い被されては組み敷かれる。
そしてその二時間後──
憐れなる最初の犠牲者は、交代に現れた職員によってその変わり果てた姿を発見されることとなる。
全身の衣類を剥がれ、体の至る箇所へキスマークと歯形を刻み込まれた研究員が……自身の精液とガブリアスの愛液の液溜まりの中において、仰向けに放置されては息絶えていたのだった。